せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

港町の雰囲気の街並み・東二見を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、明石の東二見駅周辺を歩いてみたいと思います。

御厨神社参道

弘法大師の霊水から少し歩いたところに海から内陸へと真っすぐに伸びる道がありました。「御厨神社」「三神宮」とあるように、こちらは御厨神社の参道です。

御厨神社

道の先にあったのは御厨神社(みくりやじんじゃ)です。

御厨神社の境内

御厨神社の境内は広々としていました。神社の上には秋の空が広がっています。

広く風格のある境内からも感じられるように、東二見の御厨神社は長い歴史を持った古社です。古い資料は焼失してしまったそうで詳しい創建時期は分かっていないそうですが、伝説では神功皇后の三韓征伐にさかのぼるとも言われています。この地の沖合の二見浦に船を停泊させて兵糧を集めた際に、住民が食物を奉ったのがこの場所といわれています。神饌を調進する場所という意味の「御厨」という名前もこの伝説に因んでいるとされていますが、諸説があるようです。

御厨神社の本殿

広い境内の奥には本殿が佇んでいました。

現在は東二見の街中にある御厨神社ですが、かつてはもう少し海沿いの二見漁港にも近い君貢神社の位置にあったと言われています。君貢神社の位置にあった頃には九州・太宰府へ向かう菅原道真が神社に立ち寄って宿泊し、近くの丘を「仮寝の岡」と呼ぶようになったという伝説があります。「卯ノ花ノ森」と呼ばれる現在の位置に移ったのは平安時代の長暦年間(1037~1040年)とのこと。ちなみに、参道の入り口の石碑に刻まれていた「三神宮」は元々の神社に道真の縁あって勧請された天満宮と平安時代に勧請された八幡宮の三つの社を示しています。

楼門から眺めて

楼門越しに南側、参道の方を眺めてみました。現在、御厨神社から海は見えませんが、沿岸が埋め立てられる以前は最初に訪れた参道の入り口のすぐ近くにまで浜が迫っていました。そうした海に近い立地もあって、海運業や漁業に関する参拝者が多いそうで、拝殿には船を描いた絵馬が飾られていました。

来月10月には山陽鉄道フェスティバルが開催されることとなり、注目される東二見。駅から少し足を延ばして、播磨灘の海の幸で栄えた港町の風情が今も残る街並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。

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