せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

湊川・荒田を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、湊川を歩いてみたいと思います。

洗心橋

賑やかな商店街を通り抜けると、新湊川の畔に出ました。この付近の湊川は旧湊川を付け替えられたもので、深い擁壁に囲まれてまるで峡谷のようです。川に架かるのは洗心橋で、かつてはこの北側に神戸監獄(後の神戸刑務所)があり、出所した受刑者が更生することを願ってこの名前になったと言われています。

新旧の湊川

洗心橋の少し北東で新湊川は大きくカーブしていて、さらに川沿いからは不自然にカーブした道路が伸びています。ここが新旧の湊川の分岐で、道路がかつての旧湊川の川筋です。

荒田八幡神社

住宅街を歩いていくと、小さな丘の上に神社がありました。こちらは荒田八幡神社です。

荒田八幡神社の創建時期はわかっていませんが、かつては高田神社と呼ばれていたようです。地名からもわかるように、石井川天王谷川が合流して湊川となる地点に近いこの辺りは洪水の被害に遭うことが多かったのですが、この神社の境内は古くから周りより高台にあったため、平安時代には平清盛の弟の平頼盛の山荘が設けられていました。そして、やはり平安時代の治承4(1180)年の福原遷都の際は安徳天皇の行在所となります。今では住宅地の中の神社ですが、平安時代は福原京の中心となった場所だったのですね。

安徳天皇行在所址

境内には安徳天皇行在所址の石碑が設けられています。

宝地院

神社の近くには宝地院という寺院がありました。今では保育園の目立つ寺院ですが、こちらは鎌倉時代の弘安2(1279)年に安徳天皇の菩提を弔うために創建された寺院で、非常に長い歴史を持っています。先ほど訪ねた荒田八幡神社も、もともとこちらにあった八幡社が明治時代に高田神社に合祀されて八幡神社となっています。今ではすっかり街になじんだお寺になっていますが、長い歴史に驚いてしまいますね。

川跡に生まれた町とその周辺に息づくはるか古代からの歴史をもつ場所。
まだまだ感染症の厳しい状況が続きますが、密を避け、お買い物と運動に訪れてみてはいかがでしょうか。

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湊川・荒田を訪ねて(前編)

投稿日:



梅雨明けの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

湊川駅

今回降りたのは神戸電鉄の湊川駅
今は地下のホームに電車が停車していますが、かつては地上にホームがありました。今もターミナル駅らしい風格のある駅舎が地上にあります。

湊川トンネル

駅の南側を通る山手幹線にはアンダーパスのようなものが。こちらは湊川トンネルです。

湊川公園

トンネルの脇にある階段を上り、トンネルの上に上がると湊川公園が広がっていました。芝生の広がる公園はトンネルの上とは思えませんね。この公園の前後には周りから一段高くなった細長い土地が続いています。

何度かご紹介をしましたが、今は「新湊川」として会下山から長田へと流れている湊川はかつてこの場所を流れていました。跡地の公園が一段高い土地になっていることからもわかるように、この旧湊川は六甲山地からの土砂の堆積で川底が高くなった所謂天井川で、大雨のたびに氾濫し、市街地は洪水の被害に遭っていました。また、高い堤防は古くから開けていた兵庫の街と開港地・神戸を分断する存在でもありました。神戸の街の発展には少し厄介な存在だった湊川が付け替えられたのは明治34(1901)年のことで、新湊川は湊川隧道会下山を貫き、苅藻川と合流して長田へと流れることになりました。

湊川の商店街

商店街は買い物客で賑わっていました。
旧湊川の跡地は先ほど見てきた公園や商店街、そして「新開地」として市街地になり、兵庫の街と開港地・神戸の間の繁華街として発展することとなりました。今ではすっかり市街地となり、ここが川跡とは思えないくらいに変わってしまいましたが、かつての川跡は周辺よりも高くなっていて、商店街の中にも高低差が残されています。

旧湊川跡に生まれた町、次回もう少し歩いてみたいと思います。

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衝原と丹生の里を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
これまで北神は山田を歩いてきましたが、最後となる今回は衝原を訪ねてみたいと思います。

衝原バス停留所

神戸市バスに乗って到着したのは終点の衝原(つくはら)です。
志染川はこの先、加古川へと流れていきますが、この先は湖に山が迫る険しい地形が続き、その先は三木市になります。

箱木家住宅

衝原の集落にあったのが箱木家住宅です。別名「箱木千年家」と呼ばれ、日本で現存最古の民家と言われています。箱木家住宅の母屋は室町時代の建築とされていて、実際に千年経っているわけではありませんが、戦後まで民家として使われていたそうです。中を見学したいところですが、残念ながら訪れたときは5月まで閉館とされていました。残念です。

衝原地区

箱木家住宅のある衝原地区は整然とした町割りで、新興住宅地のような雰囲気です。それもそのはずで、元々の衝原地区は今の場所の西側…今は湖になっている場所にあり、今の街は移転して作られました。

衝原地区の西側にある「つくはら湖」は呑吐(どんど)ダムで志染川を堰き止めて作られた灌漑用・上水道用の貯水池で、蓄えられた水は東播磨地域を潤しています。竣工は平成元(1989)年で、変わったダムの名前は、この地にあった「呑吐の滝」という滝に由来しているそうです。住宅や箱木家住宅は高台に移転しましたが、山里や呑吐の滝は今は水の底です。

衝原大歳神社

バス停の近くに神社がありました。こちらは衝原大歳神社です。この神社も移転したもので、新しい社殿が建っていました。

つくはら湖を見下ろす

神社の横からつくはら湖を見下ろしてみました。写真ではまだまだ冬の景色ですが、もう間もなく湖畔には桜が咲くことでしょう。不安に覆いつくされたような世の中ですが、北神の里には確かに春が来ています。世の中が落ち着いたころ、京都とのつながりを感じる山里を歩いてみてはいかがでしょうか。

世の中がいち早く元に戻ることを祈りながら、衝原を後にすることにしました。

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衝原と丹生の里を歩いて(前編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、北神は山田を歩いてみたいと思います。

福田寺

田んぼの中ののどかな道を歩き、集落の中に入ると寺院がありました。こちらは福田寺です。

丹生神社鳥居

福田寺のある集落を抜けて歩いていくと、田んぼの中に鳥居がありました。
こちらは丹生神社の鳥居です。

丹生神社の創建時期はわかっていませんが、はるか古代に遡ると言われています。元々はこの地にあった明要寺という寺院の鎮守社だったとのことで、この明要寺も百済の聖王の王子の童男行者なる人物が伽藍を建立したのが始まりと言われていますが、これも詳しい時期はわかっていません。平安時代は平清盛が山王権現を勧請し、神社としての姿が整えられました。

丹生山への道

鳥居の向こうにはのどかな道が続き、その向こうに丹生神社のある丹生山がそびえています。丹生神社に祀られている丹生都比売(にうつひめ)は渡来系の丹生氏の氏神で、丹生氏が水銀鉱山に深くかかわっていたことから、鉱山の神とされています。実際に、丹生山の隣の帝釈山では銅を始めとする金属が採掘されていました。北神地域では有馬温泉の泉源を守るために採掘は厳しく制限されていて、この帝釈山は数少ない鉱山でしたが、太平洋戦争後に衰退し、今ではほとんど面影もありません。

丹生宝庫

丹生山への道の途中にあったのが丹生宝庫です。こちらは丹生神社の宝物殿で、中には丹生神社を鎮守としていた明要寺の遺物などが収められているそうです。興味深いところですが、公開は毎年5月5日の年に一日だけだそうです。

丹生神社参道

集落を通り抜ける丹生神社の参道には、参道を見守るようにお地蔵さんがありました。神社はこの先、3キロ弱の山道を登った先にあるようですが、山登りの装備をしていなかったのでまたの機会ということに。お地蔵さんに挨拶をして、引き返すことにしました。

のどかな里に史跡が点在する北神・山田。次回はさらに歩いてみたいと思います。

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北神・山田の里を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、北神は山田を歩いてみたいと思います。

志染川を眺める

無動寺の山を下りて、のどかな里道を歩くことに。
谷を刻むのは志染川で、この川は三木で美嚢川と合流し、さらに加古川に合流することになります。

六條八幡宮

山沿いにあったのが六條八幡宮です。

六條八幡宮の歴史は非常に古く、はるか古代に神功皇后がこの地に行宮を設けたのが由来とされています。平安時代の長徳元(995)年には基灯なる周防国の僧が八幡三神を祀る社を建立し、神社としての姿が整えられていくこととなります。

六條八幡宮の境内

六條八幡宮の境内は開けていて明るい雰囲気ですが、どこか厳かな雰囲気が漂っています。
創建から時代が下り、中世の保安4(1123)年にこの地を治めていた源為義が京都六條の自邸に祀っていた左女牛八幡を勧請し、この神社に合祀したことから「六條」と呼ばれるようになったと言われています。

三重塔

境内には立派な三重塔がありました。こちらは室町時代の文正元(1466)年に地元の鷲尾綱貞なる人物らによって建立されたものです。神社に仏教的な塔があるのは何とも不思議ですが、かつての神仏習合の名残のようです。

北神の住宅開発の範囲からも外れ、のどかな景色が残されている山田の地はどこか京都の香りのする山里でした。すでに十分に興味深いところを訪れたように思いますが、志染川を下るとさらに見どころが広がっています。次回はもう少し山田の地を歩いてみたいと思います。

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北神・山田の里を歩いて(前編)

投稿日:



春の気配を感じながらも、どこか落ち着かないこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

箕谷駅

今回のスタートは神戸電鉄の箕谷駅
駅近くのバスターミナルから神戸市バスに乗ります。

山田の里

福地バス停
で市バスを降り、歩いていくと広がるのは志染川沿いに広がる里の景色です。
ここは神戸市内ですが、こんなにのどかな景色が広がるとは。近世にはこの辺りは下総古河藩の所領だったそうで、畦道に佇む「新兵衛石」なる石には藩主に年貢の軽減を訴えた青年の話が残されているそうです。

山道を行く

山中に分け入ると、石仏の並ぶ山道が続きます。

無動寺

山道の先にあったのは無動寺という真言宗の寺院です。

無動寺はかつては「福寺」と呼ばれていたそうですが、創建時期ははっきりとわかっていないようです。現在の姿になったのは江戸時代の宝暦2(1752)年のこと。この地にあった荒廃した寺院を高野山の高僧・真源和尚なる人物が再興したと伝えられています。高野山の影響か、真言宗の寺院となったため、密教寺院らしい雰囲気ですね。

無動寺の境内

山中にあるだけあり、境内はしんと静まり返っていました。ここは仏教寺院ですが、境内の隅には鳥居が…。

若王子神社

境内の鳥居の先には神社がありました。こちらは若王子神社です。福寺と呼ばれていた無動寺の鎮守として建立されたそうで、室町時代の応永5(1408)年の創建と伝わっています。この神社の棟札には永仁5(1297)年と書かれたものもあるそうで、福寺の創建はその頃までさかのぼることができるのではないかと言われています。

のどかな里に中世からの社寺が佇む山田の里。もう少し歩いてみたいと思います。

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鵯越を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、鵯越を歩いてみたいと思います。

元西神戸有料道路

坂道を上ると、急に開けた道に出ました。神戸市道の夢野白川線で、かつての西神戸有料道路です。多くの車やバスが行き交い、山間にひっそりと佇んでいた鵯越駅とは別世界のようで一瞬戸惑ってしまいます。

大阪湾を見下ろす

道沿いからは神戸の街並みと大阪湾を見下ろす景色を眺めることができました。ちょうど、神戸電鉄の電車が住宅地を縫うように坂道を下りていきました。

鵯越墓園

市道を少し上ると、大きく開けた空間がありました。こちらは神戸市の鵯越墓園です。

逆落としで知られる鵯越ですが、現在神戸市にお住まいの方なら、鵯越といえば墓園のイメージもあるのではないでしょうか。かつては「奥山新田」という山奥の新田に大規模な墓園が整備されたのは実は最近で、和田岬にあった墓地を移転し、昭和7(1932)年に鵯越公園墓地として開設されました。当時は湊西区(のちの兵庫区)の墓地だった鵯越は戦後に市の直営となり、市営の公園墓地として整備されていくこととなります。

鵯越の碑

墓園の入り口には鵯越の碑がありました。

鵯越大仏

墓園の中を歩くと、大仏がありました。こちらは「鵯越大仏」と呼ばれ、昭和7(1932)年にこの墓地が開設された当初に建立されたものです。今では墓園の中にある大仏ですが、当時は墓園の頂上に設けられたのだそうです。

大仏からの眺め

鵯越大仏からは神戸の街を見下ろすことができました。

お盆には鵯越を訪れたという方も、改めて歴史と神戸を見下ろす景色を楽しめる鵯越を歩いてみると、新しい発見があるかもしれません。

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鵯越を歩いて(前編)

投稿日:



夏の日差しの照りつける中に時折涼しさを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

鵯越駅

新開地から神戸電鉄の電車で六甲山の山の中に分け入り、到着したのは鵯越駅

鵯越の街並み

鵯越駅の周辺には複雑な地形の斜面に住宅が建ち並んでいます。
神戸といえば異人館や港が思い浮かぶのかもしれませんが、こういった立体的な住宅地が広がる景色こそ神戸らしい景色ではないかと個人的には思います。

鵯越といえば、「鵯越の逆落とし」が思い浮かぶのではないでしょうか。
所謂「源平の合戦」と呼ばれる治承・寿永の乱の最中の寿永3(1184)年、一の谷の合戦の中で行われたといわれ、源義経率いる軍勢が平家の陣を奇襲した戦いです。物語では、須磨・一の谷の平家の陣の裏手の山を義経の軍勢が駆け下りて奇襲を仕掛けたと言われていますが、ここ鵯越から一の谷までは直線距離でも7kmは離れています。一応、山並みは須磨へ繋がっていますが…。この辺りから、義経の逆落としが行われた場所には諸説があるようで、今もはっきりはしていません。

石仏の道

住宅地の奥に入ってみると、菊水山のほうへとつながる山道がありました。道沿いには石仏が並んでいて、どこか神聖な雰囲気ですが、この道の由来についてはよくわかりませんでした。

氷室神社

山道には氷室神社という神社がありました。
氷室神社といえば、麓の神鉄長田駅近くの神社がこの辺りでは知られていますが、ここ鵯越にも同じ名前の神社がありました。ここにも氷室があったのでしょうか。境内は草木が茂り、鳥居も倒れていて、小さな神社は自然に還ろうとしていました。

鵯越の山の中に佇む歴史の道、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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有馬への道(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、有馬温泉を歩いてみたいと思います。

天神泉源

温泉街を歩き、天神泉源へ出ました。
温泉街を見下ろす泉源と鳥居は有馬温泉の象徴的な景色ですね。

湊川から有馬温泉への神戸電鉄有馬線が開業したのは戦前の昭和3(1928)年、三宮から有馬へのバス路線が開通したのは戦後の昭和37(1962)年で、太平洋戦争を挟んで徐々に現在のような交通機関が整備されていきました。関西の奥座敷として注目されるようになった有馬には多くの温泉客が訪れるようになり、静かな温泉町には近代的な旅館が建ち並ぶようになります。

温泉街の外れ

一旦有馬温泉駅まで戻り、さらに温泉街の北の外れへと歩いてみることにしました。賑やかな温泉街とは違って、店舗や住宅の建ち並ぶ静かな街並みが続いています。

乙倉橋

しばらく歩くと、有馬川に架かる橋のたもとに着きました。
こちらは乙倉橋です。単なる橋かと思いきや、どこか不思議な雰囲気です。

橋のレリーフ

橋の欄干にはレリーフが。こちらはかつてこの地にあった有馬駅を描いたものです。

神戸電鉄が有馬温泉まで開業したのは昭和に入ってからですが、実はそれ以前の大正4(1915)年に有馬へ到達した鉄道がありました。有馬鉄道です。地元の実業家だった山脇延吉らが三田から有馬まで開業させたこの鉄道は開業と同時に当時の鉄道院が借り上げ、程なく国有化されて有馬線となりますが、戦前まで三田と有馬を結んでいました。

有馬駅跡

時計塔を持つ優美な姿だったといわれる有馬駅の跡は今は病院になっていました。

三田と有馬の間の列車だけでなく、大阪からの直通列車もあり非常に賑わった有馬線ですが、有馬駅が温泉街から離れていたことや、有馬鉄道が国有化された後に出資者だった山脇延吉らが開業させた神戸電鉄と競合していたことから、戦時中の昭和18(1943)年に休止、そのまま実質的に廃止されてしまいました。有馬線から撤去された資材は篠山線の建設に使われたともいわれています。

有馬線の跡は

有馬駅跡から伸びる有馬線の跡は草木に覆われていますが、それと言われればどこか鉄道のような雰囲気も感じます。この跡は道場を経て三田へ続き、さらに大阪へとつながっていました。駅が温泉街から離れていたことが有馬線の弱点でしたが、現在、有馬温泉と大阪を直通で結ぶ交通機関は高速バスしかないと考えると、もし今も残っていたら、有馬温泉の姿はどう変わっていたでしょうか。

様々な変遷を遂げてきた有馬への道と、消えた鉄道に思いをはせながら、有馬温泉を後にすることにしました。

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有馬への道(前編)

投稿日:



梅雨が始まらず青空の広がるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

有馬温泉駅

神戸電鉄の電車で着いたのは有馬温泉駅
ガラス張りの駅舎が印象的ですね。

有馬温泉は「日本三大古泉」の一つと言われ、神々が見つけたという伝説もあるほど、非常に古い歴史を持っています。飛鳥時代頃には既に温泉地として知られていたようですが、その後荒廃。奈良時代に入り、行基や仁西といった僧侶が寺院や宿坊などを整備し、温泉地として発展していきました。

有馬温泉の街並み

駅から旅行者や観光バスで賑わう道路を歩き、温泉街の中の太閤通へ。
通の両側には土産物店や飲食店が建ち並び、温泉地らしい雰囲気が漂っています。
この通の下には六甲山から流れ出る滝川が流れていて、太閤通では暗渠になっています。
滝川が暗渠化される前の古い写真を見ると、川の両側に細い通があり、温泉旅館が建ち並んでいて、今以上に温泉地らしい雰囲気だったようです。

有馬温泉バスターミナル

太閤通の奥にあったのが有馬温泉バスターミナルです。
神戸電鉄でアクセスできる有馬温泉ですが、高速バスの便も便利で、大阪、京都から多くの本数が運行されています。

温泉地として整えられた有馬温泉ですが、交通機関が現在のように整えられたのは近代以降のことで、それまでは険しい六甲山に阻まれ、アクセスのしにくい温泉地でした。交通路として知られているのは「湯の山街道」で、戦国時代、秀吉の三木合戦の際に有馬と三木を往来するために使われた道でした。比較的平坦な湯の山街道の他には宝塚の小浜から生瀬を経て有馬温泉へと至る「有馬道」や御影から六甲山を越える「魚屋道」などがありましたが、いずれも山を越える非常に険しい道でした。

温泉寺

温泉街の中を歩くと、石段がありました。ここは温泉寺という寺院です。
奈良時代に有馬温泉が僧・行基によって整備された際に開かれたとされ、非常に長い歴史を持っているとされています。便利な交通機関のおかげで賑やかな温泉地となった有馬ですが、この寺が開かれたときはどのような景色が広がっていたのでしょうか。

徒歩から鉄道やバスへ交通手段が移り変わるとともに発展してきた有馬温泉。次回はもう少し湯煙の街を歩いてみたいと思います。

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