せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

梅の香る・須磨寺を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、須磨寺界隈を歩いてみたいと思います。

弘天さん

商店街の途中にモニュメントのようなものがある祠がありました。
こちらは弘天さんと呼ばれ、先ほど訪ねた綱敷天満宮と須磨寺を結ぶ「智慧の道」にあることから、弘法大師空海と菅原道真を祀っています。「弘天さん」の名前も「法大師」と「神」を祀っていることからつけられたとされています。

須磨寺と山々

商店街を通り抜けると、冬を越えた深い緑色の山々が迫ってきました。松の木の向こうには須磨寺仁王門が見えてきます。


何度も訪ねていますが、須磨寺こと上野山福祥寺ははるか昔の平安時代、和田岬の沖合で漁師が引き上げた聖観世音菩薩像を安置するために淳和天皇の勅命で今の兵庫区の会下山に建立された恵偈山北峰寺を始まりとしています。今のように須磨に移ったのは仁和2(886年)とされていて、千年以上の歴史を持つ古刹です。

須磨寺の境内

青空の下に佇む須磨寺の本堂。
肌寒さの残る今はまだ人影もまばらですが、春本番には多くの参拝客で賑わうのでしょう。

須磨寺の梅

須磨寺の境内でも梅の花が見ごろでした。

海を見下ろして

須磨寺の石段の上からは大阪湾を眺めることができました。
早春の日差しを浴びて水面が輝いています。

今が盛りの梅、そして、もうしばらくすれば須磨寺界隈は桜の季節を迎えます。
まだまだ厳しい状況が続きますが、この春は須磨で春の訪れを楽しんでみてはいかがでしょうか。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村

梅の香る・須磨寺を歩いて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨寺駅から綱敷天満宮を訪ねて歩いてみたいと思います。

綱敷天満宮の境内

まだ風は冷たいですが、明るい早春の日差しが差し込んでいます。
そのせいか、天満宮の境内も参拝客で賑わっていました。

牛と梅

境内の隅には牛の像があります。
牛は菅原道真の使いとされていて、天満宮にはつきものですね。その牛の像の向こうからは甘い香りが漂ってきます。

梅園

天満宮の裏手には梅園が広がっています。

天満宮に祀られている菅原道真と梅には深い関わりがあります。京都の道真の邸宅には梅が植えられていて、梅を題材にした歌を多数残しました。また、大宰府へ向かう際にはその梅の木に呼びかけて「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という歌を詠んだことが知られています。いわゆる「飛梅伝説」では、梅は道真を慕うあまりに一晩で京都から九州へと飛んだとも言われています。

綱敷天満宮の梅

咲き誇る梅の良い香りには春の訪れを感じますね。

須磨寺商店街

綱敷天満宮を後にして、山側の須磨寺の方へも歩いてみることにしました。

次回も、梅の季節の須磨寺界隈を歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村

梅の香る・須磨寺を歩いて(前編)

投稿日:



厳しい寒さが続きますが、所々に春の訪れも感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

須磨寺駅

山陽電車で着いたのは須磨寺駅。どこか懐かしさを感じる街の中に駅があります。

諏訪神社

駅名になっている須磨寺とは逆方向、海側へと歩くと、立派な木が見えてきました。木の下にあったのは諏訪神社です。

綱敷天満宮

諏訪神社の向かい、広い境内の神社がありました。こちらは綱敷天満宮です。

綱敷天満宮の境内

境内には様々な縁起物があり、賑やかな雰囲気です。

綱敷天満宮の歴史は非常に古く、平安時代の天元2(979)年に遡ると言われています。伝説では、菅原道真が九州・大宰府へ向かう途中に須磨へ立ち寄り、この地で漁師たちが綱を巻いて円座のようにした上に座って休んだことからこの名前になったと言われています。同じような伝説は各地にあり、「綱敷」の名前の神社も各地にあるようです。経緯はわかりませんが、綱を円座にしてその上で休んだという話は道真の伝説の共通キーワードの一つのようですね。

ウソドリ

境内にかわいらしい鳥の縁起物がありました。こちらは「ウソドリ」です。このウソドリには道真が蜂に襲われた時に鷽が飛んできて助けてくれたという伝説があり、各地の天満宮では縁起物になっています。九州の太宰府天満宮では古くから縁起物の鷽を使った「鷽替え神事」が執り行われていることが知られていますね。ここ綱敷天満宮でも令和に入ったことを記念して、2019年からお守りとして授与が始まったそうです。

春の気配を感じる須磨寺界隈をもう少し歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村

姫路・北条を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の北条を歩いてみたいと思います。

水路の道

住宅地の中を水路が巡っています。
こんなところにも、市街地とは少し違う風情を感じますね。

北条天満宮

水路の向こうにあったのが北条天満宮です。

北条天満宮の境内

生い茂った木々に囲まれた境内は広く、歴史を感じますね。

北条天満宮の由緒は、文書が焼失してしまったそうで詳しくわかっていませんが、中世の文書などにその名が見られることから、相当古いとされ、一説には平安時代にさかのぼるとも言われています。今でも広く感じる境内ですが、周辺の開発が進む前はもっと広い範囲に森が広がっていて、さらに今の姫路バイパス付近までは藪が広がっていたそうです。

虚無僧塚

神社の鳥居の横には、「虚無僧塚」と刻まれた石碑がありました。

伝説では、神社の周辺に広がっていた藪に八ツ目イタチが棲み着き、田畑を荒らしていました。困った村人が氏神に祈ると、毎年総領の男女と糠糯二斗四升を捧げるように…、つまり、生贄と供物を要求してきたのです。村人はそれに従っていましたが、ある時この地を訪れた虚無僧がそれは妖怪の仕業に違いないと言い、八ツ目イタチを退治したそうです。喜んだ村人は虚無僧を正覚院に住まわせ、供物にしていた二斗四升を捧げるようになったそうです。明治時代まではこれを記念した人身御供神事が執り行われていて、昭和に入り、この石碑が建立されたそうです。

北条天満宮から眺める

北条天満宮から北条の町を眺めてみました。今では、妖怪伝説のある藪があったとは思えないような静かな街並みが広がっていました。

姫路の南側の北条地区。静かな住宅地ですが、伝説に彩られた古社と昔ながらの街並みに風情を感じることができます。また大変な状況となりましたが、ご近所のお散歩に、訪ねてみてはいかがでしょうか。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村

姫路・北条を訪ねて(前編)

投稿日:



今日は立春、暦の上ではもう春になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路駅南口

山陽電車の山陽姫路駅を降りて、JR姫路駅を通り抜けた先は姫路駅南口。
姫路といえばお城が見えて繁華街の広がる北口のイメージが強く、こちら南口は地味な印象ですが、市役所等の行政機関の玄関口になるのはむしろこちら側です。

外堀川

ビルの並ぶ中を流れるのは外堀川です。
新幹線と在来線の複雑な高架橋の下を流れる姿はどこか窮屈そうに見えますね。

北条地区

外堀川を渡った先は北条と呼ばれる地区です。この辺りが姫路市に編入されたのは戦前の昭和10(1935)年のことで、姫路の城下町には含まれていませんでしたが、古くから開発がされた地域で、歩いてみると市街化が進んだ周辺とは少し違った趣の景色が続いています。

薬師堂

家並みの中にあったのが薬師堂です。

北条薬師堂とも呼ばれるこちらは小さなお堂ですが、創建は詳しくわかっていないようですが、近代には「播磨四国八十八ケ所霊場」の第五番札所にも数えられた古刹です。「乳貰い薬師」と呼ばれ、古くから信仰を集めていたとされています。しかし、昭和20(1945)年7月の姫路大空襲の際、北条地区も大きな被害を受け、薬師堂も焼失してしまいました。今のお堂は昭和44(1969)年に再建されたものです。

地蔵石仏

薬師堂の傍らにあるのは地蔵石仏です。丸みを帯びた柔らかい印象の石仏で、江戸時代の末の弘化4(1847)年に建立されたそうです。こちらも薬師堂とともに空襲の被害に遭いましたが、昭和61(1986)年に復元されたそうです。

市街地の中に昔ながらの風情の残る北条地区をもう少し歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村