せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

鹿児の浜松が見守る浜の宮を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、浜の宮を歩いてみたいと思います。

浜宮天神社の参道

幹線道路に面した浜宮天神社の鳥居の前に立ってみました。
左右に広がるのは「鹿児の松原」と呼ばれる松林です。会話ができないくらいの蝉時雨が降り注いでいます。

門柱?

松原の外れにコンクリートの塊が転がっていました。門柱のように見えますが…。

旧陸軍航空通信学校尾上教育隊

松林の中にはレンガの建物の基礎が残されていました。こちらは太平洋戦争中、戦争末期の昭和19(1944)年に置かれた旧陸軍航空通信学校尾上教育隊の施設の跡です。

今は住宅地が広がる浜の宮から尾上の松にかけての一帯には、戦時中、「尾上飛行場」とも呼ばれる旧陸軍加古川飛行場が開かれました。播磨灘沿岸の工業地帯の防衛のためだけでなく、戦争末期には鹿児島県にあった知覧基地へ向かう特攻隊の中継基地としても使われたそうです。一帯にはそれに関連した軍事施設が設けられ、この浜の宮もその一つでした。松林の中には通信兵を教育する尾上教育隊の兵舎だけでなく、グラウンドや集会所、陸軍病院などもありました。戦後の一時期、兵舎は浜の宮中学校の校舎として使われていたそうですが、今は取り壊されてしまい、跡地は浜の宮公園や浜の宮中学校となりました。一部の建物の基礎はこうして松林の中に残されています。

階段の跡

公園の中には階段が残されていました。
尾上教育隊の施設は姿を消し、加古川飛行場も住宅や商業施設となり、今は残されていません。終戦から80年近くになろうとしている今、戦争の時代は遠い昔のようにも感じますが、今と変わらないコンクリート造りのこうした設備の残骸を見ると、戦争の時代を少し身近なものに感じるような気がします。

浜の宮公園

松林の向こうには浜の宮公園の市民プールが広がっています。楽しい施設と戦争の遺跡が隣り合っている光景にはいろいろと感じるものがありますね。

今の平和な時代に感謝しながら、蝉時雨の降り注ぐ浜の宮を後にすることにしました。

鹿児の浜松が見守る浜の宮を歩いて(前編)

投稿日:


夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

浜の宮駅

今回、山陽電車で降りたのは浜の宮駅です。
小さな駅に蝉時雨が降り注いでいます。

浜宮天神社

駅から住宅地を歩くと、神社がありました。
こちらは浜宮天神社です。

浜宮天神社の境内

住宅地の中の神社ですが、浜宮天神社の境内は広く歴史と由緒がある神社であること感じさせます。

浜宮天神社はその名の通り、菅原道真を祀る神社です。
伝説では、道真が大宰府へ左遷される延喜元(901)年にこの場所で休息した際に海上の平穏と万民の幸福を祈願して松を植えたことが由来とされています。中世には多くの社領を持つ神社として大いに栄えたとのこと。

鹿児の浜松

境内には道真が植えた「鹿児の浜松」が生い茂っています。こちらの松は近世には「播州松めぐり」の一つに数えられるほどの名松でしたが、明治時代に枯れてしまい、現在の松は二代目です。

加古の松原
天神社の参道沿いに続くのは「加古の松原」と呼ばれる松林です。立派な松の木が隙間なく生い茂る光景には圧倒されてしまいそうですね。

はるか古代からの神社と松林が見守る浜の宮ですが、ここには別の歴史もあります。
次回ももう少し浜の宮を歩いてみたいと思います。

五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、加西の北条を歩いてみたいと思います。

住吉神社

酒見明神
を祀る住吉神社を後にします。

羅漢寺

住吉神社の北側にあるのは羅漢寺です。もとは酒見寺の境内の一部でしたが、明治時代に別の寺院に分かれました。

北条の五百羅漢

境内には「北条の五百羅漢」と呼ばれる石仏群があります。それぞれ表情の異なる石仏が数多く立ち並ぶ光景は迫力がありますね。

先ほど見てきましたように、この羅漢寺は元は酒見寺の一部でした。この五百羅漢を誰がいつ何の目的で作ったのかははっきりとはわかっていませんが、調査では江戸時代の初めのものとされ、酒見寺が再建された頃に作られたと考えられています。戦国時代の天正年間に、この辺りは戦乱に巻き込まれ酒見寺は焼失し多くの犠牲者が出ました。そうした人々を弔うために作られたのではないかとも言われています。

小谷城を眺める

羅漢寺のすぐ北側を通る中国道をくぐると、のどかな田園地帯が広がりました。正面の山には小谷城(こだにじょう)という城がありました。

小谷城が築かれたのは室町時代の応永年間頃と言われていて、代々赤松氏が城主をつとめていました。赤松氏は酒見寺や住吉神社の門前町があった北条に「古市場」を開き、「田舎なれども北条は都、月に六斎市が立つ」と謳われるほど繁栄したそうです。

夏の五百羅漢

羅漢寺に戻り、五百羅漢を眺めます。
夏の日差しの差し込む境内には蝉時雨が降り注いでいました。

中世に繁栄したものの、戦国時代に兵火に焼かれた北条ですが、五百羅漢に見守られながら交通の要衝として発展していきました。
また大変な状況となりましたが、状況が落ち着きましたら、播磨平野に佇む街をたずねてみてはいかがでしょうか。

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五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加西の北条を歩いてみたいと思います。

但馬街道の景色

北条の街中には趣のある景色が広がっています。この道はかつての但馬街道で、北条から市川沿いに出て、生野峠を越えて豊岡へとつながっていました。今でも北条の町の北側には中国道が通っていて、福崎で播但連絡道路と接続し、但馬方面へとつながっています。今も但馬への経路であることは変わりませんね。

酒見寺

旧街道沿いに立派な仁王門がありました。こちらは酒見寺(さがみじ)です。

酒見寺は奈良時代の天平17(745)年にこの地を訪れた行基酒見明神の神託を受けて建立したと伝わる古刹です。聖武天皇の勅願寺とされ、平安時代から勅旨の参詣が毎年行われるなど朝廷の帰依もあって、広く信仰を集める寺院となりました。北条が宿場町として発展するのは近世に入ってからですが、それ以前の中世にかけて、この酒見寺の門前町が広がっていたそうです。

酒見寺の境内

仁王門をくぐると、二層屋根の本堂へと参道が伸びていました。両側には青銅の灯篭が立ち並んでいます。

酒見寺多宝塔

境内にあったのは鮮やかに彩られた多宝塔です。奈良時代の建立とされる酒見寺ですが、二度焼失していて、現在の伽藍は戦国時代に焼失したものを江戸時代に当時の姫路城主・池田輝政により再興されたものです。こちらの多宝塔も江戸時代初めの寛文2(1662)年に建立されたものとされています。

石橋

境内の西側には小さな池と古風な石橋がありました。

住吉神社

石橋を渡った向こうは住吉神社という神社です。こちらは酒見寺よりも古く、現在の場所に社が建てられたのは養老元(717)年とされています。住吉三神だけでなく、酒見明神を祀り、古くには「酒見大明神」「酒見社」と呼ばれていました。行基が神託を受けたのもこの酒見明神からですね。酒見寺は建立後、この住吉神社の別当をつとめるなど、深い関係にあり、近世にはともに池田輝政の庇護も受けて繁栄することとなりました。

街道の宿場町として栄えた北条ですが、それ以前にも町としての広がりがありました。
次回、もう少し北条の歴史をさかのぼってみたいと思います。

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五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(前編)

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夏の盛りだというのに雨の続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

北条町駅

神戸電鉄粟生線の粟生から北条鉄道に乗り換えて、終点の北条町に着きました。
駅前は加西市の中心の北条地区で、商業施設や商店が建ち並び、賑やかな雰囲気です。

北条町

北条町駅の周辺は真新しい建物が建ち並び市街地の雰囲気ですが、少し歩くと小さな商店や民家が建ち並ぶ昔ながらの雰囲気が広がります。この辺りは加西市に合併される前の北条町の中心で、明治22(1889)年の町村制施行の時、周辺が「村」だったにも関わらず北条町として発足していました。

北条の宿

歩いていくと趣のある街並みが続きます。

播磨平野にある北条は古くから栄えた街でした。近世には京都と山陰を結ぶ南北の街道と東西の街道がこの地で交わり、宿場町として繁栄するとともに、市場が設けられて、人と物がまさに交通の要衝でした。今に残る街並みを眺めていると、当時の繁栄が今に伝わるようです。

大日堂

街中の交差点には趣のあるお堂が佇んでいました。

商家街

大日堂の周辺には「旧家の街並み」とされ、今も立派な建物が残されています。この北条に集まる物資の取引で、とても栄えたのでしょうね。

宿場町として栄えた北条ですが、これだけの町が形成されたのはそれだけではありません。
次回はもう少し北条の町を歩いてみたいと思います。

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荒井・小松原を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、荒井を歩いてみたいと思います。

洗川緑道

街中を歩いていると遊歩道が現れました。こちらは洗川緑道です。今は埋め立てられていますが、その名の通り、かつてこの場所には南洗川という川が流れていました。今の住宅が建ち並ぶ景色が広がっていますが、かつてのこの辺りは加古川の支流の北洗川と南洗川、法華山谷川が作るデルタ洲が広がっていました。水利、そして、水運に恵まれた土地であったせいでしょうか、古くから栄えていたと伝わっています。

三社大神社

緑道を外れて街中を歩いていると大きな神社がありました。こちらは三社大神社です。

小松原城の碑

境内には石碑がありました。この地にはかつて、小松原城と呼ばれる城がありました。

小松原城を小松原盛忠なる赤松一族の人物が築いたのは弘長元(1262)年のこと。デルタ洲の頂点に位置したこの地は天然の要害で、この辺りの地域を支配する拠点となったそうです。城郭と集落を取り囲むように堀が築かれ、大規模な環濠城郭集落が形成されたとされていて代々小松原氏の城として使われていたそうですが、いつの頃か廃城となり、跡地は住宅地となりました。今では城の面影はありませんが、堀をそのまま埋め立てた道路や入り組んだ住宅地に城跡の雰囲気を感じることができます。

大福寺

三社大神社に隣接してあるのが大福寺です。この辺りも小松原城の城郭の中心であったとされています。この寺には小松原盛忠を祀る十三重層の石塔があります。

御所殿神社

三社大神社から入り組んだ住宅地の中を歩いていくと小さな神社がありました。こちらは御所殿神社です。

先ほど見てきたように、この辺りは多くの川によってデルタ洲が作られていました。その一つだったとされるのが南批都麻島(なびつまじま)です。この南批都麻島に生まれた美女が印南別嬢で、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とも呼ばれ景行天皇の妻となった人物でした。この御所殿神社には印南別嬢が祀られています。はるか古代、景行天皇は大和からここ播磨の地を訪れて印南別嬢を妻として迎えたと伝わっています。前回訪ねた荒井神社とともに、この地域の古い歴史を感じる神社です。なお、印南別嬢の墓は加古川を遡った日岡に建立されたと言われていて、日岡神社近くの日岡陵古墳であると言われています。

神社前の池

神社の前には緑色の水が張られた池がありました。こちらの池の底からは弥生時代の高坏が見つかったそうで、小さな池にはるか古代のロマンを感じることができますね。

工業地帯の山側に静かな住宅地の広がる荒井。街中にははるか古代へ遡る史跡が眠っていました。まだまだ厳しい状況が続きますが、お近くのスポットをたずねてみてはいかがでしょうか。

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荒井・小松原を歩いて(前編)

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梅雨の中に夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

荒井駅

梅雨の雨の中、山陽電車で訪れたのは荒井駅です。
工業地帯の真ん中にあり、通勤客で賑わう駅ですが、日中はひっそりとした雰囲気でした。

荒井の街並み

工場が建ち並ぶ浜側に対し、山側には住宅地が広がっています。旧道沿いの家々は新しいものになっていますが、曲がった道に古い道の雰囲気を感じることができます。

荒井神社

荒井の街の中にあったのが荒井神社です。

荒井神社の楼門

荒井神社で印象的なのはこちらの楼門です。

荒井神社ははるか古代の舒明天皇元(629)年に遡るとされています。山陰の出雲から渡ってきた氏族がこの地を開き、大己貴神(大黒様)を祀ったのが始まりとされています。境内の保育園の名前は「白兎愛育園」といい、なぜ播磨で「白兎」と思ってしまいますが、出雲や大黒様に関わる歴史を考えると納得ですね。

荒井神社の境内

雨の降り続ける荒井神社の境内。
あいにくの天気なのは残念ですが、もう少し荒井を歩いてみたいと思います。

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伊保崎を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊保崎を歩いてみたいと思います。

延寿寺の境内

延寿寺の境内は緑があふれ、広々としていました。

寺の街の景色

延寿寺を出るとこんな景色。白い塀が続く景色はどこか奈良や京都のような雰囲気を感じます。古い地図でもこの辺りには寺院が集まっていて、小さな寺町のような雰囲気だったのかもしれません。

真浄寺

延寿寺のすぐそばにあったのが真浄寺です。
こちらも延寿寺と並び、伊保崎の町を見守ってきた寺院ですが、こちらは併設された保育園が目立ちます。

網堂

さらに伊保崎の街中を歩いていると現れたのは小さなお堂の網堂です。

先日訪れた播磨の善光寺こと時光寺時光上人なる人物が創建したとされています。この時光上人はもともと源経家と名乗る武士で鎌倉幕府に仕えていましたが、寛元元(1243)年に出家しました。経家は摂津の寺院を経てここ伊保崎村にあった心光寺で修業を積むこととなります。その心光寺があったのが、この網堂であるとされています。

網堂の境内

住宅地の中に佇む網堂には春の穏やかな日差しが差し込んでいました。

のちに廃寺となった心光寺の跡地には、時光上人が時光寺の阿弥陀如来像を海中から引き上げた際に使った網が埋められ、その名も「網堂」と呼ばれるお堂が築かれました。ちなみに、このお堂の中には古墳時代の石棺の蓋石に室町時代に地蔵立像を刻んだ石棺仏が納められています。

法華山谷川

網堂から少し歩くと法華山谷川に出ました。

住宅地の中に眠る史跡は、古くからこの地の物流を支えたこの川があったからこそ生まれたものだったのでしょうか。また大変な世の中となってしまいましたが、今こそ、身近なスポットに目を向けてみる機会なのかもしれません。

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伊保崎を歩く(前編)

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木々にも若葉が萌出るこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

伊保駅

山陽電車で着いたのは伊保駅
この時は「山陽電車×山陽バス×神戸市交通局 つながるヘッドマークSNSキャンペーン」のヘッドマーク掲出電車がまだ運行をしていました。三社局のキャラクターがデザインされたヘッドマークは賑やかで楽しいですね。

伊保の街並み

伊保駅を出ると伊保の街並みが続きます。もともとの伊保の街は今の駅前の北東に広がり、法華谷川の対岸の今市や中島などの集落と合わせて伊保村を形成していました。

伊保を行く

かつての伊保の集落に入ると、狭い路地が続きます。

現在は住宅が広がっている伊保ですが、中世には「伊保荘」と呼ばれる荘園でしたが、近世には法華谷川と洗川の河口に近いことを生かして特産の竜山石を始めとした物資を運ぶ舟運の拠点となり、栄えたと言われています。法華谷川の対岸は幕領でやはり舟運で栄えた今市で、法華谷川はきっとたくさんの船が行きかい、今では考えられないくらいに賑やかだったのでしょうね。

延寿寺

伊保の街中に鐘楼の載った門が印象的な寺院がありました。
こちらは延寿寺です。古い地図にも寺院が記されていて、地域の中心的な寺院だったのでしょう。

静かな住宅地になった伊保ですが、長い歴史を持った町です。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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播磨の善光寺と山陽道・高砂市阿弥陀を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、高砂の阿弥陀を歩いてみたいと思います。

薬師堂

街道沿いを歩いていると薬師堂がありました。江戸時代に建立されたというお堂で、街道の風情を残す町並みに溶け込むように佇んでいました。

時光寺

住宅地を歩いていくと、趣のある山門が姿を現しました。
こちらは時光寺です。

時光寺の境内

趣のある山門をもつだけあって、時光寺の境内は広々としていました。

時光寺は鎌倉時代の建長元(1249)年の創建と伝わっています。時光上人なる人物が阿弥陀如来を海中から引き揚げ、堂宇を創建したのが始まりとされています。この阿弥陀如来像は一体で見つかったわけではなく、二見から阿閇・高砂・福泊・妻鹿…と色々なところから頭や足が引き揚げられたという話が伝わっています。ただし、この時、右手だけは見つからなかったそうで、魚を救うために右手は海中に残ったままといわれています。

戦後記念大仏

境内には戦後記念大仏がありました。なお、ここでいう「戦後」は太平洋戦争ではなく、日露戦争を指します。

もともとは曽根天満宮の西側にあった時光寺ですが、のちに文永10(1273)年に今の場所へ移りました。この時、北原の宿と呼ばれていたこの地を「阿弥陀の宿」と呼ぶように改められたそうです。不思議なありがたい地名はこの時光寺に由来していたのですね。ちなみに、この時光寺は「播磨の善光寺」とも呼ばれていて、この寺に三回参拝すれば信州・善光寺に一回参拝したのと同じご利益があると言われています。

時光寺を眺める

静かな時光寺の境内を眺めてみます。

不思議な地名の街に佇む時光寺。「播磨の善光寺」と呼ばれるだけでなく、不思議な伝説に彩られた古刹でした。これからの気候の良い季節、電車に乗って訪ねてみてはいかがでしょうか。なお、お出かけの際は十分な感染症対策をお願いします。

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