せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

秋の生田の森を歩いて(前編)

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ハロウィンの時期になり、秋の深まりを感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

生田神社

阪神神戸三宮駅から神戸の都心の三宮を歩くと、ビルの合間に神社があります。こちらの生田神社は神戸の街が今のような姿となるはるか以前からこの地に佇んできた古社です。

生田神社の楼門

鳥居をくぐると、朱塗りが鮮やかな楼門がそびえていました。

生田神社の歴史は非常に古く、日本書紀の記述にまでさかのぼります。神功皇后摂政元(201)年に神功皇后が三韓征伐の帰途にこの神戸の沖合を通りかかった際、船が動かなくなりました。神占をしたところ、稚日女尊が現れ自分を生田の地に祀るようにとのお告げがありました。そこで神功皇后は現在の布引山である砂山(いさごやま)に稚日女尊を祀ったそうです。これが生田神社の始まりでした。

東門街

生田神社の東側に続くのは通称「東門街」です。歓楽街のイメージが強いのですが、正式名称の「生田東門商店街」の通り、明治以降の生田神社の東門の前に連なる商店街が始まりで、明治時代にはこの場所に競馬場があったそうです。

生田神社の境内

生田神社の境内に戻ると、朱塗りが印象的な社殿が佇んでいます。

神戸の都心に鎮座する生田神社、次回も歩いてみたいと思います。

加古川の副都心へ・別府を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて別府を歩いてみたいと思います。

松風こみち

別府駅の山側に伸びる別府鉄道野口線の廃線跡は「松風こみち」として遊歩道に整備されています。鉄道が廃止されたのは昭和59(1984)年で、もう40年も前になりますが、今も鉄道の雰囲気が残されています。

一色

別府駅から山側へ向かって歩くと幹線道路の明姫幹線に差し掛かりました。現在では別府の町と一体化していますが、古い地図ではこの辺りは北別府一色という集落で別府の町とは分かれていました。沿岸の工業地帯が発展するにつれて別府の周辺では工場で働く人々の住むための住宅地が開発され、別府駅周辺から東加古川駅周辺まで住宅地が広がるようになりました。

一色構居

明姫幹線沿いにあったのが安養寺です。住宅地の中に佇む静かな寺院ですが、こちらはかつてこの地にあった一色構居という城郭の跡とされています。

ここ一色にあった一色構居は中世の城郭とされています。この城の城主の一色氏は赤松氏の一族とされていて、加古川や高砂に拠点を置いていた小松原氏の小松原時忠の三代孫の一色右馬頭時則なる人物が城主だったといわれています。ちなみに、地名や城主の苗字になっている「一色」一色田を指し、荘園時代に一種類(一色)の税のみを納める田でした。「別府」といい、荘園の課税に関わる地名が今も一帯に残されているのが興味深いですよね。

安養寺の宝篋印塔

安養寺の片隅に二基の石塔がありました。安養寺の宝篋印塔と呼ばれるこちらの石塔は室町時代初期に建てられたものと伝わっています。風雨に耐えて輪郭はおぼろげになっていますが、細かい装飾には高砂の石宝殿などに通じるこの地域の石造文化の技術を感じられるように思います。

安養寺の境内

幹線道路の明姫幹線に面し、住宅地の中にある安養寺ですが、境内はとても静かな雰囲気でした。

特急停車駅となることが決まり、今後は加古川市の副都心としてますます賑やかになる別府ですが、駅の周りには地名の由来にもなったはるか中世からの史跡が残されていました。

変わりゆく街並みを眺めながら、別府駅へと戻ることにしました。

加古川の副都心へ・別府を歩いて(前編)

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例年になく暑さが残りますが、少しずつ木々も色づいて季節の移り変わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

別府駅

山陽電車で着いたのは別府駅です。

ホーム延伸工事中

別府駅は2025年以降に特急停車駅となる予定で、高架上にある駅ではホームの延伸工事が進められていました。

別府といえば温泉地である大分県の地名を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ただし、ここ加古川の別府の読み方は「べふ」です。平安時代から鎌倉時代にかけて、開墾地など特定の土地に特例的に支配や徴税を認めるために国府などから徴税に関して別納の免符を交付された地域があり、別納免符を略して「別符」といっていました。この地は阿閇の村が別納免符を交付されていた開拓であったことから「別符」、そして、「別府」と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、大分県の温泉地の別府市も、その他の地域にある「別府(べっぷ・べふ・びゅう)」も多くは同様の由来です。

別府駅前の街並み

現在は普通車とS特急が停まるのみの別府駅ですが、駅前には大きな商業施設があり、飲食店なども建ち並んでいてとても賑やかな雰囲気です。

そんな歴史からわかるように、別府は農村と播磨灘に面した港町でしたが、近代に入り、別府出身の多木久米次郎が今の多木化学となる多木製肥所を創業し、ここ別府で人工肥料の生産を開始しました。さらに、戦後には神戸製鋼所加古川製鉄所が操業を開始し、一帯は一大工業地域となりました。そして、工業地域に隣接した別府は人口が急激に増加しました。多木化学の工場は後に移転し、現在は商業施設となっていますが、こちらの商業施設も周辺の買い物需要を取り込み、別府はさらに発展することとなりました。

別府鉄道跡

別府駅の山側に向かって歩くと、道路に斜めに交差する遊歩道がありました。こちらはかつてこの地を走っていた別府鉄道の廃線跡です。多木化学の工場で生産された肥料を運搬する目的で国鉄高砂線の野口・山陽本線の土山のそれぞれから別府へと敷設された鉄道で、旅客輸送もおこなっていました。鉄道があった当時の別府はまだのどかな雰囲気が残っていたようですが、現在は住宅や商店が建ち並ぶ市街地となっています。主力の貨物の取り扱い終了で別府鉄道も廃線となりましたが、今も残っていれば、通勤輸送で賑わっていたのかもしれませんね。

大きく変化しつつある別府をもう少し歩いてみたいと思います。

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて須磨を歩いてみたいと思います。

須磨の関跡碑

いなり坂を上った先、石垣の上に石碑がありました。須磨の関跡碑です。

関守稲荷神社

石碑の脇の階段を上がると、神社があります。こちらは関守稲荷神社です。

須磨の関は西国街道に置かれた関所の一つで、大宝律令にも定められた歴史ある関所です。須磨の関守のことを詠んだ源兼昌の歌は百人一首にも入っていて、よく知られていますね。実際の関所はどこにあったのかはっきりとわかっていませんが、ここ関守稲荷神社は関所の守護神とされていて、この場所が関所があった場所とも言われています。須磨の関は摂津の関、つまり畿内の西端の関所でした。古代には京都から比較的近い景勝地で、源兼昌だけでなく数々の歌に詠まれてきました。創作になりますが、こちらで隠遁生活を送ったとされているのが『源氏物語』光源氏です。『源氏物語』の須磨の巻には須磨の地で過ごす光源氏の姿が描かれています。関守稲荷神社は光源氏が巳の日祓をした神社のモデルとされ、「巳の日稲荷」とも呼ばれています。江戸時代の『摂津名所図会』にもその旨が記されていて、今でいう”聖地巡礼”のスポットになっていたようです。

現光寺

関守稲荷神社から坂道を降りると千森筋に出ました。道路沿いにあるのは現光寺です。

現光寺は室町時代の永正11(1514)年の創建と伝わります。今では住宅や商店に囲まれていますが、かつては須磨の海を見下ろす景勝の地でした。『源氏物語』で光源氏の住まいがあった場所に似ていることから、「源氏寺」とも呼ばれています。

現光寺の境内

現光寺の境内は静かな雰囲気でした。立派な松の木が印象的ですね。今では海を眺めることはできませんが、源氏物語ゆかりの地として古くから多くの人々が訪れていて、境内には須磨を詠んだ松尾芭蕉や正岡子規の句碑が建てられています。

源氏寺

現光寺の前には源氏寺の碑が日差しを浴びて佇んでいました。『源氏物語』ゆかりの地でもある須磨の秋は少しずつ深まっているようです。

秋の風を感じながら、山陽電車で須磨を後にすることにしました。

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(前編)

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すっかり秋らしくなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽須磨駅

涼しい風を浴びながら訪ねたのは山陽須磨駅です。
須磨海岸の最寄り駅ということで、洋館風の装飾が施されていて、どこか観光地の駅のような雰囲気がありますね。

村上帝社

山陽電車の線路の築堤沿いに歩くと、神社がありました。こちらは村上帝社で、その名の通り、平安時代の村上天皇を祀る神社です。

村上帝社の創建はやはり平安時代に遡るとされています。伝説では、琵琶の名人として知られていた藤原師長が琵琶を極めるために唐へ渡ろうと都を離れ、ここ須磨にたどり着きました。この地で老夫婦の家に泊まり、お礼にと琵琶を弾くと老夫婦は村上天皇と中宮(妻)の藤原安子(梨壺女御)の姿になり、師長へ琵琶の弾き方を教えて唐へ渡るのを思いとどまるように言ったそうです。琵琶の奥義を身に付けて唐へ渡る必要のなくなった師長は京へ戻ることにしました。そして、この地に村上天皇を祀る社が建てられたそうです。

琵琶塚

山陽電車の築堤を潜った先に石碑がありました。こちらは琵琶塚の碑です。唐へ渡ることを思いとどまった師長はこの地に琵琶の名器「獅子丸」を埋め、その場所は琵琶塚と呼ばれるようになったそうです。実際の琵琶塚は古墳で、前方後円墳だったと言われていますが、山陽電車の建設時に取り壊されてしまいました。今はこちらの石碑が残るだけです。

いなり坂

琵琶塚から山へと向かっていなり坂と呼ばれる坂道が伸びていました。

平安時代からの伝説に彩られた須磨をもう少し歩いてみたいと思います。