せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古代寺院と伝説の地・安室辻井を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の北西郊外の安室辻井地区を歩いてみたいと思います。

辻井常夜灯

書写街道のバイパスの北側の住宅地に常夜灯がありました。辻井常夜灯と呼ばれるこちらは書写街道の旧道に設けられたものでした。常夜灯の前の書写街道の旧道は今では静かな住宅地の道ですが、かつては書写山への巡礼者が行きかっていたのでしょうか。

辻井の街並み

住宅地の中へ入ると、瓦屋根の民家や蔵の建ち並ぶ昔ながらの細道が続いていました。

行矢神社

住宅地の中に佇んでいたのが行矢神社です。

行矢神社と桜の木

境内ではちょうど桜の花が咲き始めたばかりでした。

行矢神社の歴史は古く、伝説では神功皇后が三韓征伐の際に妻鹿駅や白浜の宮駅の北側にある麻生山から放った矢の一本がこの地に落ちたことを由来としています。太市破磐神社青山稲岡神社とともに、最近、私が気になっている矢落伝説の地の一つとされています(諸説あります)。神社に祀られているのは射盾神と兵主神で、もとは八丈岩山の南麓にあったものがいつしか周辺の住民とともにこの地へ移ったとされています。

行矢神社の境内

それにしても、射盾神兵主神、どこかで聞いたことがありますね。実はこの二柱は姫路城下の播磨国総社こと射盾兵主神社にも祀られています。明治時代には平安時代の延喜式神名帳に記された「射盾兵主神社」が総社なのかこの行矢神社のどちらなのか論争になったそうで、一旦はこの行矢神社が射盾兵主神社とされたものの、再審の末に総社が射盾兵主神社となり、こちらは「行矢射盾兵主神社」とされました。

八丈岩山を眺めて

行矢神社の近くからは家並みの向こうにかつて麓に行矢神社があったとされる八丈岩山を眺めることができました。

行矢神社の祭神の射盾神と兵主神は三韓征伐の後にこの地の開拓に努めたとされています。ひょっとすると、辻井に眠る古代遺跡を築いたのはこの神々やそれを祀る人々だったのかもしれません。

そんなことを考えながら書写街道を姫路駅へ向かうバスに乗り、古代遺跡と伝説に彩られた安室辻井地区を後にすることにしました。

古代寺院と伝説の地・安室辻井を歩いて(前編)

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早くも桜の便りも聞こえるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

辻井南停留所

山陽姫路駅の駅前から乗ったバスが着いたのは書写街道のバイパスにある辻井南バス停です。

辻井廃寺僧房跡の碑

バス停の近くに「辻井廃寺僧房跡」と刻まれた石碑が佇んでいました。

辻井廃寺とは白鳳時代にこの地に存在した古代寺院の遺構です。古くから調査が行われていましたが、本格的な調査が始まったのは昭和57(1982)にバスや乗用車の行きかうこのバイパスの工事がきっかけでした。調査の結果、辻井遺跡と呼ばれる住居跡等の遺跡からは旧石器時代の石器から縄文時代の土器、弥生時代の住居跡が発見されました。併せて、この辺り一帯に広がっていた辻井廃寺の痕跡も見つかっています。

塔心礎

バイパス沿いの真新しい住宅地の中には大きな石が佇んでいました。こちらは塔心礎で、辻井廃寺の仏塔の礎石です。この仏塔の南側からは南門、北側からは講堂の痕跡が見つかっているそうで、一帯に大寺院が広がっていたことがわかります。

辻井廃寺井戸跡

バイパス戻って北西へ歩いていると、「辻井廃寺井戸跡」と刻まれた石碑がありました。辻井廃寺は東西150~200m、南北200mに渡る法隆寺式伽藍の寺院だったそうです。この井戸跡だけでも塔心礎や僧房跡からそれなりに距離があることからもかつての寺院の規模をうかがい知ることができます。

書写街道バイパス

かつての古代寺院の痕跡は多くが道路や住宅地となり、痕跡らしいものは先ほどの塔心礎のみです。しかし、このたくさんの車の行きかうバイパスの下には古代の寺院の遺跡や住居跡が眠っています。そんなことを考えるだけで、ごく普通の郊外の景色が違ったように見えてきますね。

次回、もう少し安室辻井地区を歩いたいと思います。

小利木町と男山を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城北西の小利木町界隈を歩いてみたいと思います。

小利木町と中濠

小利木町には趣のある街並みが続いています。姫路は古くからの城下町ですが、城下の多くの街並みは昭和20(1945)年の姫路大空襲と戦後の市街化で失われてしまいました。しかし、姫路城の北西のこの辺りは戦災の影響が少なく、大規模な開発も行われたなかったようで、昔ながらの街並みが残されています。

清水橋から姫路城を眺める

清水橋付近から千姫の小径側、姫路城の方へと歩いてみました。
高い石垣の上に姫路城の大天守がそびえています。姫路城は平城ではなく、姫山という山に築かれた平山城で、大手前側からは分かりにくいのですが、こうして城の北側から眺めてみると山の上の城であることがよくわかります。なお、この姫山は奈良時代に記された『播磨国風土記』の伝説で大汝命(おおなむちのみこと)の船から蚕(ひめこ)が落ちたという日女道丘(ひめじおか)に比定されています。ちなみに、この「日女道丘」が現在の「姫路」の地名の由来とされています。

男山

姫路城から住宅街を歩いて姫山に隣り合うように佇む男山の麓へ着きました。姫山と対をなす山で、『播磨国風土記』で箱が落ちた箱丘に比定されています。山には男山八幡宮が佇んでいました。

男山千姫天満宮

山の中腹に佇んでいたのが男山千姫天満宮です。元和9(1623)年に千姫が嫁ぎ先の本多家の繁栄を願って建立した神社で、今年2023年にちょうど建立400年となりました。姫路城西の丸から遥拝できるように、東に向けて社殿が建てられています。

前回も訪ねたように、本多忠刻と結婚した千姫は本多家の転封後、「播磨姫君」と呼ばれてここ姫路で過ごしました。しかし、それも長続きはしませんでした。姫路へ移って10年も経たず、寛永3(1626)年に夫の忠刻が死去し、千姫は本多家を出て江戸に移り、出家して「天樹院」と名乗りました。その後、70歳で亡くなるまで江戸で過ごしたそうです。

結婚にあたって、夫の本多忠刻には化粧料として父・本多忠政とは別に播磨に10万石が与えられたそうです。波乱の人生を歩むことになった千姫にとって、ここ姫路で過ごした10年足らずの日々がもっとも穏やかで幸せな時間だったのかもしれません。

男山八幡宮

男山の山頂付近まで上ると、男山八幡宮の社殿が佇んでいました。

男山からの眺め

男山の山頂は姫路市の配水池が設けられていて、姫路市配水池公園として整備されています。公園からは姫路の街並みと姫路城を眺めることができました。

古代の『播磨国風土記』の伝説、そして、波乱の人生を歩むことになった千姫。姫路城北西の小利木町から男山へと歩くと、姫路の街が積み重ねてきた歴史を辿っているようでした。

これからの季節、姫路城や千姫の小径は桜で彩られます。お花見と合わせて、史跡を巡り、姫路の歴史に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

小利木町と男山を歩いて(前編)

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季節を先取りしたような暖かい日が続く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

山陽姫路駅から北へ歩くと、姫路城が佇んでいます。
多くの観光客が訪れていて、かつての賑わいを取り戻しつつあるようです。

千姫の小径

姫路城の西側、外堀を兼ねる船場川と中濠の間に伸びる遊歩道があります。こちらは「千姫の小径」と呼ばれています。この遊歩道は白鷺橋から姫路城の北西の清水橋付近まで伸びています。お堀と姫路城の木々に囲まれた遊歩道は気持ちがよく、これからの季節の散策には良さそうですね。

千姫像

市之橋の西詰には千姫の像が佇んでいました。

千姫は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室でした。豊臣家が滅亡した慶長20(1615)年の大坂夏の陣のでは落城する大坂城から救出され、後に桑名藩主・本多忠政の嫡男の本多忠刻と結婚します。元和3(1617)年に本多家が姫路へ転封されたのに伴なって千姫も姫路へ移り、「播磨姫君」と呼ばれるようになりました。

材木町の街並み

ここで「千姫の小径」ではなく、船場川沿いの街中を歩いてみることにしました。この辺りは「材木町」「小利木町」といった地名です。市之橋の南側には舟入川があり、一帯は材木を始めとした物資の集まる町でし。小利木町の地名は「木”こり”」「”き”(木)」を合わせたのが由来とも言われています。

森家住宅

風情ある虫籠窓を持つのは「森家住宅」です。建てられたのは明治19(1886)年ですが町家の風情を今に残す趣のある建物ですね。こちらは姫路市の都市景観重要建築物に指定されています。

城下町の風情を今に残す姫路城北西、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

古代駅家の地・太市を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路市の太市を歩いてみたいと思います。

太市の街並み

破磐神社から太市の集落の中を歩くことにしました。歴史ある地域だけあって、街並みにも趣があります。

専光寺

集落を歩いていると姫新線の線路沿いに出ました。線路沿いに佇んでいたのは専光寺です。大きくはありませんが、姫新線の車窓からもよく見えて印象的な寺院ですね。ここ太市は古墳も多く、この専光寺の奥の山々にある西脇古墳群をはじめ、古墳群が点在しています。

邑智駅家跡

上郡への県道を渡り、南側の集落を歩いていると邑智駅家跡と刻まれた石碑がありました。

古代の山陽道は奈良時代に整備され、姫路から西では現在の姫新線に近いルートを経てから相生市の北側を通って上郡へと向かっていました。律令国家では駅制と呼ばれる通信のための交通制度が整備されていて、街道には駅家(うまや)と呼ばれる中継施設が設けられていました。古代山陽道に設けられていた駅家の一つがここ太市にあったとされる邑智駅家(おおちうまや)です。

邑智駅家?

律令国家の衰退とともに駅制も機能しないようになり、各地に設けられていた駅家は消えていきました。ここ太市の駅家も現在では跡形もありません。のちに近世にかけて整備された西国街道は太市の南側を経由し、太市に宿場が置かれることもありませんでした。太市で行われた発掘調査では、邑智駅家のものと考えられる瓦や建物の跡などが発見されているようです。

太市を眺めて

太市を眺めてみると、冬空の下にのどかな田園風景が広がっていました。はるか古代、この辺りにはたくさんの馬が置かれ、休憩施設などが整備された「駅」があったのでしょうか。

太市は間もなく名産のタケノコの季節を迎えます。「姿は京都山城・味は姫路太市」と評される太市のタケノコを楽しみながら、田園地帯に眠る古代の遺跡や伝説に彩られた町を楽しんでみてはいかがでしょうか。

古代駅家の地・太市を訪ねて(前編)

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寒さの中に春を感じることが増えたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

太市駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーに乗り換えて着いたのは太市駅です。

太市駅の駅舎

太市駅自体は無人駅ですが、地元企業の本社ビルを兼ねた駅舎があり、一階ではカフェやこの地の特産のタケノコを使った商品などを販売する店が設けられていました。

姫路や龍野といった歴史ある町に囲まれている中で太市は決して目立つわけではありませんが、その歴史は非常に古く、奈良時代初めに記された『播磨国風土記』には既にその名前があると言われています。風土記によれば、応神天皇がこの地を訪れ、山に囲まれた狭いところと聞いていたのにまことは「大内」であると言ったことから、「大内」と呼ばれるようになったとされています。その他に邑智(おおち)、大市、於布智、於保知などとと書かれることもあったようですが、現在の「太市」の表記が使われるようになった時期は分かっていないようです。

破磐神社の鳥居

駅から北側へ歩くと、田んぼの中に鳥居が佇んでいました。破磐神社(はばんじんじゃ)の鳥居です。

破磐神社

山の麓に佇んでいたのは破磐神社です。

太市が古い歴史があるのと同じように、ここ破磐神社も長い歴史を持っています。伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途、麻生山(山陽電車白浜の宮駅とJR御着駅の間にある山)から三本の矢を射ました。一本目は的形、二本目は姫路市の辻井、そして、三本目はここ太市に落ちたそうです(的形には神功皇后にまつわる別の矢落伝説があり、三本の矢が落ちた場所にも諸説があります…)。太市に落ちた矢は大岩に当たって岩を三つに割ったそうで、これを吉兆として矢を祀る祠を建てたのが破磐神社の始まりとされています。その岩は神社の南西の山の中に今もあり「破磐の大磐」として今もご神体とされています。かつては神社も大磐と同じ山の中にあったそうですが、祭礼の際の利便を図るために集落に近い現在の場所へ移されたとのこと。

破磐神社の境内

山の麓の神社の境内は広々としていました。特に祭礼でもないのに多くの参拝客がいるのに驚きましたが、どうやら、神秘的な創建伝説のおかげなのか、現在ではパワースポットとして注目されているそうです。

のどかな景色の中に長い歴史を持つスポットが佇む太市、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

網干・魚吹八幡神社を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、網干の魚吹八幡神社と周辺を歩いてみたいと思います。

魚吹津構跡碑

魚吹八幡神社から住宅地の合間の細い道を東へ歩くと小さなお堂が現れました。お堂の傍らには「魚吹津構跡」の石碑が立っています。

魚吹津構跡

お堂の近くの新しい住宅の建ち並ぶ一角に水路がありました。

魚吹津構は網干の東側にあった英賀城の出城のような城郭でした。別名「津の宮城」と呼ばれているそうです。この城が築かれた時期は詳しくわかっていませんが、15世紀末頃には城郭のようなものがあったようです。しかし、この城も秀吉が天正8(1580)年に英賀城を攻めた際に落城しました。中世に消えた城ですが、今も水路に囲まれた扇状の土地に城の名残が見られます。

魚吹八幡神社大鳥居

魚吹津構跡から神社の前を通り過ぎ、今度は西側へ歩いてみることにしました。石畳の参道に大鳥居がそびえています。魚吹八幡神社は山陽沿線でも大きな神社です。この正月には多くの初詣の参拝客で賑わったのでしょうね。

魚吹八幡神社御旅所

西側へ歩くと、住宅の合間に広場のような空間がありました。こちらは魚吹八幡神社の御旅所で、「西の馬場」とも呼ばれています。秋の例大祭の際は屋台・檀尻・獅子舞がこの広場に集まり、大変な賑わいになるそうです。昨年も屋台練りなどは開催されなかったそうですが、再びこの広場に賑わいが戻ることを祈りたいですね。

渡神殿

広い御旅所の中に佇むのは渡神殿です。こちらの社の傍には「おたら池」という聖池があったそうですが、今は池の姿はありません。

再び魚吹八幡神社へ

再び魚吹八幡神社の前へ戻りました。

網干と言えば浜側の街並みが知られていますが、内陸にも由緒ある古社だけでなく、中世の城郭の名残も感じることのできる景色が広がっています。雪の季節が続きますが、春に向けて、網干に注目してみてはいかがでしょうか。

網干・魚吹八幡神社を訪ねて(前編)

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小正月を過ぎて、正月気分も薄れたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽網干駅

飾磨駅から網干線の電車で着いたのは山陽網干駅
山陽電車の西端です。

網干の景色

網干の街は山陽網干駅の浜側一帯に広がっています。一方で山側へ向かうと住宅地と田畑の広がるのどかな景色です。

住宅地の中の楼門

住宅地の向こうに立派な楼門が見えてきました。こちらは魚吹(うすき)八幡神社の楼門です。

魚吹八幡神社の楼門

そびえたつ楼門は圧倒されるような大きさです。こちらの楼門は兵庫県の文化財に指定されています。

魚吹八幡神社は長い歴史を持った神社ですが、その創建には諸説あるそうではっきりとした時期は分かっていません。伝説では、はるか古代の神功皇后3(202)年、三韓征伐の際に神功皇后宇須伎津(うすきつ)と呼ばれたこの場所へ立ち寄り、社を建立したのが始まりとされています。平安時代の末に京都の石清水八幡宮の別宮となって今のように魚吹八幡神社と呼ばれるようになりました。

魚吹八幡神社の境内

境内は広く、鬱蒼とした木々に守られているような空間が広がっていました。もとの社殿は戦国時代の天正4(1576)年に兵火によって焼失し、現在の社殿は江戸時代初めの正保2(1645)年に再建されたものです。趣のある本殿は楼門とともに県の文化財に指定されています。

徳寿院

神社の隣には寺院がありました。こちらは徳寿院という真言宗の寺院です。神社と比べると小ぢんまりとしていますが、もともとは魚吹八幡神社の神宮寺として建立された寺院です。江戸時代までは八幡神社の境内にありましたが、明治時代に入って等覚院というやはり八幡神社の神宮寺だった寺院の跡地のこの場所へ移転しました。「カエル寺」とも呼ばれているようで、確かに境内はカエルの置物がたくさんあり、楽しそうな雰囲気ですね。

田園地帯に佇む歴史ある神社。魚吹八幡神社とその周辺をもう少し歩いてみたいと思います。

城南・総社への道(後編)

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新年明けましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします

播磨国総社

新年最初に訪れたのは姫路の「播磨国総社」こと射楯兵主神社です。

総社の境内

提灯が飾られた境内はお正月の装いです。三が日には大変な混雑だったようですが、まだまだ賑わっていますね。はるか平安時代の創建とされる射楯兵主神社では20年に一度の三ツ山大祭と60年に一度の一ツ山大祭が知られています。ちょうどこのブログがスタートした時は第二十二回三ツ山大祭が執り行われていました。

正法寺

さて、前回訪ねた赤鹿稲荷神社から北へ、ちょうど総社の南東辺りに差し掛かりました。街中に佇んでいるのは正法寺です。もともとは別所の佐土にありましたが、天正9(1581)年に総社の西門あたりへ移り、池田輝政の城下町整備の際に現在の場所へ移されました。この正法寺が面する通りに沿って寺院が集められたため、通りを「寺町筋」と呼ぶようになりました。

善導寺

交通量の多い城南線を越えた先にも寺町筋は続いています。住宅地の中で目立つ大きな寺院は善導寺です。

善導寺の境内

広い境内には巨大な本堂が佇んでいました。

善導寺は平安時代の寛仁元(1017)年の創建と伝わる古刹です。広い境内からも由緒ある寺院であることを感じさせます。もともとは姫路城の東側、現在は姫路医療センターや姫路東高校のある「梛本(なぎもと)」という地区にあり、梛寺(なぎでら)と呼ばれたそうです。しかし、輝政の改築の際に梛本地区自体が城内に含まれることになったために現在の場所に移されました。ちなみに、この梛本には射楯兵主神社もありましたが、こちらは善導寺の少し前の天正9(1581)年、秀吉の姫路城改修の際に現在の場所へ移されています。

再び総社へ

善導寺から再び総社へ戻りました。参道にそびえる石鳥居は江戸時代前期に姫路藩主を務めた榊原忠次の寄進です。総社もまた、歴代の城主の寄進を受けて発展してきました。姫路の城下町の中心ともいえる城南を歩くと、歴代の城主の足跡を感じることができるようです。

年末にもご紹介しましたが、「せっつ・はりま歴史さんぽ」は今年で10年目となります。引き続き山陽電車沿線(とそのほかのエリアも)巡り、ご紹介していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

城南・総社への道(前編)

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年の瀬も押し迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大手前通りと姫路城

山陽姫路駅で山陽電車を降りると、駅前から続くのは大手前通り
冬らしい天気の空の下、姫路城が日差しを浴びて輝いています。

長源寺

大手前通りから街中に入ると、長源寺がありました。普通のビルのように街中に溶け込んでいますが、由緒ある寺院で、もとは男山山麓にあった「長彦寺(ちょうげんじ)」という寺院が池田輝政が城下町を整備した際にこの地へ移ったそうです。明治元(1968)年に無住の寺院となりましたが、大正時代に復興され、現在に至っています。

長壁神社

長源寺に隣接して佇んでいたのが長壁神社です。

長壁神社に祀られている刑部大神は古くから姫路城のある姫山の神として祀られていて、歴代の姫路城主はとても大切にしてきました。姫路城大天守最上階にもこちらと同じ刑部大神を祀る刑部神社があります。ちなみにこちらの長壁神社はもともと長源寺に祀られていましたが、大正時代に長源寺が復興する際に境内を折半して寺院と神社とで分かれることになったようです。

城南の町並み

大手前通りを渡って東側へ出てみました。昔ながらの住宅地の中にマンションがそびえる光景は賑やかな駅前の景色とは違った趣を感じます。

幡念寺

住宅の中にあったのは幡念寺です。池田輝政の城下町整備の際にこの地に創建された寺院で、輝政が姫路へ移封される前に城主を務めていた三河国吉田(今の豊橋市)に今もある悟真寺という寺院の海牛和尚なる人物によって開かれたとされています。

赤鹿稲荷神社

幡念寺から住宅地を歩くと、小さな神社がありました。こちらは赤鹿稲荷神社です。先日訪れた城北の八代にも同じ名前の神社がありましたが、こちらはその赤鹿神社から分霊して姫路城内に祀られていた神社です。池田氏が造営した別荘・御茶屋に隣接してあった赤鹿神社を池田氏に代わって城主を務めるようになった酒井忠恭が城内へ移転させようとしましたが赤鹿氏の反対を受けてやむなく分霊を城内に祀ったと言われています。神社は明治に入って城内からこの近くの北条口へ移されて戦後に現在の場所へ移られました。決して境内は大きくありませんが、歴史ある神社だけあって境内には趣を感じます。

城南を巡りながら北の播磨国総社を目指していましたが、今年の更新はここまで。続きは年明けとさせていただきます。

本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきましてありがとうございました。来年2023年はこのブログのスタートから10年となる節目の年となります。来年もよろしくお願いいたします。

それでは、どうぞよいお年をお迎えください。