せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

阿波池田をめぐる(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、徳島県西部の阿波池田を歩いてみたいと思います。

長屋門のある家

古い街並みの外れに大きなお屋敷を見つけました。
表通り側の卯建が立派ですが、裏手の長屋門がなかなか立派です。

上野台地へ

吉野川沿いの町はずれには高台がありました。
こちらは上野台地と呼ばれる台地です。住所では「池田町ウエノ」で、なぜか字名がカタカナになっています。これは合併前の旧池田町内で共通のようで、例えば先ほどの阿波池田バスターミナルの住所はもともと「更田」という地名だったのが住所表記では「池田町サラダ」という珍地名になっています。

大西城跡

上野台地の上は幼稚園、小学校、中学校、高校が建ち並ぶ文教地区になっています。その中の一角にはこんな石碑がありました。
かつて、この上野台地には大西城(別名池田城)と呼ばれる城がありました。

阿波池田は阿波国の最西端の山中にありますが、讃岐・伊予・土佐国と接する四国の中心とでもいえる土地であり、古くから戦略上の拠点とされていました。この阿波池田に城が設けられたのは承久3(1221) 年のことで、承久の乱の功績で阿波国守護となった小笠原長清の息子・長経が築城を始めてからのことでした。
のちに、小笠原氏が阿波国東部の勝瑞城(現在の徳島県藍住町)に移ってからは大西氏が城主を務めました。ちなみに、小笠原氏は阿波池田のある三好郡を拠点としたことから後に姓を「三好」と改め、室町幕府で「三好政権」と呼ばれるまで実権を握るようになるまで登りつめます。

大西城跡は今

大西城のあった場所は現在、幼稚園や小学校になっています。城があったことを偲ばせるのは幼稚園の敷地内にある石垣くらいです。

栄華を極めた三好氏ですが、乱世の荒波の中で政権が崩壊、後の戦いで拠点の阿波も追われることになりました。大西城は三好氏に代わって阿波国に入った蜂須賀氏「阿波九城」と呼ばれる支城の一つとして整備しますが、近世に入り江戸幕府の制定した一国一城令で寛政15(1638)年に廃城となりました。そのため、城下町という雰囲気は薄いのですが、地域の重要性から徳島藩の陣屋が置かれ、「池田士」と呼ばれる藩士が配置されていました。交通の要衝であったことや、前回見てきた煙草の生産で阿波池田は非常に繁栄したようです。

城跡から市街地を眺める

高台にある城跡からは阿波池田の市街地が一望できました。
時代の変化の中で煙草の生産が終了し、高速道路網は県境を越えた川之江が要衝となってしまいましたが、今も、阿波池田は魅力的な観光資源が豊富な街。大歩危小歩危祖谷のかずら橋といった名所へ多くの観光客が訪れます。
四国山地の阿波池田の春は間近。高速バスでの歴史さんぽもたまにはいかがでしょうか。

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阿波池田をめぐる(前編)

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寒さが一段と厳しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

神戸三宮バスターミナル

今回訪れたのは三宮にある神姫バス神戸三宮バスターミナル
四国・中国方面の長距離路線から短距離まで、数多くの高速バスが発着するターミナルです。
ここから乗車するのが山陽バス昼間高速バス三宮~阿波池田線です。

阿波池田バスターミナル

山陽バスの新しい車両で快適だったのですが、阿波池田までは3時間ほど…。少し疲れた頃に阿波池田バスターミナルに到着しました。
阿波池田は徳島県の最西端、三好市にあります。かつては池田町と呼ばれていたのですが、平成18(2006)年に周辺の町村と合併し、人口2万7千人を数える市となりました。

卯建のある造り酒屋

バスターミナルの近くを歩くと、さっそく、趣のある建物を見つけました。
こちらは「三芳菊酒造」という造り酒屋の店舗です。建物の両側に設けられた衝立のような設備は「卯建(うだつ)」と呼ばれるもので、火災の延焼を防ぐための防火壁として設けられたものです。ただし、防火設備としての役割に重きが置かれたのは江戸時代の初め頃までで、江戸時代の中頃には商家の財力を示す装飾的な役割を果たすようになりました。ちなみに、慣用句の「うだつの上がらない」は卯建を設けるほどの財力がないことを語源としているとされています。卯建の街並みといえば、先ほど、高速バスで通りかかった美馬市の脇町地区が有名ですが、阿波池田の街並みも十分に見応えがあります。

阿波池田たばこ資料館

さらに街中を歩いていくと、古い建物が建ち並ぶエリアに差し掛かりました。この辺りが阿波池田の旧市街地に当たるエリアです。その中の一軒「うだつの家」の看板を掲げているのが「阿波池田たばこ資料館」です。ここは卯建の家の内部を使って、かつて阿波池田で生産されていた煙草の製造過程を紹介する資料館です。楽しみにしていたのですが、なんと、訪問時は休館日。仕方ないので、街並みを眺めて過ごすことにしました。

徳島県西部の山間部は古くから農林業が盛んな地域ですが、江戸時代以降の商品経済の広がりとともに、「阿波葉」と呼ばれる煙草の栽培が盛んにおこなわれるようになりました。煙草生産の中心となったのがここ阿波池田で、多くの加工・販売業者が集まっていました。阿波池田の煙草は品質が良いとして、上方を中心に人気があったと言われています。先述の卯建を上げたのも、多くは煙草で財を成した商家だったそうです。
明治の専売制度の後も発展を続け、大正期に生産のピークを迎えたとされています。この「阿波池田たばこ資料館」も当時の商家の建物を利用したものです。

バスターミナルの片隅に

先ほどのバスターミナルの片隅には、こんな石碑がありました。
このバスターミナルのある場所には、かつて、日本専売公社(のちの日本たばこ産業)の池田工場があり、阿波の煙草産業の象徴的な存在でした。この工場の立地によって阿波池田の街は大いに発展したと言われています。
しかし、時代の変化とともに平成15(2003)年に工場は閉鎖。程なくして阿波の煙草の生産も終了してしまいました。現在は、先ほどの街並みに煙草産業が栄えた当時を偲ぶばかりです。

古くから徳島県西部の中心として栄えた阿波池田は他にも見どころがたくさんあります。
次回、引き続き、阿波池田の街を歩いてみたいと思います。

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回・前々回に引き続き、書写山圓教寺を巡っていきたいと思います。

十地坊跡?

「西谷」の外れの林の中にこんな案内がありました。矢印の先には急な山道が続いていますが、ここは執念で上ることにします。

十地坊跡地

山道をのぼりつめてたどり着いたのが防火用貯水槽のある空地。
急に現代的なものが現れて拍子抜けしてしまうところですが、貯水槽の壁面には戦場の陣幕のようなものが張り付けてありました。こちらは「十地坊」と呼ばれ、羽柴秀吉・黒田官兵衛が播磨攻めの際に設けた陣地の跡と言われています。

秀吉と官兵衛がこの地に陣を築いたのは天正6(1578)年のこと。前年の加古川評定の決裂により、別所氏をはじめ播磨の諸侯が毛利派につき秀吉軍に反旗を翻したため窮地に立たされていました。西の毛利、東の別所に対抗するため、官兵衛の進言により、秀吉軍は見晴らしがよく施設の整った書写山に陣を移しますが、驚いたのは書写山の僧侶たち。兵糧の提供するなどで寺を守っていたところへ押し寄せてきた大軍に信長の「比叡山焼き討ち」の再来かと上へ下への大騒ぎになったそうです。秀吉の命で僧侶を殺害することはなかったものの、一部の兵士によって仏塔やお堂が破壊されてしまいました。

十地坊から置塩城を眺める

陣幕の正面は木が伐採されていて、景色が見えるようになっていて、麓の菅生川沿いの集落が望めました。正面の山は置塩山と呼ばれる山があります。この山の上には播磨守護・赤松氏の子孫の赤松則房が城主を務めていた置塩城がありました。秀吉軍に従った赤松則房は西を監視する役割を担い、書写山の秀吉軍とは狼煙などで連絡を取り合っていたそうです。

本多家廟屋

再び三之堂の並ぶ広場に戻ります。
広場の端に土塀で囲われた一角がありました。こちらは江戸時代の初めに姫路城主を務めた本多氏の墓所です。戦乱の世が終わると圓教寺は歴代の城主の庇護を受け、西の比叡山として広く信仰を集めることになりました。明治以降は荒廃し、摩尼殿が焼失するなど苦難の時代を経ることになりますが、山上の中世の雰囲気を残す堂宇は趣があり、先述のように、現在は信仰だけでなく観光名所としても広く注目を集めるスポットになっています。

山上駅から

帰途にロープウェイの山上駅から麓を眺めてみました。
書写山圓教寺の見どころはまだまだ多く、ブログ上ですべてを伝えるのはなかなか困難です。
関心を持たれた方は是非、ロープウェイに乗って書写山圓教寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、姫路の書写山圓教寺を歩いてみたいと思います。

圓教寺摩尼殿

山道を歩いていくと急に周りが開け、巨大な建物が姿を現しました。
こちらは圓教寺摩尼殿、書写山に数ある堂宇の中でも象徴的な建物です。
この辺りは書写山の中でも「中谷」と呼ばれる中心エリアです。ただし、摩尼殿の周辺には茶店がある程度で観光地とは程遠い雰囲気です。ちなみに、ロープウェイの山上駅から仁王門などがあるエリアは「東谷」と呼ばれるとのこと。このあたりの名称は何だか比叡山延暦寺東塔・西塔・横川を思わせますね。

圓教寺摩尼殿から

摩尼殿は京都・清水寺本堂と同じ懸造りの建物で、お堂に上がってみると結構な高さがあります。この摩尼殿は焼失後、昭和8(1921)年に再建されたものですが、近代の建築とは思えないような風格があります。

書写山圓教寺は比叡山延暦寺と同じ天台宗の寺院です。その歴史は非常に古く、康保3(966)年に性空上人なる天台宗の僧侶が創建したとされています。当初は性空上人の庵があるのみだったようですが、後に摩尼殿となる如意輪堂が築かれ、寛和2(986)年にこの地を行幸した花山天皇「圓教」の寺号を与えるとともに米100石を寄進。その後にも多くの皇族や貴族の寄進し、その寄進をもとに数々の堂宇の整備が行われて大寺院に発展しました。

西谷の様子

摩尼殿の裏手から山道を歩いていくと、「西谷」と呼ばれるエリアに着きました。こちらで目立つのは広場をコの字型に囲む「常行堂」「食堂(じきどう)」「大講堂」です。いずれも巨大な建物で、深い山の中にこれだけの建物があると思うと驚いてしまいます。中世寺院の雰囲気が残るこのエリアはドラマや映画のロケにも使用されていて、大河ドラマ「軍師官兵衛」や映画「ラストサムライ」の撮影でも使用されました。

食堂

コの字型の正面にそびえる食堂は特に迫力があり、長い二階建ての建物は「ビル」とでも言いたくなります。この食堂はその名の通り僧侶が寝食する住居だったそうです。

食堂からの眺め

食堂は内部を見学できるようになっています。急な階段を上って二階に上がると先ほどの広場を見下ろすことができました。 ちなみに、一階では写経の体験ができます。

この巨大な建物からわかるように、中世の圓教寺は多数の僧侶を抱え、様々な面で播磨の情勢に大きな影響を与える勢力でした。次回は境内を歩きながら中世の圓教寺について迫ってみたいと思います。

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(前編)

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雪の舞う寒さ厳しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路駅前

今回訪れたのは姫路。
ここから市街地の北にある書写山圓教寺を目指したいと思います。
神姫バスのバスターミナル工事に伴い移設された停留所から書写駅行きのバスに乗ることにしました。

書写山ロープウェイ

姫路駅から25分ほどで終点の書写駅に到着しました。
こちらから書写山ロープウェイに乗ることに。

書写山ロープウェイは姫路市営のロープウェイとして昭和33(1958)年に開業しました。現在は神姫バスが運行を受託しています。
ちなみに、日本で同時期に開業したロープウェイは多く、山陽電車沿線の須磨浦ロープウェイも書写山の一年前の昭和32(1957)に開業しています。ちょうどこの時期に高度経済成長の進展とともに観光需要が高まったことから、ロープウェイの建設ラッシュが起こったようです。

ロープウェイからの眺め

ロープウェイからは姫路の街並みや遠く瀬戸内海が一望できます。
残念ながら、姫路城は山の陰に当たるために見ることができないそうですが、それでも十分な絶景です。眼下には、書写山の山並みが続き、木々の合間には細い山道が見えます。ロープウェイの開業前はこの山道以外に交通手段はなかったはずですし、苦労がしのばれます。

山上駅から

数分で山上駅に到着。駅から山道を歩いていくことに。
意外と険しい山道で、なかなか大変です。道沿いには廣峯山を思い出す丁石が立ち並んでいました。
ちなみに、山道を歩くのが辛い方には山上駅付近から送迎のマイクロバスが出ています。

仁王門

木立の中に忽然と現れたのは立派な仁王門。ここからいよいよ書写山圓教寺の境内です。次回、書写山を歩いてみたいと思います。

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