せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

智頭往来の宿場町・智頭を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の智頭を歩いてみたいと思います。

石谷家住宅

かつての智頭の宿場町で目立つのが石谷家住宅です。山をバックに立派な門を構えた屋敷はまるで陣屋か何かかと思ってしまいような規模です。

石谷家住宅の内部

敷地内に入ると、大きな母屋の周りに町家のような建物が連なり、どこか独特の雰囲気が漂っていましたでした。

石谷家は元々鳥取城下にあった家ですが、江戸時代の初めころにここ智頭へ移っています。江戸時代中頃の明和9(1772)年からは大庄屋をつとめるようになり、江戸時代の終わりまで代々引き継がれていきました。その後、大庄屋の役目は分家などに引き継がれ、石谷家の本家は宿場の問屋や地主経営に力を入れるようになります。

石谷家住宅の土間

母屋に入って驚かされるのが土間です。二階まで吹き抜けになった天井は見上げるように高く、屋根を支える梁には太い松の丸太が使われていました。

現在の石谷家住宅の母屋の建築が始まったのは近代に入った大正8(1919)年のことでした。当時の石谷家は智頭の街の周辺に広がる山林の経営を手掛け、この地域を代表する商家となっていました。当時の当主の石谷伝四郎は衆議院議員、そして、貴族院議員に選出されて国政に携わるようになっていて、鳥取から智頭を経て津山へとつながる因美線の建設にも私財を投じたそうです。宿場町でなくなった後も豊かな森林資源を背景とした当時の智頭の賑わいを今に伝えるのがこの石谷家住宅の威容なのかもしれません。

階から眺める

二階に上がり、建物が連なる石谷家住宅を見下ろしてみました。

この屋敷の建築を進めた石谷伝四郎は屋敷の完成を見ることなく東京で亡くなりますが、10年の歳月をかけて完成したこの建物は単なる住居としてだけでなく森林経営者の事務所としての機能を備えた屋敷となり、山の街・智頭を象徴するかのような建物となりました。

江戸座敷から眺めた庭園

重厚な近代和風建築の石谷家住宅は現在では博物館や資料館として使われています。かつては土蔵だったというこの「江戸座敷」は母屋からも離れた静かな雰囲気で、美しい庭園を眺めながらのひとときを過ごすことができました。

宿場町、そして、豊富な森林資源に恵まれて発展してきた歴史を今に伝える石谷家住宅で一休みしてから、さらに智頭を歩いてみることにしました。

智頭往来の宿場町・智頭を訪ねて(前編)

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立春を過ぎて寒さの中に春の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

智頭駅

前回まで訪ねた平福を出て、智頭急行の普通列車で着いたのは智頭駅です。

智頭橋からの眺め

駅の近くを流れる土師川に架かる智頭橋から川と街並みを眺めてみました。智頭急行の智頭線の終点の智頭は兵庫県・鳥取県・岡山県の三県境にもほど近い山間の町です。智頭線の沿線は山深い地域がほとんどだったので、久しぶりの町の雰囲気にほっとするような気さえしました。

特急「スーパーはくと」が走るようになって以前と比べると京阪神でも聞き馴染みのある地名となった智頭ですが、とても古い歴史のある町です。町が非常に栄えたのは近世で、因幡街道と備前街道の交わる土地だったことから両方の街道の宿場町が置かれ、鳥取藩最大の宿場町と呼ばれるほどに発展しました。

智頭往来

市街地を通り抜けて千代川を渡った先にかつての宿場町が広がっていました。「智頭往来」と呼ばれた因幡街道沿いに木の壁の街並みが続き、いかにも山の町の雰囲気です。

旧塩屋出店

智頭往来に面して建っていたのは旧塩屋出店です。屋号を「塩屋」といった智頭の商家の石谷家の分家の住宅です。現在は飲食店として使われています。

旧塩屋出店の庭園

塩屋出店の中に入ると鍵型の母屋に囲まれた庭園が広がっていました。庭園の中に建つ洋館は離れの西洋館で、結核療養施設や教会として使われていて、今は西河克己映画記念館となっています。

智頭往来の街並み

旧塩屋出店の先には智頭往来の街並みが続いています。

鳥取藩最大と言われた宿場町・智頭、もう少し歩いてみたいと思います。

因幡街道の宿場町・作州大原を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の宿場町として栄えた岡山県の大原を歩いてみたいと思います。

脇本陣

石畳風の通りを歩いて見つけたのは立派な長屋門です。こちらは脇本陣です。江戸時代の宿場では、大名や旗本、勅使などは本陣と呼ばれる宿に宿泊していました。脇本陣はその予備的な施設で、本陣が利用できない時に代替施設としての役割をしたほか、通常時は最上級の旅籠として一般客の宿泊も受け入れていました。

田中酒造場

脇本陣のすぐ南側には造り酒屋がありました。町屋様式の建築は明治時代のものだそうですが、実に趣がありますね。

旧中国銀行大原支店

田中酒造場の隣はなんと洋風建築。こちらは中国銀行大原支店だった建物です。銀行自体は国道373号線沿いに移転していて、この建物は現在、司法書士事務所として使われているようです。

播磨・美作・因幡の三カ国の国境が交わるこの辺りは古くから戦略上の拠点とされてきました。戦国時代には宇喜多秀家方の宇野家貞なる人物が現在の大原駅の裏山にあった山王山城を拠点としてきました。その後、時代は下がり、家貞の甥でこの城を引き継いだ新免貞重なる人物は居城を下町近くの竹山城に移しました。新免氏はしばらくこの地を治めていましたが、関ヶ原の戦いで西軍についた宇喜多氏に従って敗れてこの地を去り、黒田長政に仕えたとのことです。この二つの城の城下町として生まれたのが古町下町という二つの町でした。江戸時代に入り、平和な時代が訪れると、この地は津山藩領、幕府領を経て周辺の旧吉野郡の村とともになぜか常陸国土浦藩の領地となりました。この頃には大原の城下町としての性格は失われてしまいますが、その代わりに因幡街道の宿場町として栄えることになりました。

大原本陣

街並みの中心にあったのが大原本陣です。残念ながら、内部を見学することはできませんが、外から見ても立派な建物だとわかります。美作国内の因幡街道には北から坂根(現在の西粟倉村の集落)、古町辻堂(中町)の三つの宿場があったそうですが、本陣と脇本陣があったのは古町だけで、当時から因幡街道の拠点だったことがうかがえます。

大原の街並みを眺める

大原本陣を眺めてから、大原の街並みを振り返ってみました。よくある観光地の街のような華やかな雰囲気はなく、それはそれで厳しいところもあるのでしょうが、訪れる者としては趣のある街を静かに楽しむことができ、実に爽やかな気分になれました。

間もなくの夏休みには、少し足を延ばして作州大原を訪れてみてはいかがでしょうか。

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因幡街道の宿場町・作州大原を訪ねて(前編)

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梅雨明けの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大原駅

姫路から列車を乗り継いで到着したのは山間の駅。上郡からの智頭急行の列車は兵庫・岡山の県境の深い深い山の中を走り続け、いったいどこなのかと思ってしまいます。ここは美作国の最西端、岡山県美作市の大原という町です。

宮本武蔵駅

この辺りは戦国時代から江戸時代初めに活躍した剣豪・宮本武蔵の生誕の地と言われ(諸説あります)、大原駅の一つ隣はその名もずばり「宮本武蔵駅」でした。駅の近くには生家跡もあるそうなのですが、列車の都合で車窓から眺めるのみ。

水田の景色

駅から少し歩くと水田の景色が広がっていました。

現在の大原は、京阪神、岡山と鳥取を結ぶ特急が走る智頭急行鳥取自動車道が通り、山陽と山陰を結ぶ交通路上にありますが、これらが開通したのは近年のこと。それまでは山間の静かな町でした。しかし、さらにそれ以前は姫路と鳥取を結んでいた因幡街道の中ほどに位置する宿場町として大いに栄えていたそうです。「大原宿」と総称される大原の宿場町ですが、大原駅近くにある古町とここから南へ下った大原駅と宮本武蔵駅の間にある辻堂(中町)の二つの宿場がありました。

旧因幡街道

駅から歩いて古町の街中に入りました。南北の通はかつての因幡街道です。この辺りは「古町町並み保存地区」となっていて、宿場町として賑わった当時の街並みが保存されています。石畳風の舗装で、両側の家々は確かに趣のある雰囲気。これはちょっと気分が盛り上がってきましたね。次回は宿場町の中をゆっくり歩いてみたいと思います。

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相模原を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、関西から遠く離れた相模原を歩いてみたいと思います。

ローカル路線バスの旅

三ヶ木からさらに神奈川中央交通の子会社の津久井神奈交バスのバスに乗り換えることに。旧街道というべきか、のどかな景色の中を走っていきます。これでも政令指定都市・相模原市の一地区です。何となく、神戸の六甲山麓などを思わせますね。

相模湖が広がる

しばらく山の中を走っていたのですが、急に車窓が開けて湖が広がりました。
こちらは、神奈川県の水がめ・相模湖です。

相模湖は神奈川県の中部を南北に流れる相模川を相模ダムでせき止めて誕生してできたダム湖です。相模ダムの完成は戦後の昭和22(1947)年で、戦後初のダムとされていますが、着工は戦時中の昭和16(1941)年のこと。当時、軍用需要で大いに栄えていた京浜工業地帯へ工業用水を供給するために建設されたといわれています。工事には日本人だけでなく朝鮮人や中国人も動員され、突貫で工事が行われたとのこと。

相模湖駅

バスは相模湖の湖畔を走り、相模湖駅に到着しました。
かつては所在地の地名から「与瀬駅」と呼ばれていたようなのですが、戦後、相模湖の湖畔にあることから「相模湖駅」に改称されました。この駅も相模原市にある駅なのですが、発着するのは中央東線のみで橋本や相模原に直通する路線はなく、一旦八王子を経由しなくてはなりません。神奈川県と山梨県の県境が近く、山深い雰囲気なのですが、観光地の雰囲気もあります。

相模湖

相模湖駅から坂道を下って相模湖の湖畔に出てみました。
湖の周辺にはレジャー施設や飲食店が立ち並び、色鮮やかなボートが浮かんでいます。大きな遊覧船の姿もありました。

戦争を背景に生まれた相模湖ですが、現在は横浜などへの上水道や工業用水の供給源としてだけでなく、相模原市で有数の観光地となり、広く観光客を集めるスポットとなっています。訪れたときは直前に花火大会も行われていたとのこと。関東の奥座敷といった感じでしょうか。

相模原を歩くつもりが、何だかずいぶん遠いところに来てしまったようですが、相模湖駅から中央東線の列車に乗り、帰途に就くことにしました。

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相模原を歩く(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、関東へ遠征し、武蔵・相模を歩いてみたいと思います。

橋本駅

立川よりモノレールと京王電鉄を乗り継いで到着したのは相模原市橋本です。
関西で「橋本」といえば和歌山県の橋本か、はたまた、湯沢山茶くれん寺を求めて訪れた京都府八幡市の橋本かというところですが、こちらの橋本は政令指定都市・相模原市の北東部の拠点で、JR横浜線・相模線と京王相模原線が交わるターミナル駅です。この橋本駅には今月より山陽バス「神戸・大阪・京都~立川線」が停車するようになりました。それを記念して…というわけではありませんが、周辺を見てみたいと思います。

橋本はその名の通り、この地の北側を流れる境川にかかった両国橋に由来しています。
この境川は武蔵と相模の境界の川で、川の相模川に開けた街に「橋本」という地名がつけられました。村として成立したのが江戸時代の初めといわれています。この辺りの歴史的な経緯を見ていると、やはり、関西と比べると新しい土地なのだなと感じますね。

バスに乗って

バスに乗って橋本駅を出発することにします。橋本駅北口を出たバスはしばらく市街地の中を走っていきますが、程なく街並みは途切れ、住宅と赤土の畑の入り混じった景色の中を走るようになります。やがて、山中に入ると湖が車窓に広がりました。相模川に設けられた城山ダムによって生まれた津久井湖です。

相模平野の村だった橋本ですが、明治に入ると周辺の村とともに相原村に組み込まれ、さらに、戦時色の濃くなってきた昭和16(1941)年には相模原町に組み込まれます。この頃、相模原周辺は広大な土地を背景に軍都の建設計画があり、数々の軍関連の施設が建設されました。相模原町の成立もその一環とされていたようです。現在もかつての相模陸軍造兵廠だった敷地が在日米軍の相模総合補給廠として残されています。

クラブ前

相模原で軍都の名残を探してみようかと思ったのですが、あまりの暑さに断念し、ぶらりバスの旅とすることにしました。津久井湖付近には「クラブ前」なるバス停名が。こんなところに垂水の「クラブ前」と同じ停留所名があるとはちょっと驚きです。

三ヶ木

バスの終点の「三ヶ木」に到着しました。読めそうで読めない地名ですが、「みかげ」と読むそうです。山奥ののどかなターミナルを想像していたのですが、現れたのは巨大なビル。路線図などを見てみると、この周辺のバス路線の拠点となっているようです。
ここからさらにバスを乗り継いで行きたいと思います。

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立川を歩いて

投稿日:



猛暑の日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

神戸三宮バスターミナル

今回やってきたのは三宮はミント神戸の下にある神戸三宮バスターミナルです。
近畿各地や四国方面、夜には関東・九州方面へのバスが発着する神戸一のバスターミナルです。今回、このターミナルから乗るのは山陽バスが運行する「レッツ号」こと「神戸・大阪・京都~立川線」。白地に朱色と金色をあしらったバスがのりばにやってきました。

立川へ

新名神・東名高速
を経由して、翌朝、立川に到着しました。
もはやここは武蔵国。摂津でも播磨でもないのですが、山陽バスが走っている以上、「山陽沿線」には違いありません!

広大な草地

高層ビルが立ち並び大都市の雰囲気のある立川駅前ですが、駅前から少し歩くと広大な空き地が広がります。

この空き地は、かつての在日米空軍立川航空基地の跡地で、さらにその前は日本軍の立川陸軍飛行場でした。立川に飛行場が築かれたのは大正時代のこと。大正11(1922)年に国鉄立川駅北側の空き地に広大な飛行場が建設されました。その後、陸軍の飛行場として活用されてきたのですが、昭和初期のまだのんびりしていた時代には民間飛行場としても使用されていました。このとき、立川に就航したのは日本初の民間航空会社とされる日本航空輸送なる会社で、立川~大阪間に週12往復が運航されていたそうですから、それなりの高頻度です。ただし、まだ現代のような大型機が就航していない時代です。航空運賃は非常に高額であったことでしょう。のちにこの日本航空輸送は東京側の拠点を立川から羽田に移すことになり、立川に就航していたのはわずかな期間でした。

ヤギが…

広大な草地の中ではヤギが草を食んでいました。
放牧…というわけではないようで、空き地の除草のために放し飼いをされているとのこと。

戦争が始まると、立川飛行場は本来の目的の軍事拠点として、東京の防衛の要として重要な役割を果たすようになりました。周辺には航空関連の機器を製造する工場が建ち並び、立川は軍都として発展することになります。しかし、その代償というべきか、昭和20(1945)年4月の立川大空襲を始め、終戦間近には激しい攻撃にさらされることになりました。終戦後、飛行場は米軍に接収され、拡張を経て立川航空基地となりました。

昭和記念公園

極東の拠点として整備された立川航空基地ですが、周辺住民の反対などで拡張工事を行うことができず、次第に機能を近接する横田基地に移管し、昭和52(1977)年には完全に日本へ返還されました。敷地の一部は陸上自衛隊の立川駐屯地となりましたが、多くは民間利用されています。
現在、飛行場跡地は再開発され商業施設やマンションが立ち並んでいますが、一部は昭和天皇の在位50周年を記念する昭和記念公園として整備され、広大な緑地は立川市民だけでなく東京都民の憩いの場となっています。関西では万博記念公園あたりが似たような雰囲気ですが、万博記念公園よりもはるかに建てこんだ街中にこれだけの緑地があるのは、何だかすごいというか贅沢な景色ですね。

ここ、立川からは多摩近辺を歩いてみたいと思います。

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阿波池田をめぐる(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、徳島県西部の阿波池田を歩いてみたいと思います。

長屋門のある家

古い街並みの外れに大きなお屋敷を見つけました。
表通り側の卯建が立派ですが、裏手の長屋門がなかなか立派です。

上野台地へ

吉野川沿いの町はずれには高台がありました。
こちらは上野台地と呼ばれる台地です。住所では「池田町ウエノ」で、なぜか字名がカタカナになっています。これは合併前の旧池田町内で共通のようで、例えば先ほどの阿波池田バスターミナルの住所はもともと「更田」という地名だったのが住所表記では「池田町サラダ」という珍地名になっています。

大西城跡

上野台地の上は幼稚園、小学校、中学校、高校が建ち並ぶ文教地区になっています。その中の一角にはこんな石碑がありました。
かつて、この上野台地には大西城(別名池田城)と呼ばれる城がありました。

阿波池田は阿波国の最西端の山中にありますが、讃岐・伊予・土佐国と接する四国の中心とでもいえる土地であり、古くから戦略上の拠点とされていました。この阿波池田に城が設けられたのは承久3(1221) 年のことで、承久の乱の功績で阿波国守護となった小笠原長清の息子・長経が築城を始めてからのことでした。
のちに、小笠原氏が阿波国東部の勝瑞城(現在の徳島県藍住町)に移ってからは大西氏が城主を務めました。ちなみに、小笠原氏は阿波池田のある三好郡を拠点としたことから後に姓を「三好」と改め、室町幕府で「三好政権」と呼ばれるまで実権を握るようになるまで登りつめます。

大西城跡は今

大西城のあった場所は現在、幼稚園や小学校になっています。城があったことを偲ばせるのは幼稚園の敷地内にある石垣くらいです。

栄華を極めた三好氏ですが、乱世の荒波の中で政権が崩壊、後の戦いで拠点の阿波も追われることになりました。大西城は三好氏に代わって阿波国に入った蜂須賀氏「阿波九城」と呼ばれる支城の一つとして整備しますが、近世に入り江戸幕府の制定した一国一城令で寛政15(1638)年に廃城となりました。そのため、城下町という雰囲気は薄いのですが、地域の重要性から徳島藩の陣屋が置かれ、「池田士」と呼ばれる藩士が配置されていました。交通の要衝であったことや、前回見てきた煙草の生産で阿波池田は非常に繁栄したようです。

城跡から市街地を眺める

高台にある城跡からは阿波池田の市街地が一望できました。
時代の変化の中で煙草の生産が終了し、高速道路網は県境を越えた川之江が要衝となってしまいましたが、今も、阿波池田は魅力的な観光資源が豊富な街。大歩危小歩危祖谷のかずら橋といった名所へ多くの観光客が訪れます。
四国山地の阿波池田の春は間近。高速バスでの歴史さんぽもたまにはいかがでしょうか。

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阿波池田をめぐる(前編)

投稿日:



寒さが一段と厳しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

神戸三宮バスターミナル

今回訪れたのは三宮にある神姫バス神戸三宮バスターミナル
四国・中国方面の長距離路線から短距離まで、数多くの高速バスが発着するターミナルです。
ここから乗車するのが山陽バス昼間高速バス三宮~阿波池田線です。

阿波池田バスターミナル

山陽バスの新しい車両で快適だったのですが、阿波池田までは3時間ほど…。少し疲れた頃に阿波池田バスターミナルに到着しました。
阿波池田は徳島県の最西端、三好市にあります。かつては池田町と呼ばれていたのですが、平成18(2006)年に周辺の町村と合併し、人口2万7千人を数える市となりました。

卯建のある造り酒屋

バスターミナルの近くを歩くと、さっそく、趣のある建物を見つけました。
こちらは「三芳菊酒造」という造り酒屋の店舗です。建物の両側に設けられた衝立のような設備は「卯建(うだつ)」と呼ばれるもので、火災の延焼を防ぐための防火壁として設けられたものです。ただし、防火設備としての役割に重きが置かれたのは江戸時代の初め頃までで、江戸時代の中頃には商家の財力を示す装飾的な役割を果たすようになりました。ちなみに、慣用句の「うだつの上がらない」は卯建を設けるほどの財力がないことを語源としているとされています。卯建の街並みといえば、先ほど、高速バスで通りかかった美馬市の脇町地区が有名ですが、阿波池田の街並みも十分に見応えがあります。

阿波池田たばこ資料館

さらに街中を歩いていくと、古い建物が建ち並ぶエリアに差し掛かりました。この辺りが阿波池田の旧市街地に当たるエリアです。その中の一軒「うだつの家」の看板を掲げているのが「阿波池田たばこ資料館」です。ここは卯建の家の内部を使って、かつて阿波池田で生産されていた煙草の製造過程を紹介する資料館です。楽しみにしていたのですが、なんと、訪問時は休館日。仕方ないので、街並みを眺めて過ごすことにしました。

徳島県西部の山間部は古くから農林業が盛んな地域ですが、江戸時代以降の商品経済の広がりとともに、「阿波葉」と呼ばれる煙草の栽培が盛んにおこなわれるようになりました。煙草生産の中心となったのがここ阿波池田で、多くの加工・販売業者が集まっていました。阿波池田の煙草は品質が良いとして、上方を中心に人気があったと言われています。先述の卯建を上げたのも、多くは煙草で財を成した商家だったそうです。
明治の専売制度の後も発展を続け、大正期に生産のピークを迎えたとされています。この「阿波池田たばこ資料館」も当時の商家の建物を利用したものです。

バスターミナルの片隅に

先ほどのバスターミナルの片隅には、こんな石碑がありました。
このバスターミナルのある場所には、かつて、日本専売公社(のちの日本たばこ産業)の池田工場があり、阿波の煙草産業の象徴的な存在でした。この工場の立地によって阿波池田の街は大いに発展したと言われています。
しかし、時代の変化とともに平成15(2003)年に工場は閉鎖。程なくして阿波の煙草の生産も終了してしまいました。現在は、先ほどの街並みに煙草産業が栄えた当時を偲ぶばかりです。

古くから徳島県西部の中心として栄えた阿波池田は他にも見どころがたくさんあります。
次回、引き続き、阿波池田の街を歩いてみたいと思います。

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