せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山陽沿線ブログ終了のお知らせ

平素より山陽沿線ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
当ブログは、読者の皆さまに支えられ、長期間にわたり更新を続けてまいりましたが、
このたび12月末日をもちまして終了させていただきました。
今後とも山陽電車をご愛顧賜りますよう、お願い申しあげます。

宝の海を臨む垂水を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、垂水を歩いてみたいと思います。

垂水東口バスターミナル

海神社から山陽電車の高架を潜り、山側に出ました。
駅前に広がるのは山陽バスの垂水東口バスターミナルです。黄色い山陽バスが発車を待っていました。

池姫地蔵尊

垂水東口から垂水小学校の山側に向かうと、Y字に分かれた道の又の部分にお堂がありました。こちらは池姫地蔵尊というお地蔵さんです。かつてこの辺りにはため池がありましたが、昭和初期の開発で池は埋め立てられてしまいました。その際、池の底から見つかったのがこちらの池姫地蔵尊です。ちなみに、垂水東口に発着する以前はこのお堂の傍に山陽バスの神田町停留所があり、他の神田町の乗り場と呼び分けるためにこのお地蔵さんに因んで「地蔵前」とも呼ばれていました。

瑞丘八幡神社

池姫地蔵尊からかつてバスの走っていた坂道を歩いていくと神社がありました。こちらは瑞丘八幡神社です。

瑞丘八幡神社の境内

訪れたときはもう年末も近いというのに銀杏の黄色い葉がまだまだ残されていました。

瑞丘八幡神社の創建時期は分かっていませんが、古くからこの地域で祀られていたとされています。この神社の主祭神の神功皇后は海神社の創建にもかかわりがあるため、海神社と同様の時期に創建されたのではないかとも言われています。元々は厄除八幡でしたが、昭和6(1931)年に瑞丘社、荒神社、御霊社を合祀して社号を現在の瑞丘八幡神社に改めています。ちなみに、瑞丘社は菅原道真を祀る天満宮で、もとは山陽垂水駅の山側の天ノ下町にありました。商大筋の下を暗渠で流れる天神川の名前はこの瑞丘社に因んでいます。また、御霊社も福田川沿いの元々あった場所には御霊町の名前が残されています。

瑞丘八幡神社から眺めて

瑞丘八幡神社からは鳥居越しに垂水の町を見下ろすことができました。かつては一面に田畑が広がっていて、この八幡神社が「矢羽田の神」として村々を見守っていたそうです。

海の神と里の神に見守られた垂水は賑やかに年末を迎えようとしていました。

宝の海を臨む垂水を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、垂水を歩いてみたいと思います。

大阪湾を眺めて

海神社の大鳥居の前からは漁協の建物越しに大阪湾の水面を眺めることができました。

山田岸松像

漁協と向かい合うようにして設けられた広場には銅像が立っていました。こちらは神戸市西部漁業協同組合の初代組合長をつとめた山田岸松氏の像です。

山田氏は漁協の建物の向こうに広がる垂水漁港の整備や海苔養殖の事業などに取り組み、垂水だけでなく兵庫県の漁業の発展に貢献しました。垂水と言えば、住宅地だけでなく、いかなごやしらす、そして、須磨に養殖場が広がる海苔と海の幸に恵まれていますが、その礎を築いたといえるのでしょう。その功績を伝えるためにこちらの像が建てられました。銅像の傍には魚型の石像の海の幸供養塔が建てられています。

寶ノ海神社

山田岸松氏の銅像のある広場の隣には赤い鳥居の並ぶ神社がありました。寶ノ海神社です。

寶ノ海神社の創建は新しく、昭和54(1979)年に創建されました。一見、海神社と関係しそうな雰囲気ですが、そうではなく、神戸市漁業協同組合が豊漁を祈願して創建したものです。「寶ノ海」という社号はまさに目の前に広がる資源が豊かな大阪湾を表しているようで、素敵に感じますね。

明石海峡大橋を眺めて

海神社の大鳥居の前からは明石海峡大橋を眺めることができました。商業施設のリニューアルのおかげで、周辺は大変な賑わいのようです

冬の垂水をもう少し歩いてみたいと思います。

宝の海を臨む垂水を歩いて(前編)

投稿日:


師走に入り、どこか慌ただしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽垂水駅

山陽電車で着いたのは山陽垂水駅です。山陽電車の高架の下には山陽タクシーの乗り場があり、駅前には山陽バスの停まるバスターミナルが広がっています。

海神社

駅の浜側、JRの高架沿いにこんもりとした森があります。こちらは海神社です。地元では「かいじんじゃ」と呼ばれていますが、正式には「わたつみじんじゃ」です。

海神社の境内

周辺は飲食店や住宅、鉄道の高架で、賑やかな垂水の街の真ん中にある神社ですが、境内はまるで別空間のように静かで、街中のオアシスといった雰囲気です。

海神社の歴史は非常に古く、遥か古代に遡ります。神功皇后が三韓征伐の帰途にこの沖合を通りかかったところ暴風雨に見舞われました。そこで綿津見三神を祀って祈ったところ、暴風雨はやみ、船は進むことができたそうです。その縁から、この地に綿津見三神を祀る社を築いたのが始まりです。同様の伝説は播磨灘~大阪湾沿岸にかけての地域に広く伝わっていて、本当のところはわかりませんが、いずれにせよ名前の通り、海に深い縁のある神社ですね。

海神社大鳥居

国道を渡り浜側へ向かうと大鳥居がそびえています。

かつてはこの鳥居の前は砂浜で、文字通り「海」の神社でした。古い写真では、松の木が並ぶ砂浜に鳥居がそびえ、その傍には垂水警察署の洋館が建っていて、どこかリゾート地のような雰囲気だったようです。今では砂浜は埋め立てられて鳥居の前には漁協の建物が建っています。垂水警察署は学が丘へと移転してこの場所にはありません。すっかり景色が変わっても、海と淡路島の島影を望む雰囲気は変わらないのでしょうか。

年末の垂水をもう少し歩いてみたいと思います。

秋の生田の森を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の生田神社を訪ねてみたいと思います。

生田の池

生田神社の社殿の裏手には池が広がっていました。こちらは生田の池です。現在は噴水が設けられた現代的な庭園の雰囲気ですが、古くからの歴史があり、鎌倉時代には藤原定家の歌に詠まれるなど名勝として知られていたそうです。

生田の森

生田の池の傍には木々が生い茂る森が広がっていました。こちらは生田の森です。

はるか古代に砂山と呼ばれた現在の布引山に建立された生田神社ですが、建立からしばらく経った平安時代の延暦18(799)年に洪水で布引の渓谷が氾濫して山崩れが発生し、社殿が傾いてしまいました。山麓の生田村の刀禰七太夫なる人物がご神体を背負って崩れる砂山から避難させてこの地へ運んだそうです。伝説では、砂山から運び出したご神体がここ生田の森で急に重くなり動けなくなったのでこれは神意だと思いここに新しい社殿を建てることにしたそうです。

生田の森の中

生田の森の中に入ると木々の合間から秋の日差しの降り注いでいました。

新たにこの地に建立された生田神社の森として平安時代以降数々の書物に記され、生田の森は知られるようになりました。源平の合戦の中で寿永3(1184)年に起こった一の谷の合戦では須磨の一の谷だけでなくこの地にも平氏の平知盛の陣が敷かれ、古戦場としても知られるようになります。

生田の森の裏手

生田の森を通り抜けると、東門街の由来にもなった東門の鳥居がそびえていました。鳥居の向こうには三宮の繁華街が広がっています。昼間でも賑やかな街並みは静かな雰囲気の境内とはまるで別世界で、その差に驚いてしまいました。現在の神戸の地名は平安時代に朝廷から神戸「生田の神封四十四戸」を与えられ、周辺が社領となったことが由来とされています。神戸の都心に鎮座する神社は街の移り変わりを静かに眺めてきたのでしょうか。

震災復興記念碑

境内には震災の記念碑が建てられています。神戸の市街地にある神社は戦災や自然災害など数々の被害に遭ってきました。阪神淡路大震災で社殿が倒壊していた光景はまだまだ記憶に新しいのではないでしょうか。数々の災害に遭いながらもこうして今も都心に鎮座し、多くの参拝客が訪れる神社は蘇りの神社としても信仰されているそうです。

現在、ドラマの放送で神戸や阪神淡路大震災が改めて注目されています。
この秋は都心に静かにたたずむ神社と、その奥に広がる森を訪ねてみてはいかがでしょうか。

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて須磨を歩いてみたいと思います。

須磨の関跡碑

いなり坂を上った先、石垣の上に石碑がありました。須磨の関跡碑です。

関守稲荷神社

石碑の脇の階段を上がると、神社があります。こちらは関守稲荷神社です。

須磨の関は西国街道に置かれた関所の一つで、大宝律令にも定められた歴史ある関所です。須磨の関守のことを詠んだ源兼昌の歌は百人一首にも入っていて、よく知られていますね。実際の関所はどこにあったのかはっきりとわかっていませんが、ここ関守稲荷神社は関所の守護神とされていて、この場所が関所があった場所とも言われています。須磨の関は摂津の関、つまり畿内の西端の関所でした。古代には京都から比較的近い景勝地で、源兼昌だけでなく数々の歌に詠まれてきました。創作になりますが、こちらで隠遁生活を送ったとされているのが『源氏物語』光源氏です。『源氏物語』の須磨の巻には須磨の地で過ごす光源氏の姿が描かれています。関守稲荷神社は光源氏が巳の日祓をした神社のモデルとされ、「巳の日稲荷」とも呼ばれています。江戸時代の『摂津名所図会』にもその旨が記されていて、今でいう”聖地巡礼”のスポットになっていたようです。

現光寺

関守稲荷神社から坂道を降りると千森筋に出ました。道路沿いにあるのは現光寺です。

現光寺は室町時代の永正11(1514)年の創建と伝わります。今では住宅や商店に囲まれていますが、かつては須磨の海を見下ろす景勝の地でした。『源氏物語』で光源氏の住まいがあった場所に似ていることから、「源氏寺」とも呼ばれています。

現光寺の境内

現光寺の境内は静かな雰囲気でした。立派な松の木が印象的ですね。今では海を眺めることはできませんが、源氏物語ゆかりの地として古くから多くの人々が訪れていて、境内には須磨を詠んだ松尾芭蕉や正岡子規の句碑が建てられています。

源氏寺

現光寺の前には源氏寺の碑が日差しを浴びて佇んでいました。『源氏物語』ゆかりの地でもある須磨の秋は少しずつ深まっているようです。

秋の風を感じながら、山陽電車で須磨を後にすることにしました。

源氏物語ゆかりの須磨の関を歩いて(前編)

投稿日:


すっかり秋らしくなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽須磨駅

涼しい風を浴びながら訪ねたのは山陽須磨駅です。
須磨海岸の最寄り駅ということで、洋館風の装飾が施されていて、どこか観光地の駅のような雰囲気がありますね。

村上帝社

山陽電車の線路の築堤沿いに歩くと、神社がありました。こちらは村上帝社で、その名の通り、平安時代の村上天皇を祀る神社です。

村上帝社の創建はやはり平安時代に遡るとされています。伝説では、琵琶の名人として知られていた藤原師長が琵琶を極めるために唐へ渡ろうと都を離れ、ここ須磨にたどり着きました。この地で老夫婦の家に泊まり、お礼にと琵琶を弾くと老夫婦は村上天皇と中宮(妻)の藤原安子(梨壺女御)の姿になり、師長へ琵琶の弾き方を教えて唐へ渡るのを思いとどまるように言ったそうです。琵琶の奥義を身に付けて唐へ渡る必要のなくなった師長は京へ戻ることにしました。そして、この地に村上天皇を祀る社が建てられたそうです。

琵琶塚

山陽電車の築堤を潜った先に石碑がありました。こちらは琵琶塚の碑です。唐へ渡ることを思いとどまった師長はこの地に琵琶の名器「獅子丸」を埋め、その場所は琵琶塚と呼ばれるようになったそうです。実際の琵琶塚は古墳で、前方後円墳だったと言われていますが、山陽電車の建設時に取り壊されてしまいました。今はこちらの石碑が残るだけです。

いなり坂

琵琶塚から山へと向かっていなり坂と呼ばれる坂道が伸びていました。

平安時代からの伝説に彩られた須磨をもう少し歩いてみたいと思います。

明石海峡を見下ろす西舞子・狩口を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西舞子地区から垂水区の丘陵を歩いてみたいと思います。

坂の道

海沿いのイメージが強い西舞子地区ですが、六甲山地から続く丘陵が海に迫る地形から、海沿いを離れると急な坂道が続きます。こうした光景はいかにも垂水区という雰囲気ですよね。

垂水区を見下ろす

坂道を上り詰めると、山田川を挟んだ丘に垂水の街が広がる景色を眺めることができました。

きつね塚緑地

住宅街の一角に木々に囲まれた公園がありました。こちらはきつね塚緑地です。

狩口台きつね塚古墳

公園の中には小さな丘がありました。こちらは狩口台きつね塚古墳です。

明石海峡を見下ろす高台にある狩口台きつね塚古墳は6世紀後半頃の古墳時代後期に築造された古墳です。五色塚古墳などと比べると比較的新しい古墳で、前方後円墳ではなくシンプルな円墳ですが、古墳の周囲の環濠が二重であったのが特徴とされています。こちらの古墳に埋葬されている人物も詳しくはわかっていませんが、五色塚古墳と同じく明石海峡を見下ろす立地であることや、副葬品に須恵器や鉄器など当時では先進的なものが見つかっていることから、有力な豪族であったことをうかがうことができます。

狩口台きつね塚古墳を眺めて

狩口台きつね塚古墳を眺めてみました。木々や草木に覆われ、住宅に囲まれた今は古墳であることもわかりにくくなっていますが、改めて眺めてみるとそれなりの高さのある墳丘に被葬者の力を感じることができるようです。

狩口台からの眺め

狩口台きつね塚古墳からは住宅の合間に播磨灘のきらめく水面を眺めることができました。狩口台きつね塚古墳に埋葬された人物たちもこの景色を眺めていたのでしょうか。

住宅地の中に古代からの歴史を感じる西舞子や狩口、どこかこの地域の奥深さを感じる旅となりました。

明石海峡を見下ろす西舞子・狩口を歩いて(前編)

投稿日:


例年よりも遅い彼岸花が咲き始め、沿線を彩るようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西舞子駅

山陽電車を降りたのは西舞子駅です。JRと国道2号線に挟まれた土地に狭いホームのがあるのが特徴的な駅です。

明石海峡大橋を眺めて

線路沿いを歩いていくと、垂水区の多聞地区や舞子地区を流れて播磨灘へとそそぐ山田川を渡りました。線路越しに明石海峡大橋を眺めることができます。

崇富龍王

西舞子地区の住宅地を歩いていると、道端に「崇富龍王」と書かれた案内が石に書かれていました。

嵩富出世龍王神社

案内に従って歩いていくと、マンションと擁壁に囲まれた狭い場所に石灯籠や鳥居の並ぶ神社がありました。こちらは嵩富出世龍王神社です。

今は小さな神社ですが、嵩富出世龍王神社の歴史は非常に古く、はるか古代に遡るとされています。4~5世紀頃、この地域を治めていたのは朝鮮半島から渡ってきた海人族(あまぞく)とされていて、その人々が中国で信仰されていた龍王を祀ったのが始まりと言われています。もとは海沿いの岬のような場所にあったそうですが、開発に伴い現在の場所へと移されました。

嵩富出世龍王神社の境内

決して広くない境内ですが、風格ある社殿には歴史を感じますね。それにしても、4~5世紀といえばちょうど前回まで訪ねた五色塚古墳が築造された頃です。西舞子で龍王を祀っていた人々と古墳を築いた人たちには何らかの関りがあったのかもしれませんね。

住宅地の中に古代からの史跡が残る西舞子地区をもう少し歩いてみたいと思います。

復元整備50年・五色塚古墳を訪ねて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、五色塚古墳を歩いてみたいと思います。

古墳に上る

五色塚古墳の墳丘に上がってみました。日本最大の古墳の堺市の仁徳天皇陵古墳を始め、宮内庁によって天皇家の陵墓と指定されている古墳は立ち入りが制限されていますが、五色塚古墳は陵墓ではないため、こうして墳丘に上ることができます。

五色塚古墳に埋葬されている人物は明らかになっていません。しかし、古墳の規模や交通の要衝である明石海峡大橋を見下ろす立地から、この地域を治めた有力な豪族であったと考えられています。上段や中段の葺石は海を挟んだ淡路島の東海岸で産出されたもので、この地域で広く交易も支配していたと考えられています。陵墓ではないとされてはいますが、大和盆地から離れた地域でこれだけの古墳を築造するには交通の要衝を押さえるだけでは足らないとも考えられていて、中央の大和政権との関りも想像されます。

前方部から後円部を眺めて

前方部から後円部を眺めてみました。巨大な古代遺跡の向こうに街並みが広がる景色は住宅地の中にある五色塚古墳ならではの光景ですね。

埴輪の並ぶ前方部

墳丘には埴輪が並べられています。発掘調査で墳丘に並べられていた埴輪が発見されたそうで、古墳の復元にあたって埴輪も復元されて築造当時のように並べられています。

前方部から明石海峡を見下ろす

前方部の南端から明石海峡を眺めてみました。今も昔も交通の要衝だった明石海峡と、淡路島の島影を望むことができます。ちょうど山陽電車が通過していきました。

復元整備から50年を経た五色塚古墳では今後ガイダンス施設の整備が予定されています。施設の屋上に設けられたテラスからは古墳を眺めることができるそうで、これまでとは違った視点で古墳を眺められることになりそうですね。垂水に残された古代のミステリーをより楽しむことができるのを期待しながら、霞ヶ丘駅へと戻ることにしました。

復元整備50年・五色塚古墳を訪ねて(前編)

投稿日:


秋のお彼岸の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

霞ヶ丘駅

山陽電車で着いたのは霞ヶ丘駅です。
日中はここで普通車が直通特急の通過を待って小休止をします。

五色塚古墳へ道

山陽電車の車窓からもよく見えるのが五色塚古墳です。
駅前には古墳への案内看板がありました。近年、古墳が注目されるようになったせいか、案内が充実してきたようですね。

五色塚古墳

住宅街を通り抜けると、家並みが途切れて巨大な丘が広がりました。五色塚古墳です。

神戸市垂水区の大阪湾を見下ろす高台にそびえるのが五色塚古墳です。別名を千壺古墳とも言い、古墳時代前期の4世紀後半に築造されたとされています。兵庫県下一の大きさとされていて、墳丘の長さは194mと、姫路市にある2位の壇場山古墳の143mを大幅に上回る規模です。大和盆地や百舌鳥・古市古墳群以外で200mに迫る墳丘は多くはなく、遠くからでも目立つ姿は迫力がありますね。

復元整備50年

古墳の周囲には復元整備50年を記念した幟が立てられていました。

西国街道沿いにあり、多数の船が行きかう明石海峡を見下ろす五色塚古墳は古くから名所として知られていて、近世以前の書物にも記されています。学術的な調査が行われるようになったのは明治時代以降ですが、当時は松の木々に覆われた小山のようだったそうです。太平洋戦争中には木を資材として使ったり、根から油を取るために古墳に植えられていた松の木は伐採されてはげ山のようになってしまいました。さらに周辺が畑として使われ、古くから親しまれてきた古墳は荒れ果てた姿になってしまったそうです。現在のような姿へと整備する取り組みが始まったのは昭和40(1965)年からで、それから10年をかけて調査と復元がおこなわれました。先日、令和6(2024)年8月8日には復元整備から50周年を迎え、様々なイベントが開催されたそうです。

古墳を眺めて

五色塚古墳を眺めてみました。墳丘には整然と葺石が並び、復元整備から50年を経ても美しい姿を保ち続けています。

次回、古墳へと上ってみたいと思います。