せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古代駅家の地・太市を訪ねて(前編)

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寒さの中に春を感じることが増えたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

太市駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーに乗り換えて着いたのは太市駅です。

太市駅の駅舎

太市駅自体は無人駅ですが、地元企業の本社ビルを兼ねた駅舎があり、一階ではカフェやこの地の特産のタケノコを使った商品などを販売する店が設けられていました。

姫路や龍野といった歴史ある町に囲まれている中で太市は決して目立つわけではありませんが、その歴史は非常に古く、奈良時代初めに記された『播磨国風土記』には既にその名前があると言われています。風土記によれば、応神天皇がこの地を訪れ、山に囲まれた狭いところと聞いていたのにまことは「大内」であると言ったことから、「大内」と呼ばれるようになったとされています。その他に邑智(おおち)、大市、於布智、於保知などとと書かれることもあったようですが、現在の「太市」の表記が使われるようになった時期は分かっていないようです。

破磐神社の鳥居

駅から北側へ歩くと、田んぼの中に鳥居が佇んでいました。破磐神社(はばんじんじゃ)の鳥居です。

破磐神社

山の麓に佇んでいたのは破磐神社です。

太市が古い歴史があるのと同じように、ここ破磐神社も長い歴史を持っています。伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途、麻生山(山陽電車白浜の宮駅とJR御着駅の間にある山)から三本の矢を射ました。一本目は的形、二本目は姫路市の辻井、そして、三本目はここ太市に落ちたそうです(的形には神功皇后にまつわる別の矢落伝説があり、三本の矢が落ちた場所にも諸説があります…)。太市に落ちた矢は大岩に当たって岩を三つに割ったそうで、これを吉兆として矢を祀る祠を建てたのが破磐神社の始まりとされています。その岩は神社の南西の山の中に今もあり「破磐の大磐」として今もご神体とされています。かつては神社も大磐と同じ山の中にあったそうですが、祭礼の際の利便を図るために集落に近い現在の場所へ移されたとのこと。

破磐神社の境内

山の麓の神社の境内は広々としていました。特に祭礼でもないのに多くの参拝客がいるのに驚きましたが、どうやら、神秘的な創建伝説のおかげなのか、現在ではパワースポットとして注目されているそうです。

のどかな景色の中に長い歴史を持つスポットが佇む太市、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

西郷から敏馬の浦を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘を歩いてみたいと思います。

敏馬神社

西求女塚古墳から青谷川を渡って交通量の多い浜手幹線を歩くと鳥居が見えてきました。こちらは敏馬神社(みぬめじんじゃ)です。

敏馬神社御旅所

少し時間を遡って、こちらは大石の住吉神社にあった石碑です。この石碑に刻まれている通り、大石の住吉神社は大石浜で物資の運搬に携わる船の航海の安全を祈願するだけでなく、ここ敏馬神社の御旅所にもなっています。

敏馬神社は伝説でははるか古代の神功皇后元(201)年の創建とされ、神功皇后の三韓征伐の際に守護神を祀ったとされています。古代、敏馬神社のある場所は現在でも小高い丘になっていて、古代の海岸線が今よりも山手にあった頃には岬のようになっていたそうです。東側は入江のようになっていて、「敏馬の泊」と呼ばれる港になっていました。港の機能は奈良時代には大輪田の泊へと移されますが、この敏馬の泊が神戸に港が整備されるようになった始まりと言えるのかもしれません。

敏馬神社の境内

浜手幹線からの急な石段を上がると敏馬神社の社殿へと着きます。かつては岬だっただけあり、海岸に近く平坦なこの辺りでは珍しい高台です。

港ではなくなった後も、ここ敏馬浦は白砂青松の景勝地として知られるようになりました。近世には神社前の西国街道の沿道が栄えるようになっただけでなく、氏子地の大石味泥岩屋といった村々が酒造業で栄えるようになり、その財力を頼りに与謝蕪村とその弟子の呉春大魯が訪れ、この地でも俳人が生まれるようになりました。

敏馬浦を見下ろす

敏馬神社からかつての敏馬浦を見下ろしてみました。白砂青松の景勝地だった海岸は近代にかけて、海水浴場やボートハウス、料亭等が設けられて、一種のリゾート地として人気を集めるようになります。しかし、昭和に入って阪神電車の建設工事の際に発生した土砂で海岸が埋め立てられ、現在では阪神高速神戸線の高架橋がそびえたっていて、かつての景勝を忍ばせるものはありません。氏子地でも岩屋や味泥では酒造は行われないようになり、街の景色は大きく変わりました。しかし、今でも、敏馬神社の神輿はかつての景勝地や酒造で栄えた村々を、大石へと巡っています。

岩屋駅

敏馬神社から山手へ歩くと阪神電車の岩屋駅へ着きました。色とりどりの装飾が賑やかな駅は兵庫県立美術館の最寄り駅としても知られています。

かつて都人が憧れ、多くの文化人が足を運んだこの地は、新しい形で芸術の発信地となっているのかもしれませんね。

西郷から敏馬の浦を訪ねて(前編)

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梅の咲く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西郷町道路元標

前回まで歩いたのは灘区の大石です。阪神電車の大石駅の近くには「西郷町道路元標」と刻まれた石碑がありました。大石駅の周辺は灘五郷の「西郷」に当たることは前回まで歩いてきたとおりです。この西郷はかつて「上灘郷」「上郷」などと呼ばれていました。「上」があるのならもちろん「下」もあり、西側は「下灘郷」と呼ばれていました。今回は西郷から西へと歩いてみたいと思います。

船寺八幡宮

大石駅前から西に向かって小さな商店街がありました。商店街の先にあったのが船寺八幡宮です。

船寺八幡宮の境内

大石駅から続く商店街は門前町のような街だったのでしょうか。その奥に佇む神社は広々とした境内を持つ神社です。はるか古代、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地で風雨を避けたという伝説があり、平安時代の永保2(1082)年に京都・石清水八幡宮から分霊を迎えて創建されたそうです。珍しい東向きの社殿は朝日の昇る方向を向いているとのこと。

灘五郷の西は西郷ですが、近世には現在の中央区から東灘区にかけての一帯が「灘目」と呼ばれていて、「上灘郷」「下灘郷」に分かれていました。上灘郷はさらに西郷、御影郷、魚崎郷に分かれ、西宮郷と今津郷と合わせて現在の灘五郷(近代灘五郷)を形成します。一方、上灘郷の中でも西側の岩屋や脇浜といった地域や、神戸、走水といった下灘郷では、酒造は近代までに衰退してしまいました。

西求女塚古墳

住宅地の中に公園がありました。公園の名前は「求女塚西公園」で、公園の中のこんもりとした小さな丘は西求女塚古墳という前方後方墳です。築かれたのは古墳時代前期の3世紀後半とされていて、移り変わっていく街の様子を眺めてきたのでしょうか。

次回も灘を西へ向かって歩いてみたいと思います。

西郷・大石を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大石を歩いてみたいと思います。

沢の鶴資料館

住宅地の中に立派な瓦屋根の建物がありました。こちらは酒造メーカー沢の鶴「沢の鶴資料館」です。古い酒蔵を使った資料館で、館内では酒造りの様子などを見学することができます。酒蔵の資料館は現在では各地にありますが、日本で最初に公開されたのはこの沢の鶴資料館とされています。

ここ灘で酒造が始まったのは室町時代頃とされています。もともと伊丹や大阪の池田で盛んだった酒造ですが、伊丹の雑喉屋文右衛門なる人物が江戸時代の寛永年間(1624~43)に西宮へ移って酒造を始めたことが始まりとされています。その後、六甲山地からの水に恵まれた灘では酒造業が広まり、西は神戸の生田川の「下灘郷」、東は西宮の「今津郷」に広がる一帯で営まれるようになりました。ここ大石の含まれる上灘郷(のちに三分割されて西郷)で酒造が始まったのは江戸時代初めの元禄3(1690)年頃とされています。

住吉神社

沢の鶴資料館の傍には小さな神社がありました。こちらは住吉神社です。

都賀川

沢の鶴資料館と住吉神社の近くから、都賀川の畔に降りることができました。

ここ大石で酒造が始まったのは江戸時代前期ですが、それ以前、この辺りでは豊富な水を使った水車業が盛んでした。ここには菜種や綿実といった絞り種が集まり、水車で絞られた油が都市部へと出荷されていきました。先ほどの住吉神社は油などを運ぶ船の航海の安全を祈るために建立されたものです。酒造業が盛んになると、油を搾るための水車は酒米の精米に使われるようになり、絞り種や油を運び出していた港は酒米や酒を運ぶのに使われるようになります。豊富な水、水車による効率的な精米、そして、製品の運び出しに便利な港の存在は灘を一気に酒の一大生産地へと発展させることとなりました。

都賀川の河口

大石の街を歩いていくと、都賀川の河口が見えてきました。川の上に架かるハーバーハイウエイの橋の向こうには大阪湾が広がっています。

防潮堤と灘浜灯台

都賀川の河口の左岸に灘浜緑地という広場がありました。広場の一角には防潮堤と灘浜灯台が佇んでいます。ここ都賀川河口付近は「大石浜」「灘浜」と呼ばれ、天然の良港として中世の「御石」、そして、近世の油や酒の運び出しに使われてきました。現在では面影はありませんが、かつての港の場所に、御影石の防潮堤と灯台が復元され、ここに港があったことを現代に伝えています。

大阪湾を眺めて

灘浜緑地からは青々とした冬の大阪湾を眺めることができました。この海を通じて運び込まれ、そして、運び出されていった製品たちが、ここ大石や灘を発展させてきたと思うと、穏やかな海が違ったようにも見えるような気がします。

これから灘は新酒の季節を迎えます。お酒を楽しみながら、灘の歴史を訪ねてみる旅も、楽しいかもしれませんね。

西郷・大石を歩いて(前編)

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晩冬の候、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大石駅

直通特急から阪神電車の普通車へ乗り換えて着いたのは大石駅です。

灘五郷・西郷

大石駅があるのは神戸市灘区です。灘区と言えば酒どころ。この大石駅のある辺りは灘五郷の西端にあたり、「西郷」とも呼ばれています。

旧西国浜街道碑

大石駅から「大石川」とも呼ばれる都賀川に沿って歩きます。阪神高速の下を地下道でくぐり、大石南町へ入りました。川に架かるのは西郷橋。橋のたもとには「旧西国浜街道」の碑が建てられていました。山手を通る西国街道の本街道に対して、ここ大石を東西に通るのは生活道路の浜街道でした。

「大石」の地名の由来には諸説あるようです。その一つが、もともと「生石(おいし)」と呼ばれていたこの地の舟人が神功皇后の三韓征伐の際に功あり褒賞として米十八石を賜りました。この十八石の「十」「八」を組み合わせて「大」として地名に当てたとされています。一方で、秀吉の大坂城築城の際にこの地の石を「御石」として建築資材に使ったことも由来とされていますが、それ以前の資料にも「大石」の名が出るようで、本当のところはよくわかりません。

西国浜街道を眺める

西郷橋と街並みを眺めてみました。

西国浜街道の沿道、そして、灘五郷の西郷として賑わった大石、もう少し歩いてみたいと思います。