せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

須磨から一ノ谷へ歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて須磨を歩いてみたいと思います。

「戦の濱碑」

不動坂を下りて、海沿いに歩くことにしました。松林の中にあったのは「戦の濱碑」です。こちらの石碑は一ノ谷の合戦を記念して建立されたものです。ちょうどこの辺りは源氏と平氏の軍勢がぶつかり合う激戦地だったそうで、今も、合戦がおこなわれた日である毎年2月7日の夜明けには馬のいななく声が聞こえると言われています。

みどりの塔

「戦の濱碑」の周りに松林が広がるのは須磨浦公園。園内に佇んでいたのは「みどりの塔」です。ここ須磨浦公園は昭和10(1935)年に昭和天皇御成婚記念に開設された公園で、この塔は昭和16(1941)年に建てられた「八紘一宇の塔」でした。戦後の昭和29(1954)年、国土緑化大会植樹祭で昭和天皇と皇后が神戸を訪問された際に平和を象徴する塔として作り替えられました。そういえば、この記事の公開日の今日4月29日は昭和の日ですね。

山陽電車をくぐる

公園の中で山陽電車の線路をくぐり、山手の方へと歩いてみることにしました。

須磨浦の坂道

線路の向こうには急な坂道が続いています。一ノ谷の合戦の奇襲攻撃として知られている「逆落とし」がおこなわれたのは鵯越であるとか、ここ一ノ谷だとか、諸説があるようで実際はどこなのかわかっていません。ただ、こんな坂道を馬で駆け下りて源義経をはじめとする軍勢が攻めてきたのですから、平氏の軍勢はきっと驚いたのでしょうね。

安徳帝内裏跡伝説地

坂を上り詰めた先には住宅地が広がっています。その住宅地の中にあったのが「安徳宮」こと、安徳帝内裏跡伝説地です。

安徳天皇平清盛の孫にあたり、源平合戦の最中の治承4(1180)年に数え年でわずか3歳で即位しました。伝説では、一ノ谷の合戦の際にこの地に内裏を設けたそうです。後に、安徳天皇は敗走する平氏軍とともに西へ西へと逃れ、下関の壇ノ浦の戦いで入水し、崩御しました。この安徳宮は安徳天皇の冥福を祈るために後年、内裏があったという伝説のある場所に建立されたものです。

須磨の海を見下ろす

坂道から須磨の海を見下ろしてみました。眼下に広がるのは新緑に彩られた穏やかな初夏の海です。千年前にこの地が合戦の舞台となったことは遠い昔のようですね。
大河ドラマで注目されている須磨界隈は源平合戦の伝説に彩られていました。

いよいよ大型連休が始まります。新緑の須磨を、古代の戦いに思いをはせながら歩いてみてはいかがでしょうか。

須磨から一ノ谷へ歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨から西へ歩いてみたいと思います。

村上帝社

須磨寺駅前から歩くと線路際に祠がありました。こちらは平安時代の天皇・村上天皇を祀る村上帝社です。

山陽須磨駅

村上帝社を通り過ぎると、山陽須磨駅前に着きました。

不動坂

山陽須磨駅前から山陽電車の築堤沿いを歩いて、途中で山陽電車の線路をくぐります。線路をくぐった先は不動坂です。

一の谷不動尊 潮音寺

不動坂の名の通り、坂の途中にあったのは「一の谷不動尊」こと潮音寺という寺院です。

不動尊磨崖仏

境内の不動堂には不動尊磨崖仏が治められています。

潮音寺は比較的新しい寺院で建立は昭和49(1974)年のこと。源平合戦こと治承・寿永の乱で命を落とした源平両軍の兵士の菩提を弔うためとされています。境内の不動尊磨崖仏は、南北朝時代の暦応4(1341)年の作で、もともと奈良の天理にあったものを大阪の豪商で藤田財閥の創始者の藤田伝二郎が須磨の別荘に移したものでした。昭和13(1938)年の阪神大水害でこの磨岩仏は一ノ谷川の河口へと流され土砂に埋まってしまいましたが、後に掘り起こされてこの寺に安置されることになりました。

一ノ谷川

不動坂に沿うように潮音寺の裏を流れるのは一ノ谷川です。この辺りが所謂「一ノ谷」で、源平合戦の一ノ谷の合戦の舞台となった場所です。

次回はさらに源平合戦の舞台を歩いてみたいと思います。

須磨から一ノ谷へ歩いて(前編)

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日差しに夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

須磨寺駅

今回のスタートは山陽電車の須磨寺駅。
山陽須磨発の普通車となる回送列車がカーブした駅を通過していきました。

薬師踏切

今回は須磨寺の参道の方へは向かわずに、駅の東側、住宅の合間に佇む小さな踏切を渡ります。こちらの踏切の名前は「薬師」です。

浄福寺

踏切の向こうに佇んでいたのは浄福寺という寺院です。

浄福寺の創建時期は不明ですが、この地・西須磨の有力者の前田氏の創建と伝わっています。
ご本尊は聖徳太子作と伝わる薬師如来とのこと。

浄福寺の境内

浄福寺は別名「頼政薬師」と呼ばれています。先ほどの踏切の「薬師」もこの別名にちなんだものです。

「頼政」とは平安時代の武将の源頼政のことです。平安時代の末期に活躍した源頼政は、保元・平治の乱を経て政権を固めた平清盛に重用され、晩年には源氏で初めて公卿となりました。この浄福寺は保元の乱の前の久寿年間(1154~1156)に頼政が再興したと伝わることから「頼政薬師」の別名で呼ばれています。

浄福寺の本堂

頼政薬師の本堂と脇士十二神将は江戸時代に尼崎藩主だった青山氏から寄進されたものだそうですが、本堂は平成7(1995)年の阪神淡路大震災で倒壊し、現在の建物は再建されたものです。

頼政薬師を再興し、平氏政権の中で源氏の長老としての地位を固めていった頼政ですが、治承4(1180)年、以仁王とともに平氏打倒のために挙兵しましたが失敗。平氏軍に追い詰められて、宇治の平等院で自刃しました。以仁王と頼政の挙兵は失敗に終わりましたが、この「以仁王の挙兵」をきっかけに、治承・寿永の乱、所謂「源平合戦」が始まり、繁栄を極めた平氏政権が滅亡へと向かってゆくことになります。

薬師前を通過する直通特急

薬師踏切を山陽電車の直通特急が通過していきます。
後に一ノ谷の合戦が起こる場所の近くに源頼政ゆかりの寺院があるのは偶然なのか、何か縁のようなものを感じてしまいますね。

次回はここから西へへと歩いてみたいと思います。

北摂の城下町・池田を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、池田を歩いてみたいと思います。

池田城の城門

曲がりくねった階段と坂道を上ると、城門がそびえていました。

池田城の模擬櫓

城門をくぐった先には立派な櫓が。こちらは池田城の模擬櫓です。

ここ池田に城が建てられたのは中世の建武元(1334)年頃とされています。城を築いたのはこの地を治める豪族だった池田氏でした。北摂の要衝にあった池田城は幾度となく戦乱に巻き込まれ落城していますが、戦国時代まで池田氏が治め続けることとなりました。戦国時代の永禄11(1568)年に織田信長がここ池田へ侵攻し、当時の城主・池田勝正は抵抗の後に降伏しました。この時に城は焼け落ちてしまいますが、勝正は信長の配下となり摂津三守護として活躍することとなりました。

池田城跡公園を見下ろす

櫓に昇ると庭園が広がっています。庭園は現在では池田城跡公園として整備されていて、私が訪れたときはイベントが開催されて出店が並んでいました。中世城郭だった池田城ですが、当時から枯山水などをそなえた庭園が整備されていたそうです。庭園の向こうの山には池田氏の菩提寺・大廣寺の屋根が見えます。

池田城跡公園

信長の配下の城となった池田城ですが、池田氏の内部の争いで池田氏の家臣だった荒木村重が治めることとなりましたが、村重が伊丹の有岡城に移った後に城は放棄されます。後に村重が信長に謀反を起こした際、池田城は信長方の城となって村重の籠る有岡城の攻撃の拠点となりますが、有岡城落城の翌年の天正8(1580)年に廃城となりました。

池田の街を見下ろす

城跡公園からは池田の街を見下ろすことができました。

池田城の廃城後、池田には城が築かれることはありませんでしたが、戦乱で焼け落ちた城下町は近世にかけて復興し、宿場町として、また物資の集散地として、栄えていったのは前々回と前回に歩いてきた通りですね。

訪れたときは梅の季節だった池田ですが、これからは北摂の山々は新緑に彩られそうですね。暖かくなり少しだけお出かけの気分も盛り上がってきたこの頃。少し足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

北摂の城下町・池田を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、池田の街を歩いてみたいと思います。

西光寺

能勢街道から横道に入ったところに佇んでいたのは西光寺です。
もともとはこの地にあった「不断堂」と呼ばれる草庵が始まりで、寺院となったのは江戸時代とされています。

吉田酒造

西光寺の傍には造り酒屋の吉田酒造の建物がありました。
現在は大阪のベッドタウンの印象が強い池田ですが、近世には能勢街道によって大坂とつながり、物資の中継地として栄えていました。当時、大坂へ向かって北摂や能勢の奥の丹波の農産物や鉱産物が運ばれ、一方で、北摂の社寺を訪ねる参詣者も行きかい、池田の街は大変賑わったと言われています。当時の池田は宿場町としてだけでなく、日本酒の産地でもあり、当時は北摂の酒造業の中心地となっていたようです。この吉田酒造もその一つでした。趣のある建物は登録有形文化財に指定されています。

吉田酒造の梅

私が訪れたとき、吉田酒造の傍では鮮やかな紅梅の花がほころんでいました。

池田城を眺める道

吉田酒造の脇の道を進んでいくと、丘の上に城郭が見えました。近世には宿場町として栄えた池田ですが、中世にはこの地域の中心として城が築かれていました。次回は中世の池田の姿を思いながら歩いてみたいと思います。