せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

えびす祭と兵庫津・柳原を歩いて(前編)

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新年あけましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします

柳原えびす

遅くなってしまいましたが、今年の散策を始めることにしました。
まだお正月気分が残る中、神戸高速線の大開駅から歩いて着いたのは兵庫区の西柳原町です。
JR兵庫駅にほど近い場所に鎮座しているのは「柳原えびす」こと柳原蛭子神社(やなぎわらひるこじんじゃ)です。

十日えびす

柳原蛭子神社が特に賑わうのは正月明けの1月9日から11日まで「十日えびす大祭」です。訪れたときは祭りを間近に控えて境内に色鮮やかな提灯が飾られていました。

兵庫県でえびす神社と言えば西宮の西宮神社が知られています。もともと蛭子神はイザナギ・イザナミの最初の子が不具の子であったために葦の船に乗せられて流されたものとされ、船が流れ着いた先で海の神となりました。のちに蛭子神は農業や商業の神としてまつられるようになり、えびす神を商業の神として信仰するえびす講が広まるようになりました。

柳原蛭子神社の境内

柳原蛭子神社の境内も色とりどりの提灯で飾られていました。

現在、阪神間を中心に1月10日や15日頃に行われている「十日えびす」はえびす講の親交の広まりの中で10月や1月におこなわれるようになったえびす祭が変化していったといわれています。ここ柳原に蛭子神社が建立された時期ははっきりとわかっていませんが、江戸時代初め頃には神社があったという記録があり、神社がある兵庫の街が発展するとともに「十日えびす大祭」も執り行われるようになったとされています。

福海寺

柳原蛭子神社の北側の道はかつての西国街道です。かつての街道を挟んで佇んでいたのは「柳原大黒天」こと福海寺です。大黒天を安置するこちらの寺では「十日えびす」と同じ期間に大黒祭が執り行われ、多くの参拝客で賑わいます。

「十日えびす」で賑わう柳原をもう少し歩いてみることにしました。

年の瀬の舞子を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて舞子を歩いてみたいと思います。

明石藩舞子台場跡

舞子公園から海沿いを西へ歩くと、石畳の一角がありました。こちらは明石藩舞子台場跡です。「台場」と言えば東京のお台場がよく知られていますが、こちらは幕末の文久3(1863)年に明石藩が勝海舟の指導を受けて築いた台場です。対岸の淡路島の松帆にも阿波藩松帆台場が設けられ、二つの台場が対となって明石海峡の防衛を担っていました。現在では小公園のように整備されているほか、発掘調査で出土した石垣を見学できるようになっています。

舞子延命地蔵

舞子台場跡から国道沿いに歩くと、大きな地蔵がありました。こちらは舞子延命地蔵で、木槌でお地蔵さんの台座をたたくとご利益があるという伝説があることから、「たたき地蔵」とも呼ばれています。

舞子六神社

国道から分かれる細い道はかつての西国街道で、街道沿いには西舞子地区の街並みが続いています。地区の真ん中にあったのが舞子六神社です。

舞子六神社の境内

松の木が美しい境内は夕日に染まりつつありました。

舞子六神社の創建時期は分かっていませんが、元禄2(1689)年に遡ることができるとも言われています。現在は舞子公園駅の周辺が舞子の中心となっていますが、山田村と呼ばれたかつては山陽電車の西舞子駅周辺のこの辺りが地域の中心でした。江戸時代の中頃に山田村の鎮守として神社を建立したのが舞子六神社の始まりではないかと言われています。

戎社・大黒社

境内の隅にあった小さな祠は戎社と大黒社です。祠よりも目立つのが巨大な大黒神と恵比寿神の石像で、日本一の石像と言われています。もとは舞子の東の歌敷山にあり、現在は愛徳学園の敷地となっている辺りにあった邸宅の石像をこの地に移したものだそうです。年明けには初詣だけでなく境内の隅にあった小さな祠は戎社と大黒社です。

舞子公園の夕日

西舞子から舞子公園へと戻りました。
冬至に近い冬の日はちょうど海に沈もうとしていて、公園にある「夢レンズ」と夕日がちょうど重なりました。
明石海峡の美しい夕日を眺めて、舞子を後にすることにしました。

2023年の更新は今回までです。
今年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきありがとうございました。今年2023年はブログを開始して10年という節目の年でした。ここまで続けられたのも皆様のおかげで、心より感謝申し上げますとともに、今後もよろしくお願いいたします。

どうぞよいお年をお迎えください。

年の瀬の舞子を歩いて(前編)

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年末も迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

舞子公園駅

山陽電車で着いたのは舞子公園駅です。

明石海峡大橋

舞子公園で特に目立つのが明石海峡大橋ではないでしょうか。訪れたときは冬至も間近。早くも暮れかけた空の下に巨大な橋がそびえていました。

舞子の松

舞子公園への一角に松の木がモニュメント的に植えられていました。今では山手に広がる住宅地のイメージが強い舞子ですが、古くは「白砂青松」の景勝地として知られていました。特に近代には大阪や神戸に近い立地ながら風光明媚な景色を楽しめる場所として別荘が建ち並んでいました。開発によって松林も砂浜もほとんどが姿を消してしまいましたが、今も舞子公園の一部、山陽電車の浜側に松林の一部が残され、かつての風情を今に伝えています。

孫文記念館(移情閣)

海辺へと歩くと、夕日に染まりゆく空をバックに洋館が佇んでいました。こちらは「移情閣」こと孫文記念館です。

孫文記念館はもともと華僑の貿易商・呉錦堂が大正4(1915)年に建てた別荘の「松海別荘」の一部で、かつては現在の場所の山手の舞子の浜沿いにありました。別荘の主の呉が亡くなったのち、昭和3(1928)年には国道の拡幅工事に伴なって別荘の母屋は取り壊されてしまいましたが、明石海峡を行く船の目印になるとしてこの建物は残されることになりました。戦後には神戸にもゆかりのある孫文を記念する資料館として使われるようになり、明石海峡大橋の架橋に合わせてかつての場所から少し浜側に埋め立てられた現在の場所に移築されています。船の目印にもなったというだけあってとても目立つ建物で、かつて別荘地だった頃の舞子を象徴するだけでなく、今では明石海峡大橋とともに舞子のシンボルのような存在ですね。

年末の日が傾く中、もう少し舞子を歩いてみることにしました。

古城と港の地・大物を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて尼崎の大物を歩いてみたいと思います。

大物くづれ戦跡

阪神電車の大物駅の北側には「大物くづれ戦跡」の碑が佇んでいました。

所謂「大物崩れ」とは戦国時代初めの享禄4(1531)年に起こった戦いで、「両細川の乱」と呼ばれる室町幕府官僚細川氏の家督争いと室町幕府将軍の座をめぐる内乱の戦いの一つです。幕府で実権を握った細川政元が暗殺されたことをきっかけに政元の養子の細川高国と、やはり養子の細川澄元・晴元父子の間で対立が起こり、戦いは泥沼化していきました。この戦いの終わりとなったのがこの大物崩れで、高国を裏切って晴元側についた播磨守護・赤松政祐が陣を敷いていた西宮の神呪寺から中嶋(現在の大阪市北区大淀付近)の高国軍の陣を奇襲。大敗した高国は尼崎の大物城へと敗走します。しかし、大物城下には赤松軍の手が回っていて、高国はほどなく捕らえられて自害しました。20年以上にわたり泥沼状態だった戦が崩れるように終わりを告げたことから、この戦いを高国が自害した大物にちなんで「大物崩れ」と呼ぶようになったそうです。

北の口門

さて、尼崎で城と言えば思い浮かぶのは復元された模擬天守が直通特急の車窓からもよく見える尼崎城ですね。この尼崎城と大物城は同じ城なのか、実ははっきりしていません。大物駅の南側には住宅地が広がっていて、この辺りが「残念さん山本文之助」が捕らえられた尼崎城北の門のあった辺りだそうですが、何の痕跡も見当たりません。

大物主神社

住宅地の中に佇んでいたのが大物主神社です。

大物浦と呼ばれていた大物の地に城を築いたのは大物崩れで命を絶った細川高国だといわれています。といっても、築城された当時の城は砦のようなものであったと考えられています。同じ城なのかはっきりとわかっていない尼崎城と大物城ですが、位置が微妙に異なっているようで大物城は「古城」とも呼ばれていたといわれています。その古城・大物城はこの辺りにあったとのこと。築城当初は砦のようだった城を西へ西へ拡張していったのが後の尼崎城に繋がっていったということなのでしょうか。

義経辨慶隠家跡

大物主神社の境内には「義経辨慶隠家跡」と刻まれた石碑がありました。「大物崩れ」が印象的な大物ですが、前回も訪ねたようにここ大物は古くからの港町で、京都への川船と大阪湾・瀬戸内海への航路の結節点でした。平安時代、兄の源頼朝と対立して都落ちした義経弁慶とともに大物に滞在しこの場所に隠家を構え、大物浦を出る船で西へと逃れたといわれています。

大物橋跡

大物主神社から南へと歩くと、再び大物川の川跡と交わりました。川跡には「大物橋跡」という石碑が佇んでいます。今は交差点となっているこの道路はかつては橋だったのでしょう。

大物川は大物浦を行き来する船の運河としてではなく、尼崎城の外堀の役割もあったそうです。ここ大物に城が築かれ、歴史上の出来事の舞台となっていったのは姿を消してしまった川の存在があったからなのかもしれません。
緑地となったかつての川をたどりながら、大物駅へと戻ることにしました。

古城と港の地・大物を歩いて(前編)

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師走に入り年末の雰囲気を感じるようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大物駅

阪神電車の尼崎駅で直通特急から各駅停車に乗り換えて着いたのは大物駅です。
阪神本線と阪神なんば線が分かれる駅ですが、停まるのは各駅停車ばかりであまりなじみのない方が多いのではないでしょうか。

大物川緑地

駅の近くには公園や緑地がありました。地図を見ると緑地は曲がりくねりながら駅の南北に細長く続いています。こちらは大物川の跡です。

今では住宅や町工場の建ち並ぶ大物ですが、かつては「大物浦」と呼ばれた港町でした。現在は埋め立てられている大物川は上流で神崎川や淀川につながり、大阪湾を運ばれた物資がここ大物で川船に積み替えられて京都へ運ばれる物流の拠点でした。しかし、近代にかけて尼崎が工業都市として発展するにつれて汚染が進み、地盤沈下の影響で川の流れは淀んでいきました。川を浚渫して浄化する案もあったそうですが、結局埋め立てられることとなり、昭和45(1970)年に埋め立て工事が完了して川としては姿を消してしまいました。同様に埋め立てられて姿を消した川は尼崎から大阪にかけて数多くあり、緑地になっていたり橋跡が残されていたりして川の名残を見つけることができます。

残念さん山本文之助墓

公園沿いを歩いていると、「残念さんの墓」という変わった標記を見つけました。こちらは「残念さん山本文之助墓」です。山本文之助とは幕末の長州藩士で、元治元(1864)年の禁門の変の際には京都へ従軍しました。この戦いで長州藩は幕府軍に完敗し、文之助は京都から敗走します。しかし、途中の尼崎の北の口門で尼崎藩士に捕らえられ、取り調べ中に牢屋の中で「残念、残念」と言いながら自決したそうです。当時は「長州びいき」が流行っていて、尼崎藩が建てた文之助の墓は「残念さん」と呼ばれ、幕府が墓参を禁じたにも関わらず墓参者が絶えなかったそうです。現在の墓は尼崎藩の建てたものではなく、長州藩と取引のあった尼崎の商家が建てたものだそうです。

大物くづれ戦跡

「残念さんの墓」から大物駅の近くに戻りました。駅の近くには「大物くづれ戦跡」の碑がありました。ここ大物は物流の拠点だっただけではなく、戦国時代におこなわれた所謂「大物崩れ」の舞台ともなりました。

次回は戦と古城の跡をたどりながら大物を歩いてみたいと思います。

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、多田を歩いてみたいと思います。

多田神社の境内

石段を上った先の多田神社の境内は広々としていました。奥には檜皮葺の本殿がそびえています。現在の本殿は戦国時代に焼失したものを再建したものですが、それでも建てられたのは江戸時代の初めの寛文7(1667)年の建築で、歴史ある神社らしい趣があります。

前回も見てきたように多田神社は天禄元(970)年に源満仲が邸宅を築いたことが始まりとされています。確かに、猪名川を見ろす高台に位置する神社の境内はまるで砦のような雰囲気にも思えますね。ちなみに、先日訪れた妙見山に祀られる鎮宅霊符神(妙見大菩薩)は満仲の邸宅に祀られていた神像を妙見山に遷したことが始まりとされています。

満仲・頼光両公神廟

境内の奥には満仲・頼光両公の神廟がありました。満仲の息子の頼光は大江山の酒呑童子や土蜘蛛の退治の伝説で知られています。

鎌倉時代の源氏の幕府の成立によって清和源氏発祥の地とされる多田院には多数の寺坊が建てられて非常に栄えましたが、その後、将軍家の断絶やこの地を治めた「多田源氏」が没落し、次第に衰退していきました。しかし、「清和源氏発祥の地」ということは一種のブランドのようなもので、その後、多田荘園の地頭職に就いた鎌倉幕府執権の北条氏は多田院の再興に貢献しました。その後、室町幕府になっても足利将軍家の庇護を受けて発展していきます。

鬼首洗の池

境内には「鬼首洗の池」という物々しい名前の池がありました。こちらは源頼光が丹後・大江山の酒呑童子を退治して都へ戻る途中にここ多田へ立ち寄り、酒呑童子の首を洗い清めたという伝説のある池です。多田院に頼光が祀られるようになったのは北条氏による再興の頃からと言われています。

戦国時代の天正5(1577)年には織田信長の甥の織田信澄の軍勢によって火がはなたれ、本殿をはじめとした多田院の堂宇は焼失し、境内は荒廃してしまいます。しかし、江戸時代に入ると清和源氏にルーツを持つという徳川氏の大きな庇護を受けるようになって「西日光」とまで呼ばれるようになりました。

猪名川渓谷

多田神社を出て、神社の前の御社橋の上に出てみました。この辺りは「猪名川渓谷」と呼ばれていて、川を見下ろしてみると岩場が露出した荒々しい景色が広がっていました。

西日光」を眺めて

御社橋を渡って、多田神社を振り返って眺めてみました。朱塗りの橋の向こう、川を見下ろす高台に南大門を始めとした瓦葺の建物が並ぶ光景は「西日光」と呼ばれた威容を今に伝えるようです。

帰り際にもう一度、猪名川渓谷の川面を見下ろして能勢電鉄の多田駅へと戻ることにしました。

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(前編)

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紅葉の盛りも過ぎつつあり、年末が迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

多田駅

妙見山を訪ねる途中に立ち寄ったのは能勢電鉄多田駅です。

多田御社道の碑

駅前からは石畳の道が伸びていて、道路脇には「多田御社道」と刻まれた石碑が佇んでいました。

猪名川

駅前からまっすぐ伸びる道を歩いていくと、猪名川のほとりに出ました。

多田神社

猪名川沿いの住宅地の中を歩いていると、立派な石垣が現れ、急な石段の上には楼門がそびえています。こちらは多田神社です。

多田神社の歴史は非常に古く、平安時代に遡るといわれています。天禄元(970)年、清和源氏興隆の祖とされる源満仲がこの地に居館を構えて、多田院鷹尾山法華三昧寺(多田院)という寺院を建立したことが始まりとされています。現在の多田神社は神道の神社ですが、明治時代まで千年近くの間は寺院で、この周辺の地名には今も「多田院多田所町」「多田院西」のように「多田院」の名前が残されています。現在では源満仲から曾孫の義家までの五代を祀り、清和源氏発祥の地とされています。

南大門

石段を上がると南大門がそびえていました。神社になった今でも建物の呼び名には仏教寺院だった頃の名残が残されています。

次回も多田の地を歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、能勢の妙見山を歩いてみたいと思います。

信徒会館「星嶺」

紅葉の参道を歩いていると、突然ガラス張りの巨大な現代建築が現れました。こちらは能勢妙見山の信徒会館の「星嶺」という施設です。ガラス張りの外観は妙見菩薩の降臨や北極星を表現しているとのこと。通常は公開されていないようですが、月例法要や行事の際には一般の参詣客も中に入ることができるそうです。見上げるような高さで、上階からの眺めは気持ちが良さそうですね。

能勢妙見山の山門

信徒会館「星嶺」を回り込むと能勢妙見山の山門が現れました。

能勢妙見山

山門から階段を降りると能勢妙見山の境内です。妙見山の山頂から少し下った狭い平地に堂宇や売店、寺務所が建ち並んでいます。

奈良時代に開かれたこの山に鎮宅霊符神(妙見大菩薩)が祀られるようになったのは前回もご紹介したように平安時代、清和源氏の始祖とされる源(多田)満仲が邸宅に祀っていた神像をこの場所へ遷したことが始まりでした。その後、満仲の孫の源頼国はこの能勢の地を領地として能勢氏を名乗るようになります。安土桃山時代に当主をつとめた能勢頼次は本拠地だった丸山城(妙見山の北側)が織田信長の軍勢に攻め落とされたのに伴って当時は為楽山と呼ばれていた妙見山に城を築くとともに、織田方の明智光秀の配下に入りました。しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起こります。頼次は明智方につきますが羽柴秀吉に敗れ、能勢の地へと攻め込む軍勢を避けるために備前へと落ち延びていきました。

能勢妙見山の本殿

境内の一角に本殿がありました。ケーブルカーで上ってきた参詣客や登山者が列をなしてお参りをしていました。能勢妙見山は寺院ですが、神仏習合の名残が色濃く残り、こちらのお堂も「本殿」、別名「開運殿」とどこか神社風です。

本能寺の変で先祖代々所領としてきた能勢の地を失った能勢氏ですが、関ヶ原の戦いの功でこの地、能勢へ戻り、妙見山の北側の山麓に真如寺を開きました。また、妙見山上の城跡にはこの開運殿を開いて山の名前を為楽山から妙見山へ改めました。江戸時代には妙見菩薩や北極星信仰の聖地として広く知られるようになり、多くの参詣客が訪れるようになりました。山上にはかつての旅館が売店になっていたり空き家となっていたりしながら残されていて、かつての賑わいを今に伝えているようです。

能勢の山々を眺める

信徒会館「星嶺」の前へ戻り、能勢の山々や街並みを見下ろしてみました。
丹波高地の南に位置する妙見山はとても深く、どこか神々しさを感じるような気がします。深い深い山へと鉄道やケーブルカーを敷設した先人たち、そして、この場所を憩いの場として育んできたたくさん人々に思いをはせながら去りゆくケーブルカーやリフトを見送りたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、能勢の妙見山を訪ねてみたいと思います。

妙見の森リフト

妙見の森ケーブルで着いたのは妙見の森と呼ばれるエリアで、バーベキュー場などがあり、山上のちょっとした行楽地となっています。ここからは妙見の森リフトに乗り換えて山上を目指します。この妙見の森リフトも戦前に開業した当初はケーブルカーで、現在も運行されている妙見の森ケーブルが「下部線」、リフトになっている山上側が「上部線」と呼ばれていて、二本のケーブルカーを乗り継いで山上へ向かっていました。戦後に路線が復活する際、上部線は建設コストの削減のためにリフトに変更されたようです。

山上への道

紅葉を眺めながら妙見の森リフトに乗って妙見山駅に着きました。ここからは木立の中の山道で妙見山を目指します。

奈良時代に開かれ、北極星信仰の聖地として古くから信仰を集めていた能勢妙見山のアクセスには古くから「妙見街道」と呼ばれる道がありました。現在のケーブルカーとリフトを乗り継ぐルートのやや南東の初谷川に沿った道で、終盤の妙見山付近は非常に険しい道が続いています。現在ではケーブルカーとリフトが公共交通機関でのアクセスのメインですが、山上へは車道も通じていて、乗用車でもアクセスできるほか、以前は山麓の豊能町や茨木だけでなく梅田や京都からも直通のバスが運行されていました。

鳥居跡

リフトの妙見山駅から木立の中を歩いていると丸い礎石が現れました。こちらは鳥居跡です。大正14(1925)年に妙見鋼索鉄道の上部線と下部線のケーブルカーが開業すると、参拝のルートが街道からケーブルカーの駅からの道がメインとなったためこの場所にも鳥居を設けたそうです。ただし、当時の鳥居は戦時中の昭和19(1944)年にケーブルカーがいったん廃止されたさいに撤去されてしまいました。

能勢妙見山へ

木立の中を通り抜けると、休憩所や商店などが現れ、少し賑やかな雰囲気となりました。こちらは能勢妙見山の門前です。

能勢妙見山の歴史は奈良時代にさかのぼるとされています。当時は為楽山(いらくさん)と呼ばれていた妙見山に僧・行基が北辰星(北極星)を祀り、大空寺という寺院を開いたのが始まりとされています。その後、鎮宅霊符神(妙見大菩薩)を深く信仰していた源満仲が屋敷に祀っていた神像をこの山へ遷し、妙見大菩薩と北極星信仰の聖地となりました。

境内の紅葉

ちょうど紅葉の始まりの時期で、境内は鮮やかに彩られていました。

間もなくお別れとなるケーブルカーとリフトで訪ねた妙見山をもう少し歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(前編)

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そろそろ紅葉の季節を迎えるころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妙見口駅

阪急宝塚線の川西能勢口から日生中央行きの能勢電鉄に乗り換え、さらに山下駅で乗り換えて着いたのは妙見線の終点の妙見口駅です。能勢電鉄の沿線には住宅地が広がっていましたが、妙見口駅の周辺はのどかな里山が広がっています。

吉川の里

妙見口駅から歩くことにしました。道沿いには田畑が広がり、柿が実っています。

ケーブル黒川駅

妙見口駅から15分ほどで妙見の森ケーブル黒川駅に着きました。妙見口駅は大阪府豊能町ですが、歩いている間に県境を越えて、ケーブル駅があるのは兵庫県川西市です。

能勢電鉄と妙見の森ケーブルはこの先、能勢妙見山への参拝客輸送の目的で開業したのが始まりでした。妙見線が妙見駅(今の妙見口駅)まで開業したのは大正12(1923)年で、能勢電気軌道(今の能勢電鉄)と地元有志の出資する妙見鋼索鉄道のケーブルカーが開業したのは大正15(1925)年のことでした。鉄道とケーブルカーの開業で能勢の山深くにある能勢妙見山への交通アクセスは飛躍的に向上しました。しかし、太平洋戦争中の昭和19(1944)年に妙見鋼索鉄道のケーブルカーは不要不急路線として廃止。レールなどは資材として供出されてしまいました。

妙見の森ケーブル

現在の妙見の森ケーブルは戦後の昭和35(1960)年に妙見ケーブルとして復活したものですが、令和5(2023)年12月3日の営業をもって廃止となることが決まっています。別れを惜しむ人たちでケーブルは混雑していて、15分ほど並んでようやくケーブルカーに乗ることができました。

お別れの迫るケーブルカーに乗って能勢妙見山を訪ねてみたいと思います。