せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古代人の足跡・垂水を訪ねて(前編)

投稿日:


新緑がまぶしいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

垂水東口バスターミナル

山陽電車で到着したのは山陽垂水駅です。駅の東側には垂水東口バスターミナルが広がっていて、黄色い山陽バスが並んで発車を待っていました。

新垂水図書館

バスターミナルの傍では新しい垂水図書館の工事が進んでいます。

垂水日向遺跡展示コーナー

そんな賑やかな駅前の一角、地下に下りた先にこんな案内がありました。こちらは垂水日向遺跡の展示コーナーです。

垂水日向遺跡は縄文時代から平安時代にかけての遺跡で、生活用品や住居の跡などが見つかっています。福田川の河口付近のこの辺りは当時は海岸線で、堆積した土砂により遺跡は地中深くに埋まっていましたが、平成元(1989)年からの再開発に伴う発掘調査で数多く様々な年代の遺物が発見されています。遺跡のあったあたりは現在では垂水レバンテのビルになっていますが、発見されたもの一部がこうして展示されています。

飯蛸壺

展示品の中には小さな壺もありました。こちらはマダコよりも小型のイイダコを捕まえるための蛸壺で、平安時代~鎌倉時代のものと言われています。今も大阪湾の海の幸に恵まれた垂水ですが、当時は遠浅の海が広がっていて、漁業や製塩が盛んにおこなわれていたそうです。現在の賑やかな垂水駅前とはまるで違ったのどかな景色が広がっていたのでしょう。

街中にひっそりとたたずむ古代の遺跡をもう少し訪ね歩いてみたいと思います。

国際貿易港は今も・新港町を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸の新港町を歩いてみたいと思います。

新港貿易会館

KIITOの浜側にも風格ある建物が建っていました。こちらは新港貿易会館です。もとは「新港相互館」と呼ばれ、港湾関係事業者の事務所を集約する施設でした。KIITOになっている旧神戸市立生糸検査所と比べると小さなビルですが、昭和5(1930)年の建築で、丸窓などが設けられているこちらも優美で凝った建物です。ちなみに、現在は文化財指定されながらもテナントビルとしては現役で使われています。

三菱倉庫

新港貿易会館から交差点を挟んではす向かいにあるのが三菱倉庫です。今も稼働する現役の倉庫ですが、旧神戸市立生糸検査所よりも早い大正14(1925)年に建てられた建物です。連続アーチのある一階や窓の意匠などに確かにこだわりを感じますが、現役感が強く、一見、大正時代の建物には見えないのではないでしょうか。

旧居留地の南東端の旧生田川河口付近に位置する新港町が発展するきっかけになったのが明治時代の末に今も海に向かって伸びる4つの突堤が設けられたことでした。突堤にちなんで「新しい港」ということで町名がつけられたのが今の新港町です。神戸港へ発着する船は第1から第4まで並ぶ4つの突堤を利用するようになったため自然と物資が集まるようになり、それを保管する倉庫や検査するため行政機関が集まるようになりました。驚くのが、それらの施設の多くが現役ということです。

三井倉庫

歴史ある建物が集まる交差点から少し東に入ると、やはり風格を感じる倉庫が佇んでいました。こちらは三井倉庫です。三菱倉庫とほぼ同時期の昭和元(1926)年に建てられたもので、やはり現役の倉庫として使われています。こうして古くからの建物が現役な様子は、今も昔も変わらず新港町が神戸港のなかで重要な役割を担っていることを感じさせるようです。

新港第3突堤

新港町交差点のすぐ浜側から大阪湾へ向かって新港第3突堤が伸びています。こちらには高松や宮崎へのフェリーが発着していて、ちょうど宮崎へのフェリーが着岸してていました。フェリーを使う人だけでなく、貨物を乗せたトラックが行きかい、港の活気を感じることができます。

全国港別貿易額表

前編で訪ねた神戸税関には興味深い資料が展示されていました。それがこちらの全国港別貿易額表です。震災の被害や他の港の発展でかつては世界一と言われた神戸港にはどうしても衰退のイメージがつきまといますが、この表を見ると今も上位に神戸の名前があり、今も重要な港であることがわかります。歴史ある建築が現役なだけでなく、デザインの発信拠点が整備されて姿を変えつつある新港町を歩くと、新しい港の在り方を探っているようにも感じられました。

神戸港がさらに賑わうことを祈りながら、新港町を後にすることにしました。

国際貿易港は今も・新港町を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の新港町を歩いてみたいと思います。

御幸記念碑

神戸税関の傍には「御幸記念碑」と書かれた碑がありました。こちらは昭和4(1929)年に昭和天皇が初めて神戸へ御幸されたことを記念する碑です。

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」

神戸税関の庁舎の前を通るのは「日本一短い国道」として知られる国道174号線です。国道を挟んだ向かいには風格のある建物が佇んでいます。こちらはかつての神戸市立生糸検査所の建物で、現在はデザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」という施設となっています。

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」の内部

KIITOの内部はホールやギャラリーなどとして使用されています。

神戸に輸出用の生糸の品質検査をおこなう農商務省の生糸検査所が作られたのは明治29(1896)年のことでした。当時、日本の主要な輸出品は茶と生糸で、特には生糸の世界一の輸出国で、開港地となって以来の貿易港だった神戸からも多くの生糸が輸出されていました。しかし、関西の生糸市場が不振のために徐々に衰退し、わずか5年後の明治34(1901)年に神戸の検査所は閉鎖されてしまいました。その後、関西でも生産性と品質の向上が図られて生糸の生産量が増加し、神戸港での生糸の取り扱い再開を求める声が大きくなっていきます。生糸検査所の閉鎖の20年後の大正10(1921)年に神戸商工会議所に「生糸市場委員会」が設置されて生糸の取り扱いの再開の検討が始まります。その間に発生した関東大震災で横浜港が被災したため、神戸港にその代替を求める声も高まり、ついに大正13(1924)年には神戸市立生糸検査所が設置されて業務を開始しました。

生糸検査所ギャラリー

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」には生糸の品質検査に使われていた機械や当時の写真などを展示するギャラリーがありました。

現在に残る神戸市立生糸検査所の旧館の建物が建てられたのは昭和2(1927)年のことで、その後、検査所は国営に移管されて、旧館の完成の5年後には東側の新館も建てられました。当時は日本の生糸輸出のピークで、神戸港の輸出は日本国内の三割に上ったとも言われています。戦後にはGHQに接収されながらもこの地で業務を続けてきました。しかし、合成繊維が開発されると生糸の輸出は減り始め、生糸価格が大暴落した昭和49(1974)年に検査所は閉鎖され、以後は農林水産省や独立行政法人の施設として使われることになりました。その行政の施設としての役目を終えた後は市へ売却され、現在のデザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」となりました。

階段の意匠

装飾がなされたデザイン・クリエイティブセンター神戸の階段を眺めていると、生糸の輸出を再開し、さらに国際貿易港として発展しようとしていた当時人々の意気込みを感じることができるようです。

国際貿易港として発展しようとしてきた当時の雰囲気を感じる新港町をもう少し歩いてみたいと思います。

国際貿易港は今も・新港町を歩いて(前編)

投稿日:


初夏の花が咲き始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神神戸三宮駅

直通特急で着いたのは阪神神戸三宮駅です。

フラワーロードを歩いて

阪神神戸三宮駅から地上に出てフラワーロードを歩いてみることにしました。現在は三宮の東側を流れている生田川はかつて今はフラワーロードとなっているこの場所を流れていました。広々とした道路を新神戸駅・三宮駅と神戸のウオーターフロントを結ぶ「PortLoop」の青い連節バスがちょうど走ってきました。

神戸税関

阪神高速の高架橋を潜った先に、ちょうど旧生田川の河口近くに当たる場所に時計塔が目立つ近代建築が佇んでいました。こちらは神戸税関の庁舎です。

神戸税関旧館のホール

神戸税関は兵庫県から中国・四国地方を管轄する現役の税関ですが、旧館の建物が歴史的な建築物であることや、「開かれた税関」を目標としていることから内部の見学が可能です。時計塔の目立つ旧館側の東門を入るとそこは重厚な雰囲気の漂うホールでした。

神戸に税関が設けられたのは慶応3(1868)年のことで、神戸港の開港に伴って江戸幕府が設けた兵庫運上所が始まりでした。その後、運上所は新政府に引き継がれて神戸税関となります。税関となった後の初代の建物は現在の場所の山手にありましたが、大正11(1922)年に火災で焼失してしまい、現存していません。今は旧館となっている二代目の庁舎が建てられたのは昭和2(1927)年のことでした。大蔵省営繕部の手による建築で、今もシンボルとなっている時計塔を設けた庁舎は港町を象徴する建物となりました。

神戸税関の中庭

ホールを抜けると芝生の張られた中庭が広がっています。奥にそびえるのは平成10(1998)年に建設された三代目の庁舎で、税関全体を船に見立てると三代目の庁舎が船のブリッジのように見えるように作られているとのことです。

旧生田川の河口付近に広がる新港町は税関を始め、港町・神戸を象徴するような街並みが広がっています。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

間もなく花の季節・姫路城を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路を歩いてみたいと思います。

姫路城を見上げて

姫路市立美術館の裏手は姫路城天守閣のちょうど東側にあたります。石垣の向こうには天守閣がそびえているのが見えました。

姫路城喜斎門跡

石垣の合間にあったのは喜斎門跡です。喜斎門は姫路城の搦手門ですが、今は石垣しか残されていません。この門の傍には馬で登城した藩士が馬をつないでおく「駒寄」と呼ばれる支柱があり、こちらの石垣の修理工事の際に支柱を立てた穴の跡が発見されました。同様の駒寄は大手門にもあったとされています。

現在の姫路城は安土桃山時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、当時の城主の池田輝政が整備したものです。もともとこの場所には天然の山の姫山があり、城は山の地形を利用して作られた「平山城」です。大手前側から眺めると平野に城がそびえているように見えますが、城の東西に回り込んでみると急な地形が残されていて「山」を感じることができます。城の搦手、つまり、裏口にあたる喜斎門からは急な地形を生かしてあえて歩きにくい道を設けることで敵の侵入を防いだとされています。

姫路城と石垣

喜斎門跡の奥には天守閣の石垣がそびえていました。姫路城といえば大手前から眺めた姿のイメージが強いのですが、こちらの喜斎門跡から眺めた真横の姿も最近は「映える」として注目を集めています。

三の丸広場

搦手から三の丸広場へ出て姫路城の天守閣を眺めてみました。

姫路城の桜

三の丸広場では桜のつぼみが膨らみかけていました。訪問時は見ごろまでまだ時間がかかりそうでしたが、ちょうど今頃は満開になってるそうです。

この春は桜の海に包まれた姫路城だけでなく、城がたどってきた歴史を訪ねてみながら、お花見を楽しんでみてはいかがでしょうか。