せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

手苅丘の麓・手柄を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、手柄を歩いてみたいと思います。

生矢神社

船場川沿いに歩いていると、大きな神社がありました。こちらは生矢神社です。

生矢神社は名前からもわかるようにはるか古代、神功皇后の三韓征伐の際に現在の白浜の宮駅北側の麻生山から放たれた三本の矢の一本が落ちた場所とされています。これまでに訪ねてきた太市の破盤神社の割れ岩、余部の矢落の森、安室辻井の生矢神社的形と同じような伝説が伝わる地の一つです。

生矢神社の境内

手柄山の南麓に佇む神社の境内は広々としていました。

創建時は「行箭社」やこの辺りの地名「三和山」にちなんで「三和社」と呼ばれていたこの神社ですが、平安時代には平清盛が厳島へ向かう際にこの地へ立ち寄り霊夢を感じたことからこの社を「生屋大明神」として祀ったそうです。その後、江戸時代には清盛の十六代孫という関永重なる人物がこの地の代官職を務めるようになり、清盛ゆかりのこの神社の社殿を再建し、整備したそうです。以来、歴代の藩主からの寄進を受けるなどして広大な社領を持つ神社となりました。近代に入り、市街地として整備される中で社領は現在の規模になりましたが、それでも手柄山の山麓に佇む姿には歴史を感じることができます。

袖ぐみ地蔵

生矢神社から手柄山の麓を西へ歩くと、袖ぐみ地蔵がありました。地蔵堂の前ではまだ桜の花が残っていて、春の日が差し込んで幻想的な光景でした。

三和寺

手柄山の麓に佇んでいたのが三和寺(さんなじ)です。

三和寺の境内

山の麓の境内は緑に包まれるようでした。こちらは江戸時代に盤珪和尚の高弟の祖什という僧侶が再興したと伝わっています。盤珪和尚といえば網干の龍門寺を創建した僧侶ですね。生矢神社と同じく歴代の姫路藩主から信仰された寺院ですが、今は春の緑の中に静かに佇んでいました。

船場川と手柄山

船場川に架かる橋から手柄山を眺めてみました。現在は姫路市民の憩いの場の公園となっている手柄山ですが、風土記の時代にまで遡り、周辺に目を向けると歴史あるスポットが集まっているのが意外にも感じました。

私自身が気になって訪ね歩いていた姫路の矢落伝説の地も一回りしました。射られた矢は三本のはずなのに伝説がこんなに多く残されているのは不思議ですが、いずれ新しいことがわかるのかもしれませんし、伝説は伝説のまま、私たちの心を癒して楽しませてくれるのかもしれません。
そんなことを思いながら、春の終わりの手柄を後にしました。