せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

川面に映る街並み・因幡街道平福を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、因幡街道の平福を歩いてみたいと思います。

川面に映る街並み

佐用川沿いの街並みを眺めてみました。
特に趣のある三軒は兵庫県の景観形成重要建造物に指定されているそうです。真ん中の瓜生原家住宅は古くから鋳物業を営んでいたそうで、現在は蕎麦屋となっています。

平福の街並み

街道側へ戻り、平福の街並みを眺めてみます。落ち着きがある街並みが続いているだけでなく、観光客も多くはないため、ゆっくりと街道沿いの街並みを眺めて歩くことができました。

平福の街が整備されたのは安土桃山時代の末頃からと言われています。慶長8(1600)年、当時の姫路城主の池田輝政の甥の池田出羽守由之が平福の町の東側の利神山にあった城を姫路城の支城として整備し、山麓に城主や武士の屋敷、町人町を整備して城下町として整えたことが始まりです。江戸時代の元和元(1615)年に一帯は平福藩として立藩し、平福は城下町として栄えることとなりました。しかし、寛永8(1631)年には早くも平福藩は廃藩となってしまい、城下町は因幡街道の宿場町として残されることになります。

武蔵初決闘の場

宿場町の外れへ歩くと、六地蔵が立ち並ぶ古い墓地がありました。この辺りは美作出身という説もある宮本武蔵が初めて決闘をして見事に勝利した場所と言われていて、石碑が建てられています。

平福陣屋跡

武蔵初決闘の場から国道沿いに歩くと擁壁の上に立派な門がありました。こちらは平福陣屋跡で、智頭急行の車窓からもよく目立つ平福のシンボルのような建物です。平福藩が廃藩になった後、平福は旗本の松平氏が治めることになり、平福陣屋が築かれました。門の向こうは駐車場になっていて陣屋の建物は失われていますが、幕末の元治元(1864)年に建てられた門が今も平福の町を見守るようにそびえています。

城下町から宿場町へと町の在り方を変えながら栄えてきた平福の町、もう少し歩いてみたいと思います。

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