こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて別府を歩いてみたいと思います。
別府駅の山側に伸びる別府鉄道野口線の廃線跡は「松風こみち」として遊歩道に整備されています。鉄道が廃止されたのは昭和59(1984)年で、もう40年も前になりますが、今も鉄道の雰囲気が残されています。
別府駅から山側へ向かって歩くと幹線道路の明姫幹線に差し掛かりました。現在では別府の町と一体化していますが、古い地図ではこの辺りは北別府や一色という集落で別府の町とは分かれていました。沿岸の工業地帯が発展するにつれて別府の周辺では工場で働く人々の住むための住宅地が開発され、別府駅周辺から東加古川駅周辺まで住宅地が広がるようになりました。
明姫幹線沿いにあったのが安養寺です。住宅地の中に佇む静かな寺院ですが、こちらはかつてこの地にあった一色構居という城郭の跡とされています。
ここ一色にあった一色構居は中世の城郭とされています。この城の城主の一色氏は赤松氏の一族とされていて、加古川や高砂に拠点を置いていた小松原氏の小松原時忠の三代孫の一色右馬頭時則なる人物が城主だったといわれています。ちなみに、地名や城主の苗字になっている「一色」は一色田を指し、荘園時代に一種類(一色)の税のみを納める田でした。「別府」といい、荘園の課税に関わる地名が今も一帯に残されているのが興味深いですよね。
安養寺の片隅に二基の石塔がありました。安養寺の宝篋印塔と呼ばれるこちらの石塔は室町時代初期に建てられたものと伝わっています。風雨に耐えて輪郭はおぼろげになっていますが、細かい装飾には高砂の石宝殿などに通じるこの地域の石造文化の技術を感じられるように思います。
幹線道路の明姫幹線に面し、住宅地の中にある安養寺ですが、境内はとても静かな雰囲気でした。
特急停車駅となることが決まり、今後は加古川市の副都心としてますます賑やかになる別府ですが、駅の周りには地名の由来にもなったはるか中世からの史跡が残されていました。
変わりゆく街並みを眺めながら、別府駅へと戻ることにしました。