せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

谷八木・大窪を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、谷八木川から大久保にかけてを歩いてみたいと思います。

大窪

賑やかな大久保駅前から北へと歩いていくことに。この辺りはかつて大窪という集落でした。ちなみに、宿場町があったのが「大久保」(後に「大久保町」)で集落が「大窪」で、何だかちょっとややこしいですね。

光触寺

集落の中に立派な寺院がありました。こちらは光触寺です。この寺院の歴史は古く、創建は鎌倉時代にさかのぼるといわれています。源平合戦の際に平家方に付いた武将・佐々木義清は合戦後、一時は幕府の役人になるものの合戦の死者を弔うために出家し、旅に出ました。その旅の中でこの地に立ち寄った際、住民に仏道を説くと多くの人が集まるようになり、この地に寺院を建立することになったのが始まりと言われています。

太鼓櫓

山門は閉ざされていて境内を伺うことはできなかったのですが、塀の向こうに立派な太鼓櫓を眺めることができました。

大窪八幡宮

さらに歩いていくと大きな神社がありました。こちらは大窪八幡宮です。建立は江戸時代の寛永7(1630)年で、初代明石城主小笠原忠政から黒印領の寄進を受けるなどでこの地域の中心の神社として重用されてきました。

大窪八幡宮の境内

境内は雨に濡れてちょっと寂しい様子です。

大久保といえば駅前のマンションの景色が思い浮かんでしまいますが、少し足を伸ばせばけば歴史ある街並みが続いています。早春のお散歩に谷八木・大窪はいかがでしょうか。

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谷八木・大窪を歩く(前編)

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寒さの中に春の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。 こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

中八木駅

山陽電車で到着したのは小雨の降る中八木駅

谷八木川

中八木駅から歩いてほどなく、谷八木川に差し掛かりました。道路の拡幅工事と山陽電車の橋の架け替え工事を行なっているために何だかごちゃごちゃした様子です。

谷八木川の流れ

谷八木川に沿って遡っていくと、のどかな景色が広がります。

大久保町住吉神社

谷八木川を左岸に渡ると神社がありました。こちらは大久保町住吉神社(おおくぼまちすみよしじんじゃ)です。この辺りで住吉神社と言えば魚住の住吉神社が思い浮かんでしまいますが、こちらは大久保町周辺に氏子を持つ神社です。小さな神社ですが、安土桃山時代の天正16(1588)年の創建という由緒ある神社です。

大久保宿

大久保町住吉神社からJRの線路を渡ると、趣のある街並みの地区に差し掛かりました。この辺りは大久保宿という山陽道の宿場町でした。板塀の民家がかつての本陣と言われています。大久保宿は山陽道のこの付近では大きな宿場町で、江戸時代には本陣と脇本陣があり、たくさんの旅籠が建ち並んで非常に賑わったといわれています。現在は静かな住宅地となってしまいましたが、道の雰囲気が当時を偲ぶことができますね。

明治天皇大久保御小休所建物

旧街道の道を歩いていくと、古い洋館が見えてきました。洋館の前には「明治天皇大久保御小休所建物」の石碑があります。この洋館が「明治天皇大久保御小休所建物」なのかというところですが、この建物は大正7(1918)年頃に大久保本陣を営んだ安藤家が建てたもので、この洋館の敷地内に明治18(1885)年、明治天皇が西国巡幸をされた際に休憩された建物があるとのことです。

旧街道を歩いていくと、大久保駅前のマンション群が近づいてきました。谷八木川からは離れてしまいますが、もう少しこの辺りを歩いてみたいと思います。

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湊川河口の港・佐比江を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、旧湊川河口の町を歩いてみたいと思います。

湊八幡神社

鎮守稲荷神社から旧湊川の分流の道に戻ったところにあったのが湊八幡神社です。
この付近にはかつて西国街道が通っていて、兵庫の町の東の玄関口となる「湊口惣門」がありました。現在、その痕跡はありませんが、この神社の前には惣門があったことを示す石碑が建てられています。

七宮神社

阪神高速の高架を潜った先にまた神社がありました。こちらは神戸八社の一つである七宮神社です。こちらの神社も建立された時期が不明なのですが、もともとは会下山の麓にあったものを平清盛経が島築造の際にこの地に移したという説もあるようで、非常に古い神社です。

竹尾稲荷神社

七宮神社から倉庫や事務所が建ち並ぶ街を歩いていくと、小さな神社がありました。こちらは竹尾稲荷神社です。

高田屋嘉兵衛顕彰碑

小さな神社の境内には古い石碑がありました。こちらは江戸時代の豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑です。この神社がある辺りには嘉兵衛の営んでいた高田屋の本店があったといわれています。

高田屋嘉兵衛は淡路島の都志本村(現在の洲本市五色町都志)の出身で、兵庫に来たのは22歳の時。兵庫の港で沖船頭などを務める中で頭角を現して昇格していき、ここ西出町に居と高田屋の本店を構え、蝦夷地(現在の北海道)や国後島・択捉島といった北方領土へと進出し、廻船商人として財を成していきました。前回訪れた西出鎮守稲荷神社には嘉兵衛が寄進した灯篭が今も残されています。

高田屋本店跡

竹尾稲荷神社の近くには高田屋本店跡の碑がありました。

廻船商人として財を成した高田屋は択捉島などで漁場の運営にも携わっていき、文化8(1811)年、ロシア海軍の軍人であるヴァシーリー・ゴロヴニーンを江戸幕府が捕縛したことに始まるゴローニン事件では報復的に拿捕されたものの、ロシアの役人と交渉して解決に貢献するなど、当時の日本を代表する商人となりました。嘉兵衛は隠居した後に故郷の都志に戻りますが、高田屋の本店は兵庫から箱館(函館)に移転。嘉兵衛の死後、高田屋はロシア政府との関係を幕府から咎められて没落し、現存していません。

兵庫の海を臨む

竹尾稲荷神社の先から兵庫の海を眺めてみました。地形も町も変わってしまいましたが、現在もここには物流を担う企業が多くあります。港にたたずんでみると、嘉兵衛が北へを漕ぎ出した港の面影をどこか感じることができるかもしれません。

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湊川河口の港・佐比江を訪ねて(前編)

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暦の上では春でもまだまだ寒い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

新開地駅

今回訪れたのは新開地駅
商店街に向かって開いた駅の出入り口は下町らしい雰囲気です。

旧湊川跡

南東に伸びる道は旧湊川の川跡です。湊川公園付近では結構な高さだった川跡ですが、この辺りでは堤防は崩されてしまいそれと言われなければ気が付かないほどになっています。

湊町公園

川跡の南側に出ると、こちらにも広い道路があり、道路に沿うように公園が広がっています。緩やかにカーブを描いた道路は何だか川跡のような雰囲気ですが…。

佐比江町

JRの高架を潜り、横道に入ったところが佐比江町です。何だか気になる地名ですね。実は、この辺りにはかつて佐比江と呼ばれる港がありました。先ほどの気になる道路は湊川の分流で、湊川から分かれてこの佐比江を経て大阪湾に注いでいました。

かつての兵庫の町は兵庫城周辺から北東にはこの付近まで広がっていました。しかし、佐比江は江戸時代始めまでは街はずれの寂しい浜辺だったようです。それが江戸時代前期には兵庫の出町として整備されることになりました。佐比江は船入り江として改修され、江戸時代後期まで兵庫の港の一部として機能していたようです。寂しい浜辺には船大工や問屋が建ち並び、賑わったといわれています。重要な役割を果たした佐比江ですが、江戸時代の終わり頃には埋め立てられてしまい、今では地名にその名前を残すだけとなっています。

西出鎮守稲荷神社

佐比江町から阪神高速道路のほうに向かって歩き、西出町に入ると神社がありました。こちらは西出鎮守稲荷神社です。創建は不明ですが、一説では平清盛が建立したとも言われています。この社殿の中にはビリケンさんが祀られていて、社殿のガラス越しに見ることができます。

この西出鎮守稲荷神社はビリケンさんだけでなく、ある人物にゆかりのある神社です。
次回はさらに周辺を歩いてみたいと思います。

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御着を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。 前回に続いて、御着を歩いてみたいと思います。

黒田家廟所

御着城跡の裏手に黒田家廟所がありました。江戸時代に福岡藩主だった黒田家がゆかりのあるこの地に建立たもので、向かって左が官兵衛の祖父の黒田重隆、右が官兵衛の父・職隆の妻の墓標です(職隆の廟所は妻鹿にあります)。

国分寺

御着城跡から国道を歩いていき、横道に入ると寺院がありました。こちらは国分寺です。

現在、この辺りでは御着城が知られるようになりましたが、もともとは播磨国分寺のある町でした。播磨国分寺が創建された年代はわかっていませんが、古代の天平13(741)年に聖武天皇の詔で日本全国に国分寺が設置された時期に創建されたと考えられています。また、国分寺の北側には国分尼寺もセットで建立されたそうです。

国分寺跡

現在の国分寺の南側には広場がありました。こちらはかつての国分寺があった場所であるとされています。戦後から発掘調査が行われ、現在は史跡公園として整備されています。

播磨国分寺は平安時代の末頃まで存在していたそうですが、その後衰退し、「国分寺」という地名だけが残されていたようです。しかし、安土桃山時代には豊臣秀吉、江戸時代には姫路藩から土地の寄進を受けて堂宇が再興され、現在の位置に復活しました。

国分寺山門を望む

国分寺跡から現在の国分寺の山門を眺めてみました。何となく、こちらが入口のような気がしてしまいますが、門は固く閉ざされていました。

今では姫路の市街を外れたのどかなこの辺りですが、市川の河岸段丘に生まれた平野は古代から播磨国の中心として機能してきました。御着城が置かれたのもそうした背景があったからと言えるのでしょうか。暦の上では立春を過ぎ、春ももう間近。大河ドラマ後の御着をゆっくり歩いてみませんか。

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