せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山陽沿線ブログ終了のお知らせ

平素より山陽沿線ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
当ブログは、読者の皆さまに支えられ、長期間にわたり更新を続けてまいりましたが、
このたび12月末日をもちまして終了させていただきました。
今後とも山陽電車をご愛顧賜りますよう、お願い申しあげます。

加古川の副都心へ・別府を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて別府を歩いてみたいと思います。

松風こみち

別府駅の山側に伸びる別府鉄道野口線の廃線跡は「松風こみち」として遊歩道に整備されています。鉄道が廃止されたのは昭和59(1984)年で、もう40年も前になりますが、今も鉄道の雰囲気が残されています。

一色

別府駅から山側へ向かって歩くと幹線道路の明姫幹線に差し掛かりました。現在では別府の町と一体化していますが、古い地図ではこの辺りは北別府一色という集落で別府の町とは分かれていました。沿岸の工業地帯が発展するにつれて別府の周辺では工場で働く人々の住むための住宅地が開発され、別府駅周辺から東加古川駅周辺まで住宅地が広がるようになりました。

一色構居

明姫幹線沿いにあったのが安養寺です。住宅地の中に佇む静かな寺院ですが、こちらはかつてこの地にあった一色構居という城郭の跡とされています。

ここ一色にあった一色構居は中世の城郭とされています。この城の城主の一色氏は赤松氏の一族とされていて、加古川や高砂に拠点を置いていた小松原氏の小松原時忠の三代孫の一色右馬頭時則なる人物が城主だったといわれています。ちなみに、地名や城主の苗字になっている「一色」一色田を指し、荘園時代に一種類(一色)の税のみを納める田でした。「別府」といい、荘園の課税に関わる地名が今も一帯に残されているのが興味深いですよね。

安養寺の宝篋印塔

安養寺の片隅に二基の石塔がありました。安養寺の宝篋印塔と呼ばれるこちらの石塔は室町時代初期に建てられたものと伝わっています。風雨に耐えて輪郭はおぼろげになっていますが、細かい装飾には高砂の石宝殿などに通じるこの地域の石造文化の技術を感じられるように思います。

安養寺の境内

幹線道路の明姫幹線に面し、住宅地の中にある安養寺ですが、境内はとても静かな雰囲気でした。

特急停車駅となることが決まり、今後は加古川市の副都心としてますます賑やかになる別府ですが、駅の周りには地名の由来にもなったはるか中世からの史跡が残されていました。

変わりゆく街並みを眺めながら、別府駅へと戻ることにしました。

加古川の副都心へ・別府を歩いて(前編)

投稿日:


例年になく暑さが残りますが、少しずつ木々も色づいて季節の移り変わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

別府駅

山陽電車で着いたのは別府駅です。

ホーム延伸工事中

別府駅は2025年以降に特急停車駅となる予定で、高架上にある駅ではホームの延伸工事が進められていました。

別府といえば温泉地である大分県の地名を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ただし、ここ加古川の別府の読み方は「べふ」です。平安時代から鎌倉時代にかけて、開墾地など特定の土地に特例的に支配や徴税を認めるために国府などから徴税に関して別納の免符を交付された地域があり、別納免符を略して「別符」といっていました。この地は阿閇の村が別納免符を交付されていた開拓であったことから「別符」、そして、「別府」と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、大分県の温泉地の別府市も、その他の地域にある「別府(べっぷ・べふ・びゅう)」も多くは同様の由来です。

別府駅前の街並み

現在は普通車とS特急が停まるのみの別府駅ですが、駅前には大きな商業施設があり、飲食店なども建ち並んでいてとても賑やかな雰囲気です。

そんな歴史からわかるように、別府は農村と播磨灘に面した港町でしたが、近代に入り、別府出身の多木久米次郎が今の多木化学となる多木製肥所を創業し、ここ別府で人工肥料の生産を開始しました。さらに、戦後には神戸製鋼所加古川製鉄所が操業を開始し、一帯は一大工業地域となりました。そして、工業地域に隣接した別府は人口が急激に増加しました。多木化学の工場は後に移転し、現在は商業施設となっていますが、こちらの商業施設も周辺の買い物需要を取り込み、別府はさらに発展することとなりました。

別府鉄道跡

別府駅の山側に向かって歩くと、道路に斜めに交差する遊歩道がありました。こちらはかつてこの地を走っていた別府鉄道の廃線跡です。多木化学の工場で生産された肥料を運搬する目的で国鉄高砂線の野口・山陽本線の土山のそれぞれから別府へと敷設された鉄道で、旅客輸送もおこなっていました。鉄道があった当時の別府はまだのどかな雰囲気が残っていたようですが、現在は住宅や商店が建ち並ぶ市街地となっています。主力の貨物の取り扱い終了で別府鉄道も廃線となりましたが、今も残っていれば、通勤輸送で賑わっていたのかもしれませんね。

大きく変化しつつある別府をもう少し歩いてみたいと思います。

宿場町と毛織物・加古川を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川を歩いてみたいと思います。

称名寺

西国街道沿いに続く寺家町を外れて、南側へ出てみました。町中に佇むのは称名寺です。

称名寺の境内

加古川のシンボルでもある銀杏の木が立つ境内には蝉時雨が降り注いでいました。

称名寺自体は聖徳太子の創建と伝わる古刹で中世に加古川を治めた糟谷氏の菩提寺でした。それだけでなく、現在称名寺が建つ場所はかつて糟谷氏の居城の加古川城があった場所とされています。古くから東播地域を治める拠点であっただけでなく、安土桃山時代の天正5(1577)年、中国の毛利氏征伐のためにここ加古川へ入った羽柴秀吉が諸国城主を集めて開いた軍議「加古川評定」が行われた場所でもあります。この加古川評定の結果、別所氏三木城は秀吉軍の攻撃を受けて落城し、その後近世にかけて、三木は明石藩の領地となりました。そんな出来事を考えると、ここ加古川は東播地域の歴史が動いた場所だったのかもしれませんね。

ニッケパークタウン

称名寺とは逆に寺家町の北側に出てみると、巨大な商業施設が広がっていました。こちらは「ニッケパークタウン」です。量販店や飲食店の入る現代らしい商業施設ですが、かつてこの場所には日本毛織の加古川事業所がありました。

日本毛織は明治29(1896)年に創業された毛織物のメーカーです。明治32(1899)年にここ加古川で加古川事業所を操業させ、加古川を毛織物の一大産地とさせました。ちなみに、創業者の川西清兵衛は毛織物業で得た利益をもとに鉄道事業にも参画します。それが、のちに山陽電車となる兵庫電気軌道でした。近世までは宿場町や行政都市だった加古川は日本毛織の企業城下町へと変化していきました。

加古川日本毛織社宅建築群

ニッケパークタウンの西側、ちょうど称名寺の裏手辺りを訪ねると、古めかしい町家群が現れました。こちらは加古川日本毛織社宅建築群、日本毛織加古川事業所で働いていた社員たちの社宅の跡です。

加古川日本毛織社宅建築群は明治時代からの住宅が残された街並みです。人気のない趣のある建物群はどこか不思議な雰囲気が漂っていました。部屋数の多い建物を眺めていると、かつては多くの住人で賑わっていたことを偲ばせるようですね。街中に残る洋館は明治時代に毛織織物の技術を伝えた「お雇い外国人」の住居で、加古川市内では珍しい異人館です。多くの社員が働いていた日本毛織加古川事業所ですが、昭和51(1976)年に工場は加古川対岸の印南工場へ合併され、跡地は先ほど眺めてきた商業施設となっています。

加古川日本毛織社宅建築群を眺めて

砂利道に板壁の続く加古川日本毛織社宅建築群を眺めてみました。工場は加古川対岸となりましたが、今もこの周辺には日本毛織関連の施設が建ち並び、企業城下町の雰囲気が残されています。そんな中でこの街並みが残されているのはやはり不思議な気がしますが、こんな雰囲気の景色を静かに眺められるのは貴重な場所なのかもしれません。

宿場町から企業城下町へとあり様を変えながらも賑わってきた加古川、お買い物の際に少し歩いてみてはいかがでしょうか。

宿場町と毛織物・加古川を歩いて(前編)

投稿日:


夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

加古川駅

山陽明石駅から乗り換えて着いたのは加古川駅です。
駅前には真夏の厳しい日差しが降り注いでいました。

加古川の街並み

整然とした街並みの加古川駅前ですが、駅から少し離れると歴史を感じる街並みが続いています。現在の加古川は東播磨の中核都市ですが、元々の加古川は西国街道の宿場町のひとつでした。

寺家町

かつての西国街道には寺家町という商店街が続いています。

加古川の宿場町の歴史は非常に古く、はるか古代へ遡ります。「賀古駅」と呼ばれた元々の加古川の宿駅は加古川駅から南東の野口にありましたが、中世の「賀古川宿」は野口から北西、加古川の渡しに近くへと移ったとされています。近世には西国街道の拠点となる宿場町として栄え、加古川の畔から現在の加古川駅付近まで宿場町の街並みが続いていたようです。その中でも、宿場の中心として賑わったのは現在も商店街が残る寺家町だったそうで、現在も、寺家町には趣のある建物が残されています。

黒壁の旧家

寺家町の商店街の中に特に風格のある建物が残されていました。「黒壁の旧家」と呼ばれるこちらは現在は使われていないようですが、立派な造りは宿場町のかつての賑わいを今に伝えるようです。

陣屋

商店街の外れに「陣屋」と書かれた人形店がありました。こちらは屋号の通り、姫路藩が加古川宿に置いた役所の陣屋跡にあるお店です。外からはよくわかりませんが、陣屋の建物は現存しているようで、内部に入ると当時の面影が残されているようです。

西国街道の宿場町として栄えた加古川をもう少し歩いてみたいと思います。

印南野台地の西・野口を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川の野口を歩いてみたいと思います。

旧西国街道

五社宮野口神社から旧西国街道をさらに西へと歩くことにしました。
夏の青空の下にのどかな景色が続いていました。

野口城跡

住宅の合間に野口城跡と書かれた看板を見つけました。

野口城はかつて野口神社の境内一帯にあった城で、城主は三木・別所氏の与力を務めていた長井長重という人物でした。周囲を沼地に囲まれた要害で「播州一ノ名城」とも言われた城でしたが、天正6(1578)年、三木合戦で播磨へ進軍した羽柴秀吉に攻め落とされました。この時、城を守る沼地は秀吉の手により三日三晩にわたって麦や草木で埋め立てられてしまい、激しい戦いの末に落城したそうです。

教信寺

野口城跡の近くに立派な寺院がありました。こちらは教信寺です。

教信寺の境内

広い境内には桜の木々が植えられていて、春には桜の名所になるようです。

教信寺は奈良時代の末から平安時代にかけての僧・教信の開基と伝わる古刹です。奈良の興福寺の僧だった教信は全国を放浪した後に当時この地にあった西国街道の駅家・賀古駅家(かこのうまや)に庵を編んで暮らしたそうです。この庵が教信寺の始まりとされています。教信は称名念仏の先駆者とされ、教信の教えは後の時代の僧たちに大きな影響を与えました。教信ゆかりのこの寺は浄土宗や浄土真宗の関係者から広く信仰を集め、室町時代には13の堂宇と48の僧坊を抱える大寺院となりましたが、天正6(1578)年、近隣の野口城とともに秀吉の攻撃を受けて大伽藍は焼失してしまいました。現在の堂宇は江戸時代までに復興したもので、本堂は幕末に焼失したものを明治時代に書写山圓教寺の念仏道場を移築して再建したものだそうです。

駅ヶ池

教信寺を出て国道2号線を渡った先に池がありました。駅ヶ池という名前のこちらの池は教信が造成したため池だと伝わっています。この池の造成の他にも教信は西国街道をゆく旅人の荷物運びの手伝いや農作業の手伝いをしながら、人々や家族とともにここ賀古の里で過ごしたそうです。そうした姿が親鸞や一遍といった後の高僧たちにも影響を与えたとも言われています。

教信が造成した頃と変わらない姿なのでしょうか、ため池は水草に覆われながらも豊かな水を貯え、印南野台地の西の田畑を潤しているようでした。

印南野台地の西・野口を歩いて(前編)

投稿日:


まだまだ暑さが続いていますが秋を感じることが多くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

東加古川駅

明石駅から山陽本線の電車に乗り換えて着いたのは東加古川駅です。
新快速は停まりませんが、駅の周りは商店や飲食店、ビルが建ち並び、少し賑やかな雰囲気です。

旧西国街道

東加古川駅から少し歩くとどこかのどかな雰囲気の住宅街が広がっていました。緩やかに曲がった道はかつての西国街道で、商業施設やマンションで途切れながらも町の中を通り抜けています。

街道の道標

街道沿いに「日岡神社」と刻まれた道標が佇んでいました。日岡神社はここからちょうど北の加古川沿いに鎮座する古社です。風雨でところどころ欠けた道標からは歴史を感じます。

五社宮野口神社

道標の近くに大きな神社が佇んでいました。こちらは五社宮野口神社です。

五社宮野口神社の楼門

鳥居の向こうには立派な楼門がそびえていました。訪れた時には楼門に茅の輪が設けられていました。

五社宮野口神社は江戸時代前半の慶安4(1651)年の創建で、比叡山の麓の日吉神社を分霊したと伝わっています。現在の野口神社という名前になったのは明治からで、それ以前は神仏習合の山王五社宮と呼ばれていました。明治時代に神宮寺が撤去されて、今の姿になったそうです。この地に神社が創建される以前この地には野口廃寺と呼ばれる寺院があり、境内は奈良時代にこの地にあった野口廃寺遺跡であるとされています。

五社宮野口神社の境内

五社宮野口神社の境内へ入ると、江戸時代前半の創建と伝わる本殿がそびえていました。

印南野台地の西端に位置し、段丘に沿って古くからの交通路の通るこの地は古くから開けていたようで、廃寺の遺跡だけでなく、数多くの遺跡が見つかっています。次回はもう少し野口を歩いてみたいと思います。

曽根・日笠山麓を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、曽根を歩いてみたいと思います。

霊松殿

前回もご紹介したように、曽根天満宮は平安時代に菅原道真がこの地に松を植えたことが始まりとされています。この初代・菅公手植えの松は江戸時代までこの地にあり、大木へ育ったそうです。ただ、社殿などが焼失した秀吉の播州征伐以降は衰弱しはじめ、江戸時代半ばの寛政10(1798)年に枯死してしまいました。現在の松は五代目で、初代松の幹はこちらの霊松殿に保存されています。

曽根の街並み

曽根天満宮の北側へ歩くと、昔ながらの街並みが広がっていました。この辺りはもともとの曽根の集落に当たる地区で、集落や天満宮の浜側には塩田が広がっていました。江戸時代には姫路藩領となった曽根ですが、後に幕領、そして、一橋領となりました。曽根で作られた塩はやはり幕府領だった法華山谷川沿いの今市を経て出荷されていったそうです。

旧入江家住宅

集落の中で目立つのが古くから製塩を営み、曽根の庄屋もつとめていた豪商・入江家の屋敷です。この入江家の他にも大きな屋敷が多く建ち並び、製塩で栄えた当時の賑わいを今に伝えているようです。

天川と日笠山

集落を出ると、天川の畔に出ました。川の向こうにそびえているのは桜の名所としても知られている日笠山です。曽根天満宮の始まりとなった菅原道真手植えの松ですが、一説ではこちらの日笠山に植えられたとも言われています。

住吉神社

天川を渡ると、山沿いに小さな神社が佇んでいました。こちらは住吉神社です。

黒岩十三仏

住吉神社の傍の崖に草木に覆われるような岩がありました。岩には仏像が刻まれています。「黒岩十三仏」と呼ばれるこちらの磨崖仏は今もJR曽根駅近くにある時光寺を開いた時光坊が刻んだものという伝説がありますが、仏像の左側に室町時代の年号が記された銘文が刻まれているそうで、実際は曽根の在家尼僧たちが生前供養のために刻んだものとも言われています。近世には製塩で栄え、現在は静かな住宅地となっていますが、天満宮とともに製塩で栄える以前の曽根の姿を垣間見ることができるような気がします。

日笠山と山陽電車

山陽曽根駅近くに戻りました。日笠山の麓を山陽電車が行きかっています。

塩田で栄えた街並みが今も残る曽根ですが、中世以前の伝説に彩られた史跡もあり、歴史の長さを感じることができました。これからの連休に、訪ね歩いてみてはいかがでしょうか。

曽根・日笠山麓を歩いて(前編)

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藤の花の咲く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽曽根駅

山陽電車で着いたのは山陽曽根駅です。
なぜかローマ字で大きく書かれた駅名が特徴的ですね。

曽根天満宮参道

駅前からは曽根天満宮の参道が続いています。
あいにくの曇り空ですが、新緑の季節を迎えて木々は青々としています。

山陽曽根駅近くに佇む曽根天満宮は由緒ある神社として知られています。創建時期は不明ですが、伝説では延喜元(901)年に大宰府へ流される菅原道真が伊保の港へ立ち寄り、この地に松の木を植えたのが始まりで、後に道真の四男・淳茂が播磨国へ流された際に社を建立したとされています。

曽根天満宮随神門

参道を通り抜けると曽根天満宮の随神門がそびえていました。この随神門は江戸時代の大普請がおこなわれた享保12(1717)年の建立です。銅板葺きの屋根や破風が印象的で、由緒ある神社らしい立派な門ですね。

曽根天満宮の境内

広い境内には立派な社殿が佇んでいました。創建時の社殿は戦国時代に秀吉播州征伐の時に焼失してしまい、現在に残るのは天正18(1590)年に再建されたものです。

藤の花

境内ではちょうど藤の花が見ごろでした。
爽やかな紫色の花々を眺めていると初夏の訪れを感じますね。

高砂の曽根界隈をもう少し歩いてみたいと思います。

鹿児の浜松が見守る浜の宮を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、浜の宮を歩いてみたいと思います。

浜宮天神社の参道

幹線道路に面した浜宮天神社の鳥居の前に立ってみました。
左右に広がるのは「鹿児の松原」と呼ばれる松林です。会話ができないくらいの蝉時雨が降り注いでいます。

門柱?

松原の外れにコンクリートの塊が転がっていました。門柱のように見えますが…。

旧陸軍航空通信学校尾上教育隊

松林の中にはレンガの建物の基礎が残されていました。こちらは太平洋戦争中、戦争末期の昭和19(1944)年に置かれた旧陸軍航空通信学校尾上教育隊の施設の跡です。

今は住宅地が広がる浜の宮から尾上の松にかけての一帯には、戦時中、「尾上飛行場」とも呼ばれる旧陸軍加古川飛行場が開かれました。播磨灘沿岸の工業地帯の防衛のためだけでなく、戦争末期には鹿児島県にあった知覧基地へ向かう特攻隊の中継基地としても使われたそうです。一帯にはそれに関連した軍事施設が設けられ、この浜の宮もその一つでした。松林の中には通信兵を教育する尾上教育隊の兵舎だけでなく、グラウンドや集会所、陸軍病院などもありました。戦後の一時期、兵舎は浜の宮中学校の校舎として使われていたそうですが、今は取り壊されてしまい、跡地は浜の宮公園や浜の宮中学校となりました。一部の建物の基礎はこうして松林の中に残されています。

階段の跡

公園の中には階段が残されていました。
尾上教育隊の施設は姿を消し、加古川飛行場も住宅や商業施設となり、今は残されていません。終戦から80年近くになろうとしている今、戦争の時代は遠い昔のようにも感じますが、今と変わらないコンクリート造りのこうした設備の残骸を見ると、戦争の時代を少し身近なものに感じるような気がします。

浜の宮公園

松林の向こうには浜の宮公園の市民プールが広がっています。楽しい施設と戦争の遺跡が隣り合っている光景にはいろいろと感じるものがありますね。

今の平和な時代に感謝しながら、蝉時雨の降り注ぐ浜の宮を後にすることにしました。

鹿児の浜松が見守る浜の宮を歩いて(前編)

投稿日:


夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

浜の宮駅

今回、山陽電車で降りたのは浜の宮駅です。
小さな駅に蝉時雨が降り注いでいます。

浜宮天神社

駅から住宅地を歩くと、神社がありました。
こちらは浜宮天神社です。

浜宮天神社の境内

住宅地の中の神社ですが、浜宮天神社の境内は広く歴史と由緒がある神社であること感じさせます。

浜宮天神社はその名の通り、菅原道真を祀る神社です。
伝説では、道真が大宰府へ左遷される延喜元(901)年にこの場所で休息した際に海上の平穏と万民の幸福を祈願して松を植えたことが由来とされています。中世には多くの社領を持つ神社として大いに栄えたとのこと。

鹿児の浜松

境内には道真が植えた「鹿児の浜松」が生い茂っています。こちらの松は近世には「播州松めぐり」の一つに数えられるほどの名松でしたが、明治時代に枯れてしまい、現在の松は二代目です。

加古の松原
天神社の参道沿いに続くのは「加古の松原」と呼ばれる松林です。立派な松の木が隙間なく生い茂る光景には圧倒されてしまいそうですね。

はるか古代からの神社と松林が見守る浜の宮ですが、ここには別の歴史もあります。
次回ももう少し浜の宮を歩いてみたいと思います。