せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(前編)

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紅葉の盛りも過ぎつつあり、年末が迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

多田駅

妙見山を訪ねる途中に立ち寄ったのは能勢電鉄多田駅です。

多田御社道の碑

駅前からは石畳の道が伸びていて、道路脇には「多田御社道」と刻まれた石碑が佇んでいました。

猪名川

駅前からまっすぐ伸びる道を歩いていくと、猪名川のほとりに出ました。

多田神社

猪名川沿いの住宅地の中を歩いていると、立派な石垣が現れ、急な石段の上には楼門がそびえています。こちらは多田神社です。

多田神社の歴史は非常に古く、平安時代に遡るといわれています。天禄元(970)年、清和源氏興隆の祖とされる源満仲がこの地に居館を構えて、多田院鷹尾山法華三昧寺(多田院)という寺院を建立したことが始まりとされています。現在の多田神社は神道の神社ですが、明治時代まで千年近くの間は寺院で、この周辺の地名には今も「多田院多田所町」「多田院西」のように「多田院」の名前が残されています。現在では源満仲から曾孫の義家までの五代を祀り、清和源氏発祥の地とされています。

南大門

石段を上がると南大門がそびえていました。神社になった今でも建物の呼び名には仏教寺院だった頃の名残が残されています。

次回も多田の地を歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、能勢の妙見山を歩いてみたいと思います。

信徒会館「星嶺」

紅葉の参道を歩いていると、突然ガラス張りの巨大な現代建築が現れました。こちらは能勢妙見山の信徒会館の「星嶺」という施設です。ガラス張りの外観は妙見菩薩の降臨や北極星を表現しているとのこと。通常は公開されていないようですが、月例法要や行事の際には一般の参詣客も中に入ることができるそうです。見上げるような高さで、上階からの眺めは気持ちが良さそうですね。

能勢妙見山の山門

信徒会館「星嶺」を回り込むと能勢妙見山の山門が現れました。

能勢妙見山

山門から階段を降りると能勢妙見山の境内です。妙見山の山頂から少し下った狭い平地に堂宇や売店、寺務所が建ち並んでいます。

奈良時代に開かれたこの山に鎮宅霊符神(妙見大菩薩)が祀られるようになったのは前回もご紹介したように平安時代、清和源氏の始祖とされる源(多田)満仲が邸宅に祀っていた神像をこの場所へ遷したことが始まりでした。その後、満仲の孫の源頼国はこの能勢の地を領地として能勢氏を名乗るようになります。安土桃山時代に当主をつとめた能勢頼次は本拠地だった丸山城(妙見山の北側)が織田信長の軍勢に攻め落とされたのに伴って当時は為楽山と呼ばれていた妙見山に城を築くとともに、織田方の明智光秀の配下に入りました。しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起こります。頼次は明智方につきますが羽柴秀吉に敗れ、能勢の地へと攻め込む軍勢を避けるために備前へと落ち延びていきました。

能勢妙見山の本殿

境内の一角に本殿がありました。ケーブルカーで上ってきた参詣客や登山者が列をなしてお参りをしていました。能勢妙見山は寺院ですが、神仏習合の名残が色濃く残り、こちらのお堂も「本殿」、別名「開運殿」とどこか神社風です。

本能寺の変で先祖代々所領としてきた能勢の地を失った能勢氏ですが、関ヶ原の戦いの功でこの地、能勢へ戻り、妙見山の北側の山麓に真如寺を開きました。また、妙見山上の城跡にはこの開運殿を開いて山の名前を為楽山から妙見山へ改めました。江戸時代には妙見菩薩や北極星信仰の聖地として広く知られるようになり、多くの参詣客が訪れるようになりました。山上にはかつての旅館が売店になっていたり空き家となっていたりしながら残されていて、かつての賑わいを今に伝えているようです。

能勢の山々を眺める

信徒会館「星嶺」の前へ戻り、能勢の山々や街並みを見下ろしてみました。
丹波高地の南に位置する妙見山はとても深く、どこか神々しさを感じるような気がします。深い深い山へと鉄道やケーブルカーを敷設した先人たち、そして、この場所を憩いの場として育んできたたくさん人々に思いをはせながら去りゆくケーブルカーやリフトを見送りたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、能勢の妙見山を訪ねてみたいと思います。

妙見の森リフト

妙見の森ケーブルで着いたのは妙見の森と呼ばれるエリアで、バーベキュー場などがあり、山上のちょっとした行楽地となっています。ここからは妙見の森リフトに乗り換えて山上を目指します。この妙見の森リフトも戦前に開業した当初はケーブルカーで、現在も運行されている妙見の森ケーブルが「下部線」、リフトになっている山上側が「上部線」と呼ばれていて、二本のケーブルカーを乗り継いで山上へ向かっていました。戦後に路線が復活する際、上部線は建設コストの削減のためにリフトに変更されたようです。

山上への道

紅葉を眺めながら妙見の森リフトに乗って妙見山駅に着きました。ここからは木立の中の山道で妙見山を目指します。

奈良時代に開かれ、北極星信仰の聖地として古くから信仰を集めていた能勢妙見山のアクセスには古くから「妙見街道」と呼ばれる道がありました。現在のケーブルカーとリフトを乗り継ぐルートのやや南東の初谷川に沿った道で、終盤の妙見山付近は非常に険しい道が続いています。現在ではケーブルカーとリフトが公共交通機関でのアクセスのメインですが、山上へは車道も通じていて、乗用車でもアクセスできるほか、以前は山麓の豊能町や茨木だけでなく梅田や京都からも直通のバスが運行されていました。

鳥居跡

リフトの妙見山駅から木立の中を歩いていると丸い礎石が現れました。こちらは鳥居跡です。大正14(1925)年に妙見鋼索鉄道の上部線と下部線のケーブルカーが開業すると、参拝のルートが街道からケーブルカーの駅からの道がメインとなったためこの場所にも鳥居を設けたそうです。ただし、当時の鳥居は戦時中の昭和19(1944)年にケーブルカーがいったん廃止されたさいに撤去されてしまいました。

能勢妙見山へ

木立の中を通り抜けると、休憩所や商店などが現れ、少し賑やかな雰囲気となりました。こちらは能勢妙見山の門前です。

能勢妙見山の歴史は奈良時代にさかのぼるとされています。当時は為楽山(いらくさん)と呼ばれていた妙見山に僧・行基が北辰星(北極星)を祀り、大空寺という寺院を開いたのが始まりとされています。その後、鎮宅霊符神(妙見大菩薩)を深く信仰していた源満仲が屋敷に祀っていた神像をこの山へ遷し、妙見大菩薩と北極星信仰の聖地となりました。

境内の紅葉

ちょうど紅葉の始まりの時期で、境内は鮮やかに彩られていました。

間もなくお別れとなるケーブルカーとリフトで訪ねた妙見山をもう少し歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(前編)

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そろそろ紅葉の季節を迎えるころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妙見口駅

阪急宝塚線の川西能勢口から日生中央行きの能勢電鉄に乗り換え、さらに山下駅で乗り換えて着いたのは妙見線の終点の妙見口駅です。能勢電鉄の沿線には住宅地が広がっていましたが、妙見口駅の周辺はのどかな里山が広がっています。

吉川の里

妙見口駅から歩くことにしました。道沿いには田畑が広がり、柿が実っています。

ケーブル黒川駅

妙見口駅から15分ほどで妙見の森ケーブル黒川駅に着きました。妙見口駅は大阪府豊能町ですが、歩いている間に県境を越えて、ケーブル駅があるのは兵庫県川西市です。

能勢電鉄と妙見の森ケーブルはこの先、能勢妙見山への参拝客輸送の目的で開業したのが始まりでした。妙見線が妙見駅(今の妙見口駅)まで開業したのは大正12(1923)年で、能勢電気軌道(今の能勢電鉄)と地元有志の出資する妙見鋼索鉄道のケーブルカーが開業したのは大正15(1925)年のことでした。鉄道とケーブルカーの開業で能勢の山深くにある能勢妙見山への交通アクセスは飛躍的に向上しました。しかし、太平洋戦争中の昭和19(1944)年に妙見鋼索鉄道のケーブルカーは不要不急路線として廃止。レールなどは資材として供出されてしまいました。

妙見の森ケーブル

現在の妙見の森ケーブルは戦後の昭和35(1960)年に妙見ケーブルとして復活したものですが、令和5(2023)年12月3日の営業をもって廃止となることが決まっています。別れを惜しむ人たちでケーブルは混雑していて、15分ほど並んでようやくケーブルカーに乗ることができました。

お別れの迫るケーブルカーに乗って能勢妙見山を訪ねてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河の集落をかつての湯山街道が貫いています。新しい家々が建ち並んでいますが、緩く曲がった古い道の雰囲気が今も残されています。

街道の道標

街道沿いに古い道標が立っていました。苔むした道標には「有馬大坂」「山田兵庫」という文字が刻まれています。ここ淡河は東播と有馬温泉、大坂を結ぶ東西の湯山街道と兵庫への南北の街道が交わる交通の要衝でした。

戦国時代、三木合戦の戦いの中で淡河を治めていた淡河城羽柴秀吉の手により落城してしまいました。しかし、合戦後の天正7(1579)年、秀吉は淡河に定期市を開くことを許し、市に対して税を取らない楽市とする制札を立てました。戦いの舞台となった淡河でしたが、楽市に定められたことで街道沿いの商業地や宿場町として発展していくことになります。ちなみに、この時の制札は前回ご紹介した歳田神社に保存されているのが近年発見されたそうです。

淡河本陣跡

道標の近くの街道沿いに立派な瓦葺の建物が佇んでいました。こちらは淡河本陣跡です。

江戸時代に入ると淡河は明石藩に属することになり、明石藩主をはじめとした大名が参勤交代などで湯山街道を通る際の宿泊所として本陣が整備されました。この本陣職を長くつとめたのは秀吉が楽市を定めた際に街の整備に貢献した大庄屋の村上家だったとされています。戦後、淡河は神戸市に編入されます。本陣の役割を終えた淡河本陣はやがて空き家となり放置されていました。現在のように整備され利用されるようになったのは平成29(2017)年のことで、映画『るろうに剣心』のロケ地としても使用され注目を集めるようになりました。

淡河本陣跡の内部

淡河本陣跡の内部には瓦屋根が立派な母屋だけでなく土蔵や茶室まで残されていて、現在はカフェや集会所として利用されています。江戸時代の風情を残す畳の間を山々を渡る風が吹き抜けていきました。

夏の暑さの中にどこか秋の雰囲気も感じるようになったこの頃。まもなく実りの季節を迎えるかつての宿場町を訪ねてみてはいかがでしょうか。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河城跡の山を下りて、淡河の町を歩いてみることにしました。県道に並行して集落の中を通るのはかつての湯山街道です。

歳田神社

街道を外れて北へ歩いていくことにしました。田んぼの中に立派な鳥居が佇んでいるのは歳田神社です。

歳田神社の境内

水田の中の参道の先には広々とした神社の境内が広がっていました。

現在はのどかな田園地帯の広がる淡河ですが、太古には「泡河湖(あわごこ)」と呼ばれる湖が広がっていたそうです。湖があり資源に恵まれた環境だったためでしょうか、淡河にははるか縄文時代にさかのぼる遺跡が残されています。その後、この泡河湖は中世にかけて徐々に干拓され、江戸時代の中頃には姿を消してしまったそうです。この歳田神社が建立された時期は分かっていませんが、奈良時代に泡河湖の干拓事業に際して水神を祭ったのが始まりと伝わっています。

宿場町の風情

歳田神社から淡河の町へ戻りました。街中には茅葺の民家が残っていました。湖のほとりの集落から交通の要衝を抑える戦略上の拠点となった淡河は近世には宿場町として発展することになります。

次回は宿場町の風情を感じながらもう少し淡河を歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(前編)

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夏の盛りですが、暦の上では立秋を過ぎた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

道の駅・淡河

神戸三宮から新神戸トンネルを潜り抜けて北へ向かうバスで着いたのは神戸市北区の淡河町です。田園地帯が広がる淡河町ですが、バス停留所の周辺の本町地区には民家や店舗が集まり、少し賑やかな雰囲気です。淡河本町バス停の近くには道の駅・淡河があり、地域の野菜などを売るお店は朝から賑わっていました。

淡河城跡

道の駅・淡河の背後の山には気になる建物がありました。
「淡河城跡」と書かれた看板の立つ山の斜面にはつづら折りの道が設けられていて、その上には砦のような建物があります。

神戸の中心市街からは六甲山地と帝釈山系を挟んで遠いイメージのある神戸市北区淡河町ですが、古くから三木と有馬温泉を結ぶ湯山街道の宿場町として栄えていました。この地域を治め、淡河城を築いたのは淡河氏で、鎌倉時代、北条氏の一族の北条朝盛がこの地域の名前をとって「淡河」と名乗り始めたものです。淡河氏は東播地域へ勢力を拡大し、淡河城は交通の要衝を治めるだけでなく淡河氏の拠点となっていきます。

淡河城跡へ上る

小高い山の上の淡河城跡は現在は神社と公園になっていました。

淡河城跡の碑

公園の隅には淡河城跡の碑が佇んでいました。木漏れ日の差し込む石碑に蝉時雨が降り注いでいます。

淡河氏の拠点となった淡河城ですが、淡河氏は戦国時代に三木の別所氏の配下となります。天正6(1578)年から始まった別所氏と羽柴秀吉との戦いである三木合戦では別所氏側の城となりますが、秀吉の手により淡河城は落城しました。その後、秀吉の中国攻めで功のあった武将・有馬則頼が城主となりますが、江戸時代の元和元(1615)年に出された一国一城令で淡河城は廃城となりました。

淡河城跡からの眺め

山の上の淡河城跡からは先ほど訪ねた道の駅と湯山街道沿いに広がる淡河の町を見下ろすことが出来ました。

山間に宿場町として栄えた淡河、もう少し歩いてみたいと思います。

古代駅家の地・太市を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路市の太市を歩いてみたいと思います。

太市の街並み

破磐神社から太市の集落の中を歩くことにしました。歴史ある地域だけあって、街並みにも趣があります。

専光寺

集落を歩いていると姫新線の線路沿いに出ました。線路沿いに佇んでいたのは専光寺です。大きくはありませんが、姫新線の車窓からもよく見えて印象的な寺院ですね。ここ太市は古墳も多く、この専光寺の奥の山々にある西脇古墳群をはじめ、古墳群が点在しています。

邑智駅家跡

上郡への県道を渡り、南側の集落を歩いていると邑智駅家跡と刻まれた石碑がありました。

古代の山陽道は奈良時代に整備され、姫路から西では現在の姫新線に近いルートを経てから相生市の北側を通って上郡へと向かっていました。律令国家では駅制と呼ばれる通信のための交通制度が整備されていて、街道には駅家(うまや)と呼ばれる中継施設が設けられていました。古代山陽道に設けられていた駅家の一つがここ太市にあったとされる邑智駅家(おおちうまや)です。

邑智駅家?

律令国家の衰退とともに駅制も機能しないようになり、各地に設けられていた駅家は消えていきました。ここ太市の駅家も現在では跡形もありません。のちに近世にかけて整備された西国街道は太市の南側を経由し、太市に宿場が置かれることもありませんでした。太市で行われた発掘調査では、邑智駅家のものと考えられる瓦や建物の跡などが発見されているようです。

太市を眺めて

太市を眺めてみると、冬空の下にのどかな田園風景が広がっていました。はるか古代、この辺りにはたくさんの馬が置かれ、休憩施設などが整備された「駅」があったのでしょうか。

太市は間もなく名産のタケノコの季節を迎えます。「姿は京都山城・味は姫路太市」と評される太市のタケノコを楽しみながら、田園地帯に眠る古代の遺跡や伝説に彩られた町を楽しんでみてはいかがでしょうか。

古代駅家の地・太市を訪ねて(前編)

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寒さの中に春を感じることが増えたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

太市駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーに乗り換えて着いたのは太市駅です。

太市駅の駅舎

太市駅自体は無人駅ですが、地元企業の本社ビルを兼ねた駅舎があり、一階ではカフェやこの地の特産のタケノコを使った商品などを販売する店が設けられていました。

姫路や龍野といった歴史ある町に囲まれている中で太市は決して目立つわけではありませんが、その歴史は非常に古く、奈良時代初めに記された『播磨国風土記』には既にその名前があると言われています。風土記によれば、応神天皇がこの地を訪れ、山に囲まれた狭いところと聞いていたのにまことは「大内」であると言ったことから、「大内」と呼ばれるようになったとされています。その他に邑智(おおち)、大市、於布智、於保知などとと書かれることもあったようですが、現在の「太市」の表記が使われるようになった時期は分かっていないようです。

破磐神社の鳥居

駅から北側へ歩くと、田んぼの中に鳥居が佇んでいました。破磐神社(はばんじんじゃ)の鳥居です。

破磐神社

山の麓に佇んでいたのは破磐神社です。

太市が古い歴史があるのと同じように、ここ破磐神社も長い歴史を持っています。伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途、麻生山(山陽電車白浜の宮駅とJR御着駅の間にある山)から三本の矢を射ました。一本目は的形、二本目は姫路市の辻井、そして、三本目はここ太市に落ちたそうです(的形には神功皇后にまつわる別の矢落伝説があり、三本の矢が落ちた場所にも諸説があります…)。太市に落ちた矢は大岩に当たって岩を三つに割ったそうで、これを吉兆として矢を祀る祠を建てたのが破磐神社の始まりとされています。その岩は神社の南西の山の中に今もあり「破磐の大磐」として今もご神体とされています。かつては神社も大磐と同じ山の中にあったそうですが、祭礼の際の利便を図るために集落に近い現在の場所へ移されたとのこと。

破磐神社の境内

山の麓の神社の境内は広々としていました。特に祭礼でもないのに多くの参拝客がいるのに驚きましたが、どうやら、神秘的な創建伝説のおかげなのか、現在ではパワースポットとして注目されているそうです。

のどかな景色の中に長い歴史を持つスポットが佇む太市、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

相生を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

相生の町並み

相生天満神社を後にして、相生の街中を歩きます。
どこか瀬戸内の港町のような趣のある街並みが続いていました。

光明寺

街の中にひときわ目立つ大きな屋根が見えました。こちらは光明寺です。

光明寺の境内

山門をくぐった先の境内には浄土真宗の寺院らしく、巨大な本堂がそびえていました。

光明寺は明応5(1596)年に播磨海老名氏の二代目の海老名季重が開いた寺院で、海老名氏の菩提寺でした。創建当初は本堂前のイチョウの木の間に設けられた小さなお堂だったそうですが、明治時代、相生港に台風で流れ着いた木材を使って今の堂宇が建てられたそうです。ちなみに、相生の庄屋となった海老名氏はここ光明寺の北側、今の相生公民館の辺りに屋敷を構えていましたが、この屋敷は明治時代に焼失し、現存していません。

南町荒神社

相生の街を通り抜けて、南側の山に天満神社と向かい合うように佇む南町荒神社を訪ねてみました。

荒神社からの景色

荒神社からは瓦屋根の家々が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。近世を通して相生は赤穂藩領で、城下町ではありませんが、どこか漁村とは違った趣があるように感じますね。

相生湾沿いの巨大な造船所は重工業都市・相生の象徴のような景色ですが、瓦屋根の家々が山の合間に建ち並ぶ光景は「おお」と呼ばれた頃の相生を今に伝えているようです。これから相生では牡蠣のシーズンを迎えます。深く切れ込んだ相生湾の海の恵みを楽しみながら、相生の町並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。