せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

お堀の始まり・姫路城の東を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城を歩いてみたいと思います。

姫路神社

喜斎門跡から城内を北へ歩くと神社がありました。こちらは姫路神社です。

姫路神社の境内

緑豊かな境内には鳥の鳴き声が響いています。

姫路神社の歴史は姫路城の歴史と比べると新しく、明治12(1879)年に姫路城下に建立されたのが始まりです。廃藩置県により藩主・酒井氏が姫路を離れて東京へ移ってしまったことに旧藩臣や旧領民が思慕の念を募らせ、酒井氏の祖とされる戦国時代の武将・酒井正親と歴代藩主を祀る神社を建立しました。しかし、この場所は城下の街中で、民家も隣接している狭隘な環境であったために、官有地となっていた姫路城内の土地を当時の大蔵省から買い受け、昭和2(1927)年に現在の場所へと移しました。それにしても、先日訪ねた長壁神社「姫路ゆかたまつり」の由来にまつわる伝説といい、姫路城の城主は人々に好かれることが多かったようですね。

寸翁神社

境内には江戸時代後期に姫路藩で家老をつとめた河合寸翁を祀る寸翁神社が佇んでいます。河合寸翁は藩の特産品の改革をおこない、産業振興に尽力しました。この寸翁神社は戦後に市内の商工関係者が寸翁の功績を称えて奉賛したことで社殿が建てられたものです。

お堀の始まり

姫路神社の傍にせせらぎがありました。この水を辿ってみると、傍の内堀へと注いでいます。池田輝政が改築した姫路城の特徴は「の」の字を描くように螺旋状に城を取り囲むお堀にあります。「の」の字である以上は始まりがあり、それがこの場所のようです。

姫路城の内堀

姫路神社の傍から内堀を眺めてみました。小さなせせらぎから注いだ水は内堀を満たしていました。この水はやがて城内を巡っていきます。

姫路城世界遺産登録30周年

姫路城を出て大手前通りを歩いていると「姫路城 世界遺産登録30周年」のフラッグが風に揺れていました。

姫路城が世界遺産に登録されたのは平成5(1993)年12月で、今年2023年12月で30周年を迎えます。今後、姫路城や姫路の街では様々なイベントが開催されるのでしょう。そうしたイベントを楽しみながら、色々な表情を見せる姫路城を楽しんでみてはいかがでしょうか。

お堀の始まり・姫路城の東を歩いて(前編)

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梅雨明け間近の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

山陽姫路駅から大手前通りを歩いて着いたのは姫路城です。雲の合間からは夏の日差しが降り注いでいました。

姫路城を見上げる

三ノ丸広場から姫路城を見上げてみました。

姫路城が現在のような姿になったのは戦国時代の後半からです。築城された初めの頃は播磨平野に佇む姫山に築かれた砦のような城だったそうですが、黒田官兵衛羽柴秀吉と言った武将たちが城代をつとめ、城郭は拡張されていきました。特に、江戸時代初めの池田輝政の改築によってほぼ現在の姿となったようです。今では整備された城郭となり、ここが山であることは分かりにくくなっていますが、時折、こうした高低差のある山らしい景色を見ることができます。

内船場蔵南石垣と内堀

大天守の東側へ歩くと堀の傍に差し掛かりました。この堀は内堀から分岐して大天守へ伸びた行き止まりの堀です。深く切り込んだ堀はまるで渓谷のようですね。池田輝政によって現在の姿に近い城郭となった姫路城ですが、近世から近代にかけても幾度となく修復されています。この堀に面した内船場蔵南石垣は池田輝政の頃に積まれたものだそうで、現在の姫路城の初期の頃の面影を今に伝えています。

喜斎門跡

堀の向こうは喜斎門跡です。この門は姫路城の搦手口(裏門・勝手口)でした。わざわざ内堀から分岐していた先ほどの堀は城の正面の三ノ丸とこの搦手を分断する役割を担っていたのでしょうか。

これまで何度も訪ねてきた姫路城ですが、新しい視点で眺めると違った姿が見えてくるようです。次回ももう少し姫路城を歩いてみたいと思います。

市川の畔・阿成を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、妻鹿駅から市川沿いに歩いてみたいと思います。

阿成

堤防を降りて住宅地の中を歩くことにしました。通りかかった交差点の名前は「阿成鹿古」と簡単なようで読みづらい名前ですが、「あなせかこ」と読みます。この辺り一帯は「阿成」という地名で呼ばれています。

早川神社

整備された住宅地を歩いていると、神社がありました。こちらは早川神社です。

早川神社の境内

境内は木々が生い茂り杜となっています。きっと秋には紅葉が美しいのでしょうね。

早川神社の創建時期はわかっていませんが、「大国主命」こと大己貴命を祀る神社です。伝説ではこの場所から市川や姫路バイパスを挟んだ北東の麻生山で神功皇后が三韓征伐の凱旋の際に三本の矢を射る神事をおこないました。その際、大己貴命の神託があり、この地に社が築かれたとされています。また、「播磨国風土記」には倭穴無神の神戸(かんべ)がこの地にあったと記されているようで、今の奈良県桜井市にある穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の神戸があったようで、その縁でこの地に穴師坐兵主神社の分霊を祀る神社が建立されたとも言われています。

早川神社を歩く

境内は瑞々しい木々に囲まれていて、緑のトンネルのようでした。

この早川神社が穴師坐兵主神社にゆかりがあることから、この地は「安師」「穴无」「穴無」と呼ばれるようになったそうで、江戸時代には現在の「阿成」という表記が使われるようになったそうです。読めそうで読めない不思議な地名「阿成」はこの早川神社が由来だったのですね。

石棺底石

神社の裏手には古墳の石棺の底石とされる岩が佇んでいました。先ほど見てきたようにこの早川神社の創建時期は分かりませんが、創建の由緒からはるか古代に遡るとも言われています。歴史ある神社があることや、古墳の痕跡から、この阿成の地が古くから開けていたことを伺わせます。

道しるべ地蔵

早川神社を出て市川へ向かって歩くと道しるべ地蔵がありました。かつてはこの近くの市川の渡し船の乗り場の近くにあったそうで、お堂の中のお地蔵さんには「左かめやま 右ひめじ」と刻まれているそうです。

市川を歩く

道しるべ地蔵から市川の堤防へ上がりました。市川の水面はまるで鏡のように滑らかで、橋を渡る山陽電車の普通車が写っていました。

市川を渡る心地の良い風を感じながら、伝説に彩られた阿成を後にすることにしました。

市川の畔・阿成を歩いて(前編)

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梅雨の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妻鹿駅

山陽電車の普通車が着いたのは市川の畔の妻鹿駅です。

甲山を眺めて

山陽電車の市川橋梁に並行して架かるのは歩道橋の「なかよし橋」です。橋の上からはかつて国府山城のあった甲山を眺めることができました。

市川の堤防を歩く

なかよし橋を渡って市川の右岸を歩くことにしました。川の向こうには甲山がそびえています。

「国府山城」のほかに「甲山城」「妻鹿城」とも呼ばれるこちらの城は中世の鎌倉時代の末~室町時代頃に妻鹿孫三郎長宗なる人物が市川河口近くの築いたものです。以来、妻鹿氏の居城となり、室町時代の半ばには赤松貞村の次男の居城となりました。この国府山城が注目されるようになったのは天正8(1580)年のことで、姫路城を居城としていた黒田官兵衛羽柴秀吉に姫路城を譲り、官兵衛本人と父・職隆とともにここ国府山へ移ったことでした。今回は訪ねませんが、この甲山には黒田官兵衛の城の名残が今も残されています。

鉄橋を渡る山陽電車

轟音に振り返ると、直通特急が市川橋梁を渡るところでした。

次回も市川に沿って歩いてみたいと思います。

姫路・長壁神社を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、「姫路ゆかたまつり」の開催間近の姫路の街を歩いてみました。

西二階町

立町長壁神社からお城の方へ歩くと、アーケードのある商店街と交わりました。こちらは西二階町商店街で、道路は姫路城下を貫く旧西国街道です。江戸時代、城下の建物は平屋に限られていましたが、この辺りは旧西国街道の本陣が設けられ、立町の長壁神社と播磨国総社を結ぶ道でもあったことから城下の中心的な街であったため、二階建ての建物を建てることが許されていました。そのことが地名の由来になったとされています。

西二階町の入口

西二階町商店街の入口も「姫路ゆかたまつり」の開催に向けて装飾が施されていました。この通りは東二階町、西二階町の他に「中二階町」という一角もありましたが、こちらは戦後に大手前通りが造られた際に道路になりました。

播磨国総社

東二階町を歩き、西国街道をはなれて北へ向かうと播磨国総社こと射楯兵主神社に着きました。

長壁神社

総社の境内にも長壁神社があります。

前回も見てきたように、長壁神社は姫路城内と城下の間を何度も遷っています。秀吉の姫路城の改築の際に最初に遷されたのがここ総社でした。池田輝政によって総社の長壁神社は城内に戻されますが、寛永16(1639)年に松平忠明が城主となると再び総社へ遷され、さらに慶安2(1649)年に榊原忠次が城主になると城内の社が再建され、城内と総社の二つの社が併存することとなりました。さらに、その後、「姫路ゆかたまつり」の由来となったとされる遷座祭で立町へ長壁神社が建立されることになりました。一方、こちらの総社の長壁神社は明治時代に姫路城内の社を遷したのが国道の建設工事で昭和2(1927)年にこの場所へ遷されたものです。

姫路城を眺めて

二つの長壁神社を訪ねて歩いてきましたが、姫路城の大天守の最上階にはもう一つ長壁神社があります。さらに、江戸時代中期に当時の城主の松平朝矩が前橋藩へ転封となった際、前橋にも長壁神社の分社が建立されました。この神社は今もあり、日本に4つもの長壁神社があることとなります。姫山に鎮座していた神社が歴史の流れの中で4つに分かれていったのはなんだか不思議な気がしますが、この神社が城主にも城下の人々にも大切に信仰されてきたことを表しているのでしょうか。

「姫路ゆかたまつり」に因んで姫路市内に複数ある長壁神社を巡ってみました。今日6月22日は立町長壁神社の例祭日で、間もなく姫路へ夏の訪れを告げる「姫路ゆかたまつり」が始まります。長壁神社の歴史に思いをはせながら、今年2023年に4年ぶりに開催される夏祭りを訪ねてみてはいかがでしょうか。

姫路・長壁神社を訪ねて(前編)

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夏の始まりの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路ゆかたまつり

姫路に夏の訪れを告げるのは毎年6月に開催される「姫路ゆかたまつり」です。長らく感染症の影響で開催がありませんでしたが、今年2023年は4年ぶりに開催が決まりました。そんな久しぶりの祭りに盛り上がる姫路の街を歩いてみます。

大手前通りの看板

山陽姫路駅前から姫路城へと伸びる大手前通りには長壁神社の案内看板が並んでいました。「姫路ゆかたまつり」は長壁神社の祭礼にちなんだ夏祭りです。

立町長壁神社

市街地の中に小さな神社が佇んでいました。こちらが「姫路ゆかたまつり」の由来となった長壁神社です。祭りの開催が迫り、賑やかに飾られています。

長壁神社に祀られているのは奈良時代の光仁天皇の皇子の刑部親王とその王女・富姫とされています。もともとは市内の姫山に社があったそうです。しかし、この姫山には姫路城が築かれ、秀吉の姫路城改築の際にこの社は城下へ移されてしまいました。江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が病に倒れます。これが長壁神社を移した祟りであるとされ、神社は城内にも再建されました。その後、再び城下に移され、城内に再建されと移転を繰り返し、ここ立町に社が築かれたのは寛保2(1742)年のこと。城主をつとめていた榊原政岑越後高田へ転封される際、城内の長壁神社をこの場所にあった長彦寺(ちょうげんじ)に移して建立されました。遷座がおこなわれたのは夏至の6月22日で、この時の遷座祭が「姫路ゆかたまつり」の始まりとされています。

回り灯篭

長壁神社の前の交差点には回り灯篭が吊るされていました。

長壁神社の遷座祭は急に決まった祭礼だったため城下の町人の準備が整っていなかったところ、榊原政岑は裃の代わりに浴衣での参加を認め、走り馬の代わりに回り灯篭(走馬灯)を使ったとされています。ただ、長壁神社の遷座と祭礼が実際に行われたのは榊原氏の転封後だったそうで、祭りの期限には諸説あるようです。遷座によって城下で行われるようになった祭りに、榊原政岑を偲ぶ思いが結びついて、こうした伝説を生んだのかもしれません。

長源寺

立町長壁神社の近くには長源寺が佇んでいました。読みは長彦寺と同じ「ちょうげんじ」で、明治時代に無住になっていたものが大正時代に再建され、寺号を改めたものです。もともと立町長壁神社はこの長源寺の境内にありましたが、大正時代に再建された際に寺と神社で境内を折半して分かれたそうです。

4年ぶりに開催される「姫路ゆかたまつり」、歴史ある城下町の夏祭りの久々の開催で盛り上がる姫路の街をもう少し歩いてみたいと思います。

霊岩の佇む磐座・高岳を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の高岳・今宿を歩いてみたいと思います。

高岳神社鳥居

昌楽寺から住宅地を歩いていくと、家並みの中に立派な鳥居と灯篭が佇んでいました。高岳神社の鳥居です。

高岳神社

鳥居をくぐり、参道を西へ歩くと、木々に囲まれた丘に突き当たります。その名の通り、高岳神社はこの丘の上にあります。よく見ると、木々の間から見えるのは岩肌のようで、この丘全体が大きな岩でできているように見えます。まさに磐座というべきでしょうか。

高岳神社の境内

石段を上がると、険しい岩山の上に佇む社殿にたどり着きました。

高岳神社は平安時代の延喜式神名帳にもその名が記された古社です。創建時はここから北の八丈岩山に社殿があったそうですが、後に現在の場所へ遷っています。この場所へ遷った理由は縁起にもはっきりと記されていませんが、この岩山があったためでしょうか。

蛤岩

社殿の裏手に上る道を歩いてみました。社殿の裏は木々がほとんどなく、岩肌が剝き出しになっていて、まるで高山のような荒々しい景色に驚いてしまいました。岩山の頂には玉垣に囲まれた巨岩が佇んでいました。この岩は蛤岩と呼ばれる霊岩です。海から離れた内陸の丘の上に佇む岩ですが、この岩からハマグリの化石が発見されたことから蛤岩と呼ばれるようになったとのこと。発見された化石は神社の宝物とされているそうです。それにしても、姫路の近郊にこんな光景があるとは驚いてしまいました。このブログで播磨平野の丘をいくつも巡ってきましたが、多くは木々に囲まれた丘で、このような岩山は他には高砂の生石神社を思い出すくらいでしょうか。

蛤池

高岳神社の裏手へ降りると蛤池と呼ばれるため池がありました。背後の新緑の木々に覆われた山は蛤山で、山の中腹には高岳神社の御旅所があります。高岳神社の丘と尾根続きになっているこちらの山は地域のシンボルとなっているそうです。木々に覆われてわかりにくいのですが、この蛤山も岩山で、木々の合間からは姫路市街を一望できるとのこと。

蛤山を眺めて

蛤池越しに蛤山を眺めてみました。
青空の下に佇む新緑の山は眩しいくらいに輝いているようです。水面を渡る初夏の風を感じながら、磐座に見守られた村を後にすることにしました。

磐座の見守る里・高岳を訪ねて(前編)

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大型連休も後半に差し掛かった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

播磨高岡駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーで着いたのは姫路駅の一駅隣の播磨高岡駅です。

西国街道

駅の傍を通るのは国道2号線で、そのすぐ北側を旧西国街道が通っています。交通量の多い国道に対して、旧街道は静かな雰囲気で、曲がった昔の道沿いには趣のある家々が建ち並んでいます。

街道沿いのこの辺りは今は姫路市に含まれていますが、古くは高岡村と呼ばれ、さらにその前は今宿村と呼ばれていました。今では姫路の郊外の住宅地が広がっていますが、かつては西国街道沿いに農村集落が広がる地域だったそうです。

高岳神社道標

旧街道沿いにお地蔵さんがあり、その隣には大きな石碑がありました。「式内 高岳神社」と刻まれていることからわかるように、こちらはここから北西にある高岳神社の道標です。高岳神社はこの地域のシンボルの蛤山の傍にある神社です。今回はこのまま高岳神社へと歩いてみたいと思います。

東今宿薬師堂

住宅地を歩いていると、お堂がありました。こちらは薬師堂です。

薬師堂の力石

お堂の裏手には力石が並んでいました。かつてはこの石で力比べをしていたのでしょうか。

昌楽寺

薬師堂から奥に入ると、木々に囲まれた昌楽寺が佇んでいました。今では静かな寺院ですが、平安時代半ばの長保年間の建立と伝わる古刹です。やはり平安時代半ばに花山天皇が書写山への御幸の際に立ち寄ったとされていて、先ほど訪ねた薬師堂には御幸の碑が建てられています。農村集落だった今宿ですが、すぐ北側を書写山園教寺への参詣路の書写街道が通っていて、書写山の影響を受けながら発展した地域でもありました。

静かな住宅地にはるか古代からの歴史が息づく高丘・今宿をもう少し歩いてみたいと思います。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、手柄を歩いてみたいと思います。

生矢神社

船場川沿いに歩いていると、大きな神社がありました。こちらは生矢神社です。

生矢神社は名前からもわかるようにはるか古代、神功皇后の三韓征伐の際に現在の白浜の宮駅北側の麻生山から放たれた三本の矢の一本が落ちた場所とされています。これまでに訪ねてきた太市の破盤神社の割れ岩、余部の矢落の森、安室辻井の生矢神社的形と同じような伝説が伝わる地の一つです。

生矢神社の境内

手柄山の南麓に佇む神社の境内は広々としていました。

創建時は「行箭社」やこの辺りの地名「三和山」にちなんで「三和社」と呼ばれていたこの神社ですが、平安時代には平清盛が厳島へ向かう際にこの地へ立ち寄り霊夢を感じたことからこの社を「生屋大明神」として祀ったそうです。その後、江戸時代には清盛の十六代孫という関永重なる人物がこの地の代官職を務めるようになり、清盛ゆかりのこの神社の社殿を再建し、整備したそうです。以来、歴代の藩主からの寄進を受けるなどして広大な社領を持つ神社となりました。近代に入り、市街地として整備される中で社領は現在の規模になりましたが、それでも手柄山の山麓に佇む姿には歴史を感じることができます。

袖ぐみ地蔵

生矢神社から手柄山の麓を西へ歩くと、袖ぐみ地蔵がありました。地蔵堂の前ではまだ桜の花が残っていて、春の日が差し込んで幻想的な光景でした。

三和寺

手柄山の麓に佇んでいたのが三和寺(さんなじ)です。

三和寺の境内

山の麓の境内は緑に包まれるようでした。こちらは江戸時代に盤珪和尚の高弟の祖什という僧侶が再興したと伝わっています。盤珪和尚といえば網干の龍門寺を創建した僧侶ですね。生矢神社と同じく歴代の姫路藩主から信仰された寺院ですが、今は春の緑の中に静かに佇んでいました。

船場川と手柄山

船場川に架かる橋から手柄山を眺めてみました。現在は姫路市民の憩いの場の公園となっている手柄山ですが、風土記の時代にまで遡り、周辺に目を向けると歴史あるスポットが集まっているのが意外にも感じました。

私自身が気になって訪ね歩いていた姫路の矢落伝説の地も一回りしました。射られた矢は三本のはずなのに伝説がこんなに多く残されているのは不思議ですが、いずれ新しいことがわかるのかもしれませんし、伝説は伝説のまま、私たちの心を癒して楽しませてくれるのかもしれません。
そんなことを思いながら、春の終わりの手柄を後にしました。

手苅丘の麓・手柄を歩いて(前編)

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初夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

手柄駅

山陽電車で着いたのは手柄駅です。抜けるような青空が広がっていました。

旧姫路市中央卸売市場

駅の西側に広がるのは旧姫路市中央卸売市場です。3月に妻鹿駅の浜側の妻鹿漁港近くに新市場が開場したばかりで、こちらの旧市場はひっそりと佇んでいました。

船場川

手柄駅からしばらく歩いていると船場川に差し掛かりました。姫路城下を流れてここ手柄を通って飾磨へと流れる川です。眩しい日差しに水面が輝いているようでした。

船場川と桜

船場川沿いには桜が残っていて、川の上を白鷺が飛んでいきました。

姫路市街の南側、手柄山の麓に広がる手柄地区は古い歴史を持っているとされています。奈良時代の「播磨国風土記」には手柄山が「手苅丘」と記され、麓のこの辺りは「手苅村」と呼ばれていたそうです。不思議な地名の由来には、近隣の国々の神がこの辺りで手で草を刈り食物を置く敷物としたという伝説や、この辺りの住民は鎌を知らず手で草を刈っていたという伝説があります。「手苅」が今の「手柄」となった時期は詳しくわかっていませんが、一説では永享12(1440)年の結城合戦の際に英賀三木氏の配下の武将がこの辺りで手柄を挙げたことに因んでいるともされています。その後、近世にかけて「手苅」という地名は消えてしまいますが、明治時代に手柄山に因んで手柄村が設置され、この辺りが再び手柄と呼ばれるようになりました。

鯉の釜

船場川が手柄山にぶつかり大きく曲がっているこの辺りは淵になっていて、「鯉の釜」と呼ばれています。「姫が淵」「蛍沢」という別名もあるそうで、古くは蛍の名所として知られていたそうです。

姫路市街に近接しながら、豊かな自然を感じられる手柄をもう少し歩いてみたいと思います。