せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、能勢の妙見山を訪ねてみたいと思います。

妙見の森リフト

妙見の森ケーブルで着いたのは妙見の森と呼ばれるエリアで、バーベキュー場などがあり、山上のちょっとした行楽地となっています。ここからは妙見の森リフトに乗り換えて山上を目指します。この妙見の森リフトも戦前に開業した当初はケーブルカーで、現在も運行されている妙見の森ケーブルが「下部線」、リフトになっている山上側が「上部線」と呼ばれていて、二本のケーブルカーを乗り継いで山上へ向かっていました。戦後に路線が復活する際、上部線は建設コストの削減のためにリフトに変更されたようです。

山上への道

紅葉を眺めながら妙見の森リフトに乗って妙見山駅に着きました。ここからは木立の中の山道で妙見山を目指します。

奈良時代に開かれ、北極星信仰の聖地として古くから信仰を集めていた能勢妙見山のアクセスには古くから「妙見街道」と呼ばれる道がありました。現在のケーブルカーとリフトを乗り継ぐルートのやや南東の初谷川に沿った道で、終盤の妙見山付近は非常に険しい道が続いています。現在ではケーブルカーとリフトが公共交通機関でのアクセスのメインですが、山上へは車道も通じていて、乗用車でもアクセスできるほか、以前は山麓の豊能町や茨木だけでなく梅田や京都からも直通のバスが運行されていました。

鳥居跡

リフトの妙見山駅から木立の中を歩いていると丸い礎石が現れました。こちらは鳥居跡です。大正14(1925)年に妙見鋼索鉄道の上部線と下部線のケーブルカーが開業すると、参拝のルートが街道からケーブルカーの駅からの道がメインとなったためこの場所にも鳥居を設けたそうです。ただし、当時の鳥居は戦時中の昭和19(1944)年にケーブルカーがいったん廃止されたさいに撤去されてしまいました。

能勢妙見山へ

木立の中を通り抜けると、休憩所や商店などが現れ、少し賑やかな雰囲気となりました。こちらは能勢妙見山の門前です。

能勢妙見山の歴史は奈良時代にさかのぼるとされています。当時は為楽山(いらくさん)と呼ばれていた妙見山に僧・行基が北辰星(北極星)を祀り、大空寺という寺院を開いたのが始まりとされています。その後、鎮宅霊符神(妙見大菩薩)を深く信仰していた源満仲が屋敷に祀っていた神像をこの山へ遷し、妙見大菩薩と北極星信仰の聖地となりました。

境内の紅葉

ちょうど紅葉の始まりの時期で、境内は鮮やかに彩られていました。

間もなくお別れとなるケーブルカーとリフトで訪ねた妙見山をもう少し歩いてみたいと思います。

さよならケーブルカー・能勢妙見山を訪ねて(前編)

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そろそろ紅葉の季節を迎えるころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

妙見口駅

阪急宝塚線の川西能勢口から日生中央行きの能勢電鉄に乗り換え、さらに山下駅で乗り換えて着いたのは妙見線の終点の妙見口駅です。能勢電鉄の沿線には住宅地が広がっていましたが、妙見口駅の周辺はのどかな里山が広がっています。

吉川の里

妙見口駅から歩くことにしました。道沿いには田畑が広がり、柿が実っています。

ケーブル黒川駅

妙見口駅から15分ほどで妙見の森ケーブル黒川駅に着きました。妙見口駅は大阪府豊能町ですが、歩いている間に県境を越えて、ケーブル駅があるのは兵庫県川西市です。

能勢電鉄と妙見の森ケーブルはこの先、能勢妙見山への参拝客輸送の目的で開業したのが始まりでした。妙見線が妙見駅(今の妙見口駅)まで開業したのは大正12(1923)年で、能勢電気軌道(今の能勢電鉄)と地元有志の出資する妙見鋼索鉄道のケーブルカーが開業したのは大正15(1925)年のことでした。鉄道とケーブルカーの開業で能勢の山深くにある能勢妙見山への交通アクセスは飛躍的に向上しました。しかし、太平洋戦争中の昭和19(1944)年に妙見鋼索鉄道のケーブルカーは不要不急路線として廃止。レールなどは資材として供出されてしまいました。

妙見の森ケーブル

現在の妙見の森ケーブルは戦後の昭和35(1960)年に妙見ケーブルとして復活したものですが、令和5(2023)年12月3日の営業をもって廃止となることが決まっています。別れを惜しむ人たちでケーブルは混雑していて、15分ほど並んでようやくケーブルカーに乗ることができました。

お別れの迫るケーブルカーに乗って能勢妙見山を訪ねてみたいと思います。

秋の深まる下山手を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸の下山手を歩いてみたいと思います。

旧ハッサム邸

公開されていた旧ハッサム邸宅には秋の日差しが差し込んでいました。かつての小寺邸は神戸大空襲によって焼失してしまいましたが、このハッサム邸の西側の現在は迎賓館「THE SORAKUEN」になっている辺りに建っていたようです。

日本庭園

旧ハッサム邸を出て、日本庭園を歩いてみることにしました。木々が色づき始めた園内は秋らしい雰囲気で、結婚写真の撮影もおこなわれていました。

船屋形

池に面して佇む不思議な形の建物は船屋形です。

船屋形はその名の通り元々は船の一部だったものを改造した建物です。もとは江戸時代に姫路藩で使われていた川御座船で、藩主が川で遊覧する際に使われていたとのこと。幕末には飾磨港に泊め置かれていましたが、明治時代に入ると屋形の部分だけが陸揚げされて建物として使われるようになり、船としての機能は失われました。その後、所有者が移り変わり、戦前の昭和14(1939)年には舞子の民家の敷地内に移築されました。この民家も神戸淡路鳴門自動車道の建設により現存していませんが、この船屋形は歴史的価値が認められ保存のために神戸市へ寄贈され、昭和55(1980)年にここ相楽園へ移築されてかつての華麗な姿が復元されました。

船屋形と紅葉

春慶塗と黒漆塗で塗られて金の金具が輝く船屋形が少し早い紅葉の日本庭園に佇んでいました。船屋形も、先ほど訪ねた旧ハッサム邸も、もとからこの場所にあったわけではありませんが、不思議と景色に調和しているように見えます。

相楽園を歩く

神戸で財を成した小寺家の邸宅跡は美しい庭園に神戸にゆかりのある建物が建ち並ぶ公園となっていました。今では兵庫県公館とともに都会のオアシスのような空間です。これからの季節、神戸の街の真ん中とは思えないような紅葉に彩られることでしょう。神戸の都心でも紅葉狩りを楽しんでみてはいかがでしょうか。

秋の深まる下山手を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の下山手を歩いてみたいと思います。

蘇鉄園

兵庫県公館から歩いて訪ねたのは相楽園です。
立派な門を潜った先には蘇鉄の林で、突然現れたどこか南国風の景色に驚いてしまいます。相楽園はかつて別名「蘇鉄園」と呼ばれていました。

旧小寺家厩舎

蘇鉄林から奥へと進むと、レンガ造りの建物が姿を現しました。
こちらは旧小寺家厩舎です。

現在は神戸市の管理する公園となっている相楽園ですが、元々は三田藩の藩士だった小寺泰次郎の邸宅でした。三田藩の足軽だった小寺は当時の藩主・九鬼隆義に取り立てられて藩士となり、幕末を迎えます。当時の三田藩は経済的に困窮していて、藩士を救うために小寺は藩主の九鬼隆義、白洲次郎の祖父で同じく三田藩士だった白洲退蔵とともに開港地・神戸で「志摩三商会」という貿易商社を設立しました。ちなみに、この社名の「志摩」は九鬼家の先祖の水軍が拠点としていた志摩国、「三」は三田に因んで名づけられたそうです。志摩三商会の事業は大成功し、小寺はこの場所に大きな屋敷を構えるようになりました。

旧ハッサム邸

園内の奥には洋館が佇んでいました。こちらは旧ハッサム邸です。その名の通りインド系イギリス人貿易商だったJ.K.ハッサムなる人物の邸宅で、もとからこの場所にあったわけではなく、神戸市が北野にあった異人館の寄贈を受けて戦後この地へ移築したものです。園内の広大な土地には本来、小寺家の邸宅がありましたが、先ほど訪ねた厩舎以外は昭和20(1945)年の神戸大空襲で焼失してしまいました。

旧ハッサム邸の内部

旧ハッサム邸の内部が公開されていたので見学してみることにしました。
この建物が北野で建てられたのは明治35(1902)年のことで、今でも名建築としてこの地に保存されています。2階へ上がると庭園へ向いたテラスに向かって大きな窓が配置されていて、秋の柔らかい日差しが差し込んでいました。

神戸の街中とは思えない緑あふれる空間の相楽園、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

秋の深まる下山手を歩いて(前編)

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10月末が近づき、秋の深まりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

県庁前駅

神戸市営地下鉄西神山手線で着いたのは緑に囲まれた県庁前駅です。繁華街・三宮から一駅ですが、駅の周辺は行政機関の庁舎やマンションなどが建ち並び、都心にありながらどこか閑静な雰囲気です。

兵庫県公館

県庁前駅のすぐそば、木々に囲まれて佇むのが兵庫県公館です。

兵庫県公館の正面

立派な門の横から公館の前庭へと進みました。木々の合間から、風格ある建物が姿を現します。

現在は兵庫県公館として兵庫県の迎賓館や県政資料館として使用されているこちらの建物ですが、もとは兵庫県の県庁舎として建てられたものです。明治維新で兵庫県が設置されたのは慶応4・明治元(1868)年のことでした。当時の県域は現在の兵庫県のような広大なものではなく、現在の兵庫区やその周辺の旧幕府領がそのまま兵庫県になったもので、県庁は旧大坂町奉行所兵庫勤番所に置かれました。こちらは現在、「初代県庁館」として当時の建物が復元されています。その後、県域の変遷に伴い、県庁舎は兵庫から神戸の山手へと移転します。そして、4代目の県庁舎として建てられたのが今の兵庫県公館でした。

兵庫県公館を見上げて

木々に囲まれた兵庫県公館を見上げてみます。こちらの建物は昭和20(1945)年の神戸大空襲で内部を焼失しましたが、戦後に復旧工事が施されて昭和58(1983)年まで現役の庁舎として使用されてきました。その後、改修工事を経て、現在の兵庫県公館となりました。

相楽園

兵庫県公館を出て、さらに山手へ向かいます。住宅地の中に立派な門が佇んでいました。こちらは相楽園です。

次回は相楽園を訪ねて、秋の神戸の山手を歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、尼崎の寺町を歩いてみたいと思います。

広徳寺

江戸時代には20もの寺院が建ち並んでいた寺町ですが、移転した寺院や廃寺となった寺院があったことから、現在残っているのは11の寺院です。その一つがこちらの広徳寺です。元は大物にあったのがここ寺町へ移った寺院です。本能寺の変の際、秀吉が「中国大返し」で京都へ戻る途中に逃げ込み、僧侶に変装したという伝説が残されています。

大覚寺

広徳寺から寺町をさらに進むと、山門が立派な大覚寺がありました。石畳が敷き詰められている大覚寺の境内は思ったよりも広々としています。

大覚寺は尼崎市内では最古の寺院といわれ、創建は推古天皇13(605)年にさかのぼり、聖徳太子が百済の日羅上人なる高僧に命じて開いたとされています。元の場所は「長洲の浦」と呼ばれた現在の大物でしたが、やはり、尼崎城の築城にあたって寺町が整備された際にこの場所へ移されています。大物に寺院があった頃、室町幕府の二代将軍の足利義詮が大覚寺に拠点を置いたことがあり、「大覚寺城」とも呼ばれていました。大物にあった頃の寺院は残されていませんが、城郭のような姿だったのかもしれませんね。それにしても、由緒ある寺院が隣り合って並ぶ寺町はどこか独特の雰囲気がありますね。

長遠寺

広い境内を持つのが長遠寺です。

長遠寺の境内

山門をくぐると、立派な本堂がそびえていました。こちらの長遠寺も南北朝時代の観応元(1350)年の建立と伝わる古刹で、もとは大物駅近くの東本町にあったのが移転したものです。

境内の妙見宮

歴史ある寺院のせいか、寺院にもかかわらず境内には妙見宮があり、鳥居と社殿もありました。こうした神仏習合の名残を見つけるのは私個人的な楽しみの一つです。

長遠寺多宝塔

長遠寺で印象的なのが多宝塔です。境内の堂宇の多くは江戸時代の移転後に建てられたものですが、こちらの多宝塔はかつての境内から移築されたものだそうです。空模様は生憎でしたが、南北朝時代の様式を残すとされる多宝塔が秋の空に向かってそびえていました。

尼崎城を眺めて

寺町を歩いた後、阪神尼崎駅の方へと戻って復元された尼崎城を眺めてみました。位置や建物の様式は本来の尼崎城と異なるそうですが、阪神電車からもよく見えるお城のおかげで尼崎に城下町のイメージが定着してきたようです。一方、尼崎城の築城で生まれた寺町はかつての城下町の風情を感じる街並みが残されています。尼崎城と併せて寺町を訪ねれば、より城下町としての尼崎の姿が見えてくるのではないでしょうか。

尼崎・寺町を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎を歩いてみたいと思います。

本興寺

尼崎の市街地に続く寺町に入ってすぐに佇むのが本興寺です。

本興寺の境内

本興寺は寺町の中心的な寺院で、広々とした境内には本堂だけでなく塔頭寺院が建ち並んでいます。

本興寺は室町時代初めの応永27(1420)年の日隆上人の開祖と伝わる古刹で、法華宗の四大本山とされています。もとは今の場所から少し東側の大物の若宮神社の社領地にありましたが、江戸時代の元和3(1617)年に元の場所に尼崎城が築城されることとなったために現在の場所へ移っています。同時に近隣の寺院も周辺に集められ、形成されたのが現在の寺町です。

本興寺開山堂

境内の奥に佇んでいたのが開山堂です。本興寺の本堂は江戸時代に焼失したのを再建したもので、他の建物も多くは現在の場所へ移転した後に建てられたものですが、この開山堂は諸説があるようですが、創建時の建立か室町時代の末の永禄元(1558)年に建立されたものを寺の移転に伴って移改築したものです。堂内には日隆上人の像が安置されています。

本興寺の境内

渡り廊下が巡る本興寺の境内は街中とは思えないような風情でした。
境内を秋の風が吹き渡っていきます。

風情ある尼崎の寺町をもう少し歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(前編)

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急に気温が下がり、秋らしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神尼崎駅

直通特急を下りたのは阪神電車の尼崎駅です。
工業都市・尼崎の南の中心で、駅の周辺にはホテルや商業施設、マンションなどが建ち並んでいます。

尼崎中央商店街

尼崎駅の北側には飲食店などが建ち並び、にぎやかな雰囲気です。

尼崎中央商店街の中を歩く

尼崎のトピックスといえば、阪神タイガースの優勝でしょうか。
駅前から続く尼崎中央商店街では阪神タイガース関連の装飾があふれていました。

現在は大阪湾岸に工業地帯を抱える工業都市や住宅地のイメージのある尼崎ですが、かつては城下町でした。大阪湾に面したデルタ洲に尼崎城の城郭が築かれたのは江戸時代初めの元和3(1617)年のこと。大坂夏の陣の功で近江膳所から移った城主・戸田氏鉄の手によるものでした。城があったのは現在の復元天守の位置から少し離れた阪神電車尼崎車庫の南側で、庄下川大物川、そして大阪湾に囲まれてまるで海に浮かぶ城のようだったと言われています。そして、築城の当初は城を取り囲むように東西、そして、南側に城下町が広がっていました。城下町も多くが川に囲まれたデルタ洲の上に作られていて、町全体が水に浮かんでいるような姿に見えたのかもしれません。

大本山本興寺

賑わう阪神尼崎駅の北側に対して、南側はマンションや住宅が多く、落ち着いた雰囲気です。駅の南東側にはかつて江戸時代に築かれた尼崎城があり、この辺りは城下町でした。尼崎城があった付近には平成30(2018)年に模擬天守が復元されています。
駅から南へ歩くと、道路沿いに「大本山 本興寺」と刻まれた石碑がありました。この辺りは城下町の西側で築城前から別所村という集落がある地域でした。

寺町

角を曲がった先には駅前のビル街からがらりと変わった雰囲気でした。
この辺りは寺町と呼ばれる地域です。

次回、もう少し尼崎を歩いてみたいと思います。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、明石の東二見駅周辺を歩いてみたいと思います。

御厨神社参道

弘法大師の霊水から少し歩いたところに海から内陸へと真っすぐに伸びる道がありました。「御厨神社」「三神宮」とあるように、こちらは御厨神社の参道です。

御厨神社

道の先にあったのは御厨神社(みくりやじんじゃ)です。

御厨神社の境内

御厨神社の境内は広々としていました。神社の上には秋の空が広がっています。

広く風格のある境内からも感じられるように、東二見の御厨神社は長い歴史を持った古社です。古い資料は焼失してしまったそうで詳しい創建時期は分かっていないそうですが、伝説では神功皇后の三韓征伐にさかのぼるとも言われています。この地の沖合の二見浦に船を停泊させて兵糧を集めた際に、住民が食物を奉ったのがこの場所といわれています。神饌を調進する場所という意味の「御厨」という名前もこの伝説に因んでいるとされていますが、諸説があるようです。

御厨神社の本殿

広い境内の奥には本殿が佇んでいました。

現在は東二見の街中にある御厨神社ですが、かつてはもう少し海沿いの二見漁港にも近い君貢神社の位置にあったと言われています。君貢神社の位置にあった頃には九州・太宰府へ向かう菅原道真が神社に立ち寄って宿泊し、近くの丘を「仮寝の岡」と呼ぶようになったという伝説があります。「卯ノ花ノ森」と呼ばれる現在の位置に移ったのは平安時代の長暦年間(1037~1040年)とのこと。ちなみに、参道の入り口の石碑に刻まれていた「三神宮」は元々の神社に道真の縁あって勧請された天満宮と平安時代に勧請された八幡宮の三つの社を示しています。

楼門から眺めて

楼門越しに南側、参道の方を眺めてみました。現在、御厨神社から海は見えませんが、沿岸が埋め立てられる以前は最初に訪れた参道の入り口のすぐ近くにまで浜が迫っていました。そうした海に近い立地もあって、海運業や漁業に関する参拝者が多いそうで、拝殿には船を描いた絵馬が飾られていました。

来月10月には山陽鉄道フェスティバルが開催されることとなり、注目される東二見。駅から少し足を延ばして、播磨灘の海の幸で栄えた港町の風情が今も残る街並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、東二見を歩いてみたいと思います。

東二見の町並み

引き続き、東二見の町を歩いていくことにします。
入り組んだ路地に趣きのある建物が残る街並みからは播磨灘の漁業で賑わった当時の面影を感じることが出来るようでした。

京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神

東二見の町を歩いていくと、住宅地の路地に立派な松の木がそびえ立っていました。松の木の下のは二つの小さな社があり、それぞれ京極稲荷大明神・山野口稲荷大明神という名前だそうです。

薬師寺

松の木の近くには寺院がありました。こちらは薬師寺で、「原の薬師さん」と呼ばれて地域では親しまれています。

弘法大師の霊水

薬師寺の傍には川沿いに一段下がった空間があり、お地蔵さんが立っていました。こちらは「弘法大師の霊水」と呼ばれる湧き水です。

伝説では、村人が水に困っていたところ、この地を訪ねた弘法大師が地面を錫杖で突くと水が湧き出したそうです。この湧き水は干ばつでも枯れることがなく、今も千年以上にわたって湧き出し続けているとのこと。また、この湧き水を傍の水かけ地蔵に掛けると願いが叶うとも言われています。

松の木が見守る霊水

霊水の傍にも立派な松の木がそびえたっていて、まるで湧き水を見守っているのかのようでした。

昔ながらの町並みに松の木が印象的な東二見をもう少し歩いてみたいと思います。