せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

新湊川を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて新湊川沿いを歩いてみたいと思います。

会下山

新湊川が貫く会下山に登ってみました。山の上は公園になっていて、神戸の街を見下ろすことができました。

街中にぽっこりと盛り上がる会下山は古くから人が居住していた地区ですが、その名が知られることになったのは、南北朝時代の建武3(1336)年の湊川の戦いでしょう。九州から攻め上ってきた足利尊氏・直義の軍勢を後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍勢が迎え撃った戦いで、楠木正成が陣を敷いたのがこの会下山でした。見晴らしがよく、陣を敷くにはよさそうに見えるのですが、実際には足利軍に挟み撃ちにされて本隊の新田軍は東へ逃れ、孤立した楠木軍は壊滅。その後、新田義貞が軍を返して戦いましたが、圧倒的な兵力差に後醍醐天皇方は敗北しました。楠木正成は後に湊川神社に祀られています。
楠木正成の陣の跡には石碑が建てられ、今も神戸の街を見下ろしています。

新湊川トンネル吐口

会下山を下り、再び新湊川沿いを歩くことに。
新湊川トンネル吐口の坑門はレンガ積の美しい装飾が為されています。

長田地区を流れる

新湊川はここから長田の街中を流れていきます。
こんな市街地に川を開削するのは大変だったのではないかと思うのですが、古い地図を見ると、開削当時のこの辺りは市街地の外れで山の「際」だったようです。周辺には田畑が広がっていたようですが、市街地を開削するよりは比較的容易だったのでしょう。

長田橋

少し賑やかになってくると、長田橋に差し掛かりました。
朱塗りの欄干からわかるように、この北側には長田神社が鎮座しています。 1800年以上ものこの神社の歴史の中で、参道を川が横切るのは未だ新しい光景です。
新湊川はこの長田神社の南側で古くから流れていた苅藻川と合流します。

新湊川の果て

歩き疲れて地下鉄でショートカットして到着したのが地下鉄海岸線の苅藻駅近くの新湊川の河口です。倉庫や工場が建ち並び、風情のある景色とはいいがたいのですが、古くて新しい川、新湊川はここで終わり、大阪湾へと注いでいきます。

古くからの良港・神戸が生まれた背景には地形や水など様々な条件があるとされていますが、私はこの湊川の存在も無視できないのではないかと思います。旧湊川に続いて、新湊川を歩いたので、次は「古湊川」を歩いてみようかと思いながら、帰途に就くことにしました。

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新湊川を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて新湊川沿いを歩いてみたいと思います。

川辺に降りてみる

新湊川沿いに歩いていると、川辺に降りられる階段を見つけました。
試しに降りてみたのですが、コンクリートの壁に囲まれ、下水の匂いが漂い、「調整池恐怖症」の私には正直あまり気持ちのいい空間ではない…。コンクリートの壁の向こうには巨大なトンネルがぽっかりと口を開けていてより背筋がぞわぞわしてしまいます。そそくさと「地上」に戻ることに。

新湊川トンネル

ぽっかりと口を開けていたのは新湊川トンネルです。あまりの大きさに何だか感覚がおかしくなりそうですが、説明看板によると坑口は幅12.8mで高さ10.2mとのことなので、高速道路のトンネルと同じくらいの大きさです。

天井川だった旧湊川は大雨のたびに氾濫し、市街地に水害を引き起こしていました。さらに、開港地・神戸に土砂を運ぶ厄介な存在でもあったため、明治34(1901)年に新湊川が開削され、流路を変更されることになりました。その際に掘られたのが日本初の近代河川隧道とされる湊川隧道でした。川の流路変更のためになぜ、そんな大工事をしたのか。地図を眺めながら想像してみると、普通なら、この会下山を避けて上沢、下沢へと、ちょうど古代にこの地を流れていた古湊川のルートをなぞるように流せばいいと考えるところでしょうが、古い地形図をみるとその辺りは既に市街地となっていて、新たに川を開削するのは大変そうです。さらにそのルートでは和田岬の北側に流れ着くことになるので、神戸港への土砂の流入を防ぐという目的も果たせそうにはありません。その他の考えうるルートも同じようなもの…ということで、トンネル掘削という難工事を選んだのでしょうか。

湊川隧道

湊川隧道は100年近く新湊川の流路となってきましたが、明治時代の小さなトンネルでは近年の水害に対応することが困難となってきました。平成12(2000)年に新湊川トンネルが完成し、新湊川の流路がそちらに移った後は近代化遺産として保存され、イベント等の際に公開されているようです。

会下山へ

これまで新湊川沿いに歩いてきましたが、トンネルを歩くことは当然できないので、ここで川を離れて会下山へ登ってみることにしました。

さくっと進みたいところではありますが、残念ながら(?)会下山も無視できないスポット…ということで、次回に続きます。

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新湊川を歩く(前編)

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春の気配を感じるこのごろ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

湊川駅

今回訪ねたのは湊川。

旧湊川の高低差

駅を出て湊川トンネルをくぐると、某町歩き番組でも取り上げられた旧湊川跡の高低差が。
この旧湊川「神戸」「兵庫」の二つの港の境になったことはこのブログでも何度か取り上げてきました。

旧湊川を遡る

旧湊川の川跡は多くが繁華街や市場などになりましたが、川跡を遡っていくと住宅地になっている地区もありました。この辺りは洋館やうだつのある民家などが建ち並び、ちょっと不思議な雰囲気です。古い地形図を見ると、このあたりに住宅が建ち始めたのは大正時代頃からのようで、古い民家は当時のものなのでしょうか。

新湊川

住宅地を通り抜けると、新湊川の川辺に出ました。渓谷のように深い川は現在はここで流路を西に曲げられ、長田方面に向かって流れています。今回はこの新湊川沿いを歩いてみることにしましょう。

洗心橋

新湊川沿いに歩いて早速発見したのは「洗心橋」という橋。かつて、この近くには神戸拘置所があり、出所した人の更生を願って橋に「洗心」という名前が付けられたのだとか。

神戸拘置所跡

新湊川から寄り道して神戸拘置所の跡を訪ねてみました。 地図を見ると拘置所のあった場所が不自然に四角い区画になっていることでそれとわかりますが、現地を訪ねてみると公園や集合住宅が建ち並び、拘置所があったことを物語るものは見当たりませんでした。

次回は、拘置所の跡から新湊川沿いに戻り、さらに歩いてみたいと思います。

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木場を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、木場を歩いてみたいと思います。

正福寺

木場港から木場の街中を歩いてみることにしました。
住宅地の中にあったのは正福寺という寺院です。もともとは室町時代に大阪に建立された寺院だったようなのですが、大坂の陣で焼失。後にこの木場の地に建立されたものとされています。

木場の街並み

正福寺から木場の街を歩いてみます。ゆったりした街並みは漁村とは少し違ったような雰囲気ですね。

かつて「木庭」と呼ばれていた木場は塩田で栄えた村でした。現在は、右岸は工場や倉庫の建ち並ぶ埋立地、左岸は住宅地となっている八家川の両岸では江戸時代の初めから塩田の開発が行われました。この塩田を開いたのが前回訪れた木庭神社を創建した木庭の長者・三木九右衛門宋栄です。戦後に製塩が近代化されるまで、この地では塩が生産され続け、特産品の一つとなっていました。

岩神社

木場の街中にあったのが岩神社。その名の通り、岩をご神体として祭る神社です。創建時期はわかっていませんが、江戸時代の記録にはその名があるとのこと。

板塀の街並み

岩神社の先には通りの両側に板塀が連なっていました。木場は決して街並みで知られているわけではありませんが、趣のある街並みが続きます。

八家駅

集落の中を通り抜け、山陽電車の八家駅にたどり着きました。駅のホームでは先ほど見てきた小赤壁のイラスト看板が迎えてくれました。

冬の終わりももうすぐ。
暖かい季節には山陽電車の駅から足を延ばして、かつての港や塩で栄えた街並みを巡ってみませんか。

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木場を歩いて(前編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回までは的形の韓泊・福泊を歩いてきたのですが、そのまま足を進めて西に向かうことにしました。

小赤壁

八家地蔵付近から西に目を向けると海から切り立った崖が見えました。こちらは小赤壁と呼ばれる自然の地形です。

小赤壁は江戸時代後期の漢学者・頼山陽が文政8(1825)年にこの地を訪れた際、中国湖北省咸寧市の赤壁に似ているとして命名しました。この小赤壁をつくる燈籠地山には中世に福泊構居という砦が設けられ、幕末には姫路藩が福泊砲台の番所を築いたとのこと。今も痕跡があるようなのですが、冬でも鬱蒼と木々が生い茂る山に登る気はあまりありません。

小赤壁公園

山側から小赤壁の上の小赤壁公園に登ってみました。木庭山の上にある公園は見晴らしがよく、眼下には播磨灘が広がります。水平線にぽっこり顔を出しているのは無人島の上島です。

木庭神社

公園の隅にあったのが木庭神社です。福泊神社の西側に旧印南郡と旧飾東郡の境があり、この辺りの地名は姫路市木場です。ただし、神社の名前は木(きにわ)で何だかややこしいですね。もともと地名も木庭だったのがいつしか木場に変わったためこんなことになっているようです。神社自体は元和元(1615)年に木庭の長者・三木九右衛門宋栄なる人物が建立し、白浜町の松原八幡神社の別宮で、木場の産土神とされているとのこと。

木場港

木庭山から坂道を下り、海辺に出ました。
漁船が集まるのは木場港です。入り江というか八家川というかの対岸は埋立地で倉庫などが建ち並んでいますが、東側の山沿いには木場の古くからの街並みが続いています。次回はこの街並みを歩いてみたいと思います。

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