せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨灘を望む・古宮を歩く(前編)

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夏真っ盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

播磨町駅

山陽電車で到着したのは播磨町駅です。
大中遺跡最寄駅として知られていますが、今回向かうのは遺跡とは反対側の海側です。

ジョセフ・ヒコ像

駅近くの播磨町中央公民館の前にはジョセフ・ヒコの像がありました。

「新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵はかつて阿閇村と呼ばれていたここ播磨町の出身です。船乗りとして江戸へ出かけた帰途に船が難破し、太平洋を漂流していたところをアメリカ商船オークランド号に救助されサンフランシスコにたどり着きました。間もなく幕末の嘉永4(1851)年のことです。近代国家・アメリカで働くこととなり、多くの刺激を受けたヒコは安政5(1858)年にアメリカに帰化、その翌年の安政6(1859)年には開国したばかりの日本に帰国し、アメリカ領事館の職員として働くこととなりました。

良仙寺

住宅地の中を歩いていると古宮という地区に入ります。町の中には良仙寺という禅宗の寺院がありました。小さな寺院で、本堂はコンクリート造りになっていますが、この良仙寺はかつて古宮四カ寺と呼ばれた由緒ある寺院の一つです。

江戸時代の古宮は浜街道(西国下街道)に沿いに広がり、「古宮千軒」とも呼ばれるほど賑わっていました。寺院ではこの良仙寺のほかに松元寺、海禅寺、願満寺が建ち並んでいて、総称して「古宮四カ寺」と呼ばれていたそうです。江戸時代の後期には村の豊かさを背景としたからか、四カ寺の各寺院に置かれた寺子屋のほかに多くの私塾が設けられたとのことです。幼いジョセフ・ヒコもこうした寺子屋で学んだと言われていて、「古宮千軒」が「新聞の父」を育んだとでも言えるのでしょうか。

古宮の街並み

路地に入ると、漁村の雰囲気を残した街並みが続いていました。家々の合間からは青々とした播磨灘が見え隠れします。

次回も古宮を歩いてみたいと思います。

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