せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨のお城めぐり その2~佐用城

投稿日:



こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は佐用城です。
公共交通機関では、JR姫新線の佐用駅が最寄りとなります。駅から徒歩15分くらい、川沿いを歩いていると案内板が見えてきます。



案内に従って佐用城跡に到着です。
小高い丘に本丸跡と城主を祀った福原霊社があるのみです。

上月城とは異なり平山城なので、楽にみることができます。

この佐用城ですが、赤松氏の家臣である福原氏が代々城主を務めていたこともあり、福原城とも呼ばれます。

元弘3年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて、鎌倉方の総大将名越高家打ち取った佐用範家の築城と伝えられています。

福原霊社


福原氏は上月城とともに播磨に進出する織田方の大将・羽柴秀吉と敵対し、中国地方の毛利方に与します。天正5年(1577年)佐用に進んだ秀吉は黒田官兵衛と竹中半兵衛に佐用城攻めを命じました。

この際、黒田官兵衛の知略によって、城の三方を囲み、後ろの一方を開けておく孫子の兵法「囲師必けつ」によって落城させたといわれています。

そして、落命した城主・福原則尚を祀るために後世建てられたのが、福原霊社になります。

福原則尚辞世の句碑


本丸跡


本丸跡は小高い丘になっていて、南北を流れる佐用川などあたりの景色が見渡せます。

黒田官兵衛と竹中半兵衛、二兵衛が落とした佐用城に足を運んでみてください。

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播磨のお城めぐり その1~上月城

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こんにちは、玄蕃允です。

山陽姫路駅からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。
佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三つのお城を押しているようです。
今回は上月城です。
公共交通機関では、JR姫新線の上月駅が最寄りとなります。駅から徒歩10分くらいで、上月城の麓・登山口に到着です。

登山口

登山口前には資料館があります。入館は200円ですが、土日祝月しか開館してないようですので、ご注意を。

資料館


この上月城。黒田官兵衛のゆかりとしては、官兵衛の妻・光の姉が上月城主・上月景貞に嫁いだことで知られています。
上月城跡は標高322mの山頂にあり、登山口から約15分かかります。完全に山登りになるので、動きやすい服装・靴を準備してください。

堀切


堀切とは、山の尾根をそのまま敵に進まれないように掘った堀を言います。

この城は赤松氏の一族である上月景盛(かげもり)が1336年に築きました。

赤松政範の墓


戦国時代に入り、播磨平定に乗り出した織田信長方の大将・羽柴秀吉が攻撃し、1577年に城を陥落させました。その時の城主が赤松政範になります。

奪った上月城を秀吉は、出雲の守護大名であり、毛利氏に滅ぼされた尼子家の再興を目指す尼子勝久・山中鹿之助に与えます。

しかし、毛利氏も織田の中国地方進出を防ぐため、上月城再奪還を目指し、秀吉よりもはるかに多くの兵で城に攻め寄ります。秀吉は信長に援軍を要請しましたが、上月城への援軍は叶わず、落城。尼子勝久は自ら命を絶ち、山中鹿之助は捕虜となり、広島・鞆への移送中に殺されます。

尼子勝久追悼碑


それまで、播磨の領主達はは織田方に従いましたが、上月城をなかば見捨てる形となったため、一気に反感が高まり、一斉に中国地方の毛利方に従います。織田の播磨での立ち位置が逆転する契機になりました。

播磨の西端に位置したため、中国地方へ進出する織田とそれを守る毛利の板挟みとなり、半年の間に二度も落城する、悲運の城・上月城。ぜひ足を運んでみてください。



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淡路島の城下町・洲本を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、淡路島の洲本を歩いてみたいと思います。

洲本城跡からの眺め

洲本城跡からは洲本市街や遠く神戸の街並みが見渡せます。
山道でヘロヘロ汗だくですが、爽やかな景色に癒されました。

安宅氏が滅んでから、秀吉の家臣の仙石秀久が城主となり、洲本城は四国攻めの前線基地となりました。仙石秀久が軍律違反で高野山へ追放されてからは脇坂安治が城主となります。簡素な山城だった洲本城には石垣や天守閣が整備され、城としての体裁を整えていくことになりました。のちに脇坂安治は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの功績で脇坂安治が伊予大洲へ転じることになります。
江戸時代に入ってからの淡路は姫路の池田氏の領地になりますが、元和元(1615)年には阿波徳島藩蜂須賀氏の領地になり、家臣の稲田氏由良城代に任ぜられました。稲田氏は由良に城と城下町を整備するのですが、海と山に囲まれたこの地は手狭で、寛永8(1631)年には早くも洲本への移転を始めました。4年がかりで城と城下町をそのまま移したこの巨大事業は「由良引け」と呼ばれています。その後、明治維新まで稲田氏がここ洲本で淡路島を支配することになります。

下の城

山を下りて山麓を散策することに。
税務署や地裁の支部などの行政機関が建ち並ぶこのあたりは「下の城」と呼ばれ、「由良引け」後に整備された城です。山上の「上の城」はこの頃に使われなくなったとのこと。

洲本城跡碑

江戸時代の城は、いわば、市役所や県庁ですから、ひたすら山を登らなくてはならず不便な「上の城」が使われなくなったのは、当然と言ったら当然でしょうか。

大浜海岸

「下の城」から東へ向かうと松林が広がります。
こちらは大浜海岸と呼ばれる景勝地で、海辺に出てみると青々とした瀬戸内海が広がりました。大浜海岸の近くには洲本温泉の温泉街が広がり、夏場ならハモなどの海の幸を味わうことができます。

台風が来ていますが、梅雨明けももう少し。
この夏は洲本へ瀬戸内の海とともにあった城の歴史を探りに出かけてみませんか。

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淡路島の城下町・洲本を歩いて(前編)

投稿日:



まだまだ梅雨空が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽高速バス学園都市・洲本線

今回は舞子公園駅の真上にある高速舞子バス停から山陽高速バスに乗って淡路島へ。
高速バスで一時間少々、洲本市の中心にある洲本高速バスセンターに到着しました。

天守閣を見上げる

洲本は淡路島の中核都市で、「平成の大合併」で淡路市と南あわじ市が成立するまでは唯一の市でした。洲本の市街地がある地域は洲本川の流れによって形成された扇状の平野が広がり、起伏に富んでいる淡路島の中で珍しく開けています。
今回目指すのは市街地を見下ろす三熊山にある洲本城です。洲本高速バスセンターから見上げると、山の頂きに天守閣が小さく見えました。

三熊山を登る

山麓にある洲本八幡神社からはひたすら山道が続きます。
なかなかハードな登山ですが、山道の途中には洲本城の石垣があり、興味深い道中です。

洲本城は室町時代の終わりの大永6(1526)年に三好氏の家臣で紀州熊野水軍の頭領・安宅治興がこの地に城を築いたことにはじまります。当時、安宅氏は由良城(現・洲本市由良町)に本拠を置いていて、洲本城は島内8ヶ所に築いた城の一つに過ぎず、築城当初は簡素な山城であったと言われています。
この安宅氏の支配は長く続かず、天正9(1581)年、三木城を落として中国攻めの兵を進める羽柴秀吉淡路追討によってあっけなく討ち滅ぼされてしまいました。この時、城主・安宅清康を討ち取ったのが黒田官兵衛だという説があります(諸説あるようで、真相は不明です)。調略を得意とし、犠牲を最小限にして戦果を挙げる官兵衛にしては意外なエピソードですが、この安宅清康は官兵衛が自ら手をかけた数少ない人物とも言われているようです。この時に使用した刀は黒田家所縁の地・備前福岡(詳しくはこちら)の隣の備前長船で作られたもので、後に「安宅切り」と呼ばれるようになったとのこと。

山頂の城跡

高速バスセンターから30分ほどで城跡に到着。
山頂に突然、立派な石垣が現れてちょっと驚いてしまいます。
にしても、思ったより近いような…。

洲本城の模擬天守閣

意外と近い秘密は、この天守閣。
近づいてみると何だか小さい!? どうやら、遠近法を利用した単純なトリックだったようで、城自体はそれほど遠くにあるわけではなかったようです。
明治維新で洲本城は廃城となり建物は取り壊されてしまいますが、昭和3(1928)年に昭和天皇の即位を記念して鉄筋コンクリート造りの天守閣が復元されました。江戸時代までの天守閣とは異なる姿ではありますが、模擬天守閣では日本最古のものです。
戦前に模擬天守閣とはちょっと意外な気がしますが、同じ時代に、やはり昭和天皇の即位を記念して大阪城の復元天守閣が築かれたことや、東京の九段会館愛知県庁名古屋市役所、旧満州国の諸官庁等で城郭を模した近代建築(帝冠様式建築と呼ばれています)が流行したことを考えてみると、それほど不思議ではないような気もします。そんなことを考えていると、小さな模擬天守閣が急に大きく見えてきました。

山頂で一息ついてから、引き続き、城下町・洲本を巡っていきたいと思います。

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高槻城をたずねて

投稿日:



こんにちは、玄蕃允です。

今回も山陽電車から阪急電車に乗り換えて、阪急京都線のお城めぐりということで高槻城跡に行ってきました。

阪急高槻市駅から南に徒歩約10分で着きます。
キリシタン大名、高山右近のゆかりの城になります。

高槻城は別名、入江城とも呼ばれます。江戸時代の一国一城令により、摂津の国ではこの高槻城が残りました。

ちなみに明治7年に廃城となり、鉄道の東海道線が敷かれる際に石垣や木材が使われました。

石碑


高槻城は14世紀前半には記録として存在します。有名な城主はやはりキリシタン大名の高山右近ではないでしょうか。

高槻城はもともと足利幕臣の和田惟政が城主であり、高山氏もその傘下にありましたが、和田惟政が死に、その子・惟長と高山友照・右近親子が対立。和田氏を滅ぼして、高山氏が城主となりました。

城址公園


現在はきれいな公園となっています。

高山右近像


公園内には高山右近の像が立派に建っています。

天主教会堂跡


キリシタンであった高山右近は城内に天主教会堂を建て、キリスト教布教に努めました。

右近は生涯キリシタンを貫き、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出された際は信仰を守ることと引き換えに領地・財産をすべて放棄、徳川家康によるキリシタン国外追放令が出された際はそれに従い、フィリピンのマニラに行き、マニラで息を引き取りました。

高槻市立しろあと歴史館


城址公園のそばには歴史館があります。
無料で公開されていますが、展示もしっかりとしていて、一般的な資料館と遜色ありません。

キリスト教に生涯をささげた高山右近ゆかりの地である、高槻城跡にぜひ足を運んでみてください。


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茨木城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

今回も山陽電車から阪急電車に乗り換えて、阪急京都線のお城めぐりということで茨木城跡に行ってきました。
阪急茨木市駅から歩くこと10分。江戸時代の一国一城令のため茨木城は取り壊されているため、城跡を訪ねます。
城跡は現在、茨木小学校になっています。

復元された櫓門


茨木城の城主では中川清秀が有名でしょうか。

中川清秀は荒木村重の傘下で、村重の謀反の際にも当初は村重に従いますが、織田方の説得によって、高槻城主の高山右近とともに織田方に降りました。

荒木村重謀反のきっかけとなった、敵対する石山本願寺への兵糧を横流ししたのは中川清秀の家臣とする説もあるようです。
清秀がこの茨木城を大規模な城へと拡充しました。

当時の茨木城を偲ぶ遺構としては、茨木神社に城門が残っています。

茨木神社



茨木神社のはじまりは807年に坂上田村麻呂がこの地に荊切(いばらきり)の里を作った際に鎮座したとされています。この「荊切」が「茨木」の地名の由来になったともいわれています。

茨木城から移築されたと伝わる搦手門


中川清秀のその後は織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の下で活躍します。本能寺の変後は羽柴秀吉に合流して、明智光秀との山崎の戦いでも主力となりました。

ぜひ、黒田官兵衛や荒木村重とのつながりが強い、この茨木城跡に足を運んでみてはいかがでしょうか。

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明智光秀ゆかりの地 ~勝竜寺城をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

今回は山陽電車から阪急電車に乗り継ぎ、阪急京都線のお城めぐりということで勝竜寺城に行ってきました。

場所は阪急京都線長岡天神駅からJRを超えて、徒歩で20分くらいでしょうか。

勝竜寺城公園


現在は公園となっていますが、堀や城壁、城門などが再現されており、非常にきれいな日本庭園となっています。

公園内


勝竜寺城ですが、本能寺の変を起こした明智光秀が中国大返しにより引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れ、この城に入城します。さらに追撃にあった光秀は自身の居城である坂本城に落ち延びようとしますが、道中で落命します。その一日後に勝竜寺城も落城しました。

光秀が逃げ出した北門跡


もともとは1339年(歴応2年)に細川頼春が築城したといわれています。戦国時代には三好三人衆の属城でしたが、織田信長が足利義昭をたてて上洛する際に落城させます。その後、信長は細川藤孝に勝竜寺城を与え、細川藤孝がより堅固な城に改修しました。

堀と外観


細川忠興とガラシャの銅像


また勝竜寺城は明智光秀の娘である玉(ガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城でもあります。勝竜寺城の前の通りはガラシャ通りと名付けられています。ちなみに秋には長岡京ガラシャ祭りと呼ばれる祭りがあるそうです。

建物の2階には無料の展示室もあり、出土品などが並べられ、勝竜寺城の歴史を学べます。



大河ドラマの「軍師官兵衛」も本能寺の変が近づいてきたと思いますが、ぜひ明智光秀ゆかりの地であり、黒田官兵衛が攻略した勝竜寺城に足を運んでみてはいかがでしょうか。

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大和盆地を見下ろす信貴山へ(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、信貴山を巡ってみます。

朝護孫子寺本堂

信貴山で有名なものといえば平安時代後期に描かれたとされる国宝『信貴山縁起絵巻』です。
「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三部からなる絵巻は、寺の縁起というよりはこの寺の中興の祖と言われる命蓮上人にまつわる説話を描いたものですが、当時の人々の姿が生き生きと描かれ、見応えがあります。
境内の霊宝館ではこの『信貴山縁起絵巻』のレプリカを見ることができます。

この『信貴山縁起絵巻』の「飛倉の巻」では命蓮上人が空飛ぶ鉢を使って托鉢を行う様子が描かれています。托鉢を嫌がった長者が鉢を蔵の中に閉じ込めたところ、鉢は蔵ごと浮き上がり、たくさんの米俵を率いて信貴山へと飛んで行きました。蔵を追い掛けてきた長者に命蓮上人は慈悲の心を説いたとされます。ちなみに、播磨を中心に多くの説話を残す法道上人も同様に空鉢の術を使っていたと言われています。

空鉢護法堂

この空鉢の法は龍王から授かった術と言われ、信貴山の奥には龍王を祭る空鉢護法堂があります。案内に従って向かってみることにしました。険しい山道を上りつめてお堂に着いたころには疲労困憊ですが、かなり山の上に来ただけあっていい眺めです。

信貴山城跡碑

空鉢護法堂の近くにはこんな石碑がありました。
信貴山城は現在、空鉢護法堂がある信貴山雄嶽(おだけ)を中心に築かれた山城です。城が築かれたのはかなり古く、現代でも眺めがいいことからわかるように、大和盆地を見下ろす重要な城として整備が続けられました。
戦国時代には木沢長政松永久秀が築城入城、山上には四層の天守閣が設けられ、大和の拠点として整備拡張が行われました。松永久秀といえば主君の三好長慶に謀反を起こしたり、将軍足利義輝暗殺の首謀者などという説もあり、「乱世の梟雄」と呼ばれる悪役…と言いたいところですが、史実を確認すると信憑性に乏しいようで、多くは後の創作と言われています。
織田方についたものの、本願寺攻めから離脱して裏切った久秀は天正5(1577)年、信貴山城に籠城し、信長軍と攻防戦を繰り広げました。しかし、信長軍の猛攻撃で城は落城。久秀は信長が所望していた茶釜「古天明平蜘蛛」に火薬を詰めて爆発させ自害しました(諸説あるようなのですが、大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこの説を採用していましたね)。
その後、信貴山城は廃城となり、大和の拠点としての役割は失われましたが、今でも周辺には石垣の痕跡などを見ることができます。

信貴山の眺め

恐ろしい歴史があったのが嘘のように、信貴山からの眺めは穏やかです。
この空鉢護法堂の他にも信貴山の山内には多くの特色あるお堂があり、回りきるのが大変なほど。梅雨の晴れ間には、パワースポット巡りと歴史散策ができる信貴山の散策はいかがでしょうか。

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大和盆地を見下ろす信貴山へ(前編)

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ぐずついた天気の日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回は奈良県の西の端の信貴山を訪ねてみました。

西信貴ケーブル

やってきたのは、山陽電車から阪神電車を経て近鉄に乗り継いだ信貴山口駅
ここで近鉄の電車からケーブルカーに乗り換えます。
このケーブルカーは近鉄の運行する路線で、西信貴ケーブルと呼ばれています。わざわざ「西」 というからには東もあるのかと思うところですが、信貴山の反対側、近鉄生駒線信貴山下駅から出ていた東信貴ケーブルは昭和58(1983)年に廃止されてしまいました。

近鉄バス

ケーブルカーの終点の高安山駅からは近鉄バスに乗り換え。
このバスが走るルートには、かつて、信貴山急行電鉄が運行する電車が走っていました。山上で電車が走っているとはなかなか面白いのですが、この電車は戦時中の昭和19(1944)年に休止され、後に廃止されてしまいました。

信貴山朝護孫子寺

近鉄バスの終点の信貴山門バス停から参道を歩いて、信貴山朝護孫子寺に到着しました。 信貴山朝護孫子寺は信貴真言宗の総本山で、毘沙門天を本尊とする寺院です。
創建時期ははっきりとしていないようなのですが、平安時代の中ごろには堂宇があったと言われています。

世界一福寅

この寺を創建したのは聖徳太子であるという説もあります。物部守屋討伐の途上、この信貴山で勝利のための祈祷を行った聖徳太子の前に毘沙門天が現れ、勝利の秘法をさずけました。そのおかげで守屋に勝利した聖徳太子は後にこの山に寺院を築いたとされるものです。ただし、この伝説は後年の創作と言われ、信憑性が薄いとされています。
聖徳太子の前に毘沙門天が現れたのが寅年、寅日、寅の刻であったことからこの寺は寅に縁があるとされ、境内は寅ばかり。そういえば、西信貴ケーブルの車両にも寅が描かれていましたね。境内には「世界一福寅」と言われる巨大な寅がありました。
余談になりますが、この朝護孫子寺の張り子の寅にそっくりの寅がミャンマーのお寺の土産物にもあります。はるかに離れた日本とミャンマーに似たような土産物があるとは何だか興味深いですね。「アジアは一つ」ということでしょうか。

本堂からの眺め

本堂からは大和盆地が見渡せます。
何とも爽やかな景色で、お寺参り以外にも楽しめますね。
また本堂では戒壇巡り(暗闇の中で極楽への錠前に触れるお参り)もできます。

こんな感じで、なかなか楽しい信貴山ですが、次回は歴史部らしくこの信貴山を舞台にした戦いについて迫ってみたいと思います。

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城下町・尼崎を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、尼崎を歩いてみたいと思います。

尼信会館

文化財収蔵庫から尼崎駅前へと戻ります。
駅から程なくの場所には白いビルが。
こちらは尼信会館という地元の信用金庫・尼崎信用金庫が設けた施設です。

城下町尼崎

中はギャラリーなどに使われているのですが、こちらの3階には尼崎の歴史に関する私設の博物館が設けられています。 数々の資料や尼崎城の復元模型などは見応えがあり、他の公立の博物館に引けを取らないくらい充実しています。

寺町の景観

尼信会館から西に向かうと、こんな街並みが。
この界隈は寺町と呼ばれていて、確かに寺院が密集して建ち並んでいます。工業都市のイメージが強い尼崎でこんな街並みを見られるとは、ちょっと意外な気がしてしまいますね。

廣徳寺

寺町が造られたのは元和3(1617)年、戸田氏鉄尼崎城を築城する際に大物にあった寺院をこの地に移転集約したのが始まりです。寺町の中にある廣徳寺「大物崩れ」で赤松氏に敗れた細川高国が切腹した寺院ですが、高国が切腹した当時はここよりもずっと東の現在の大物駅の近くにありました。

近世の尼崎の城下町は城を中心に作られ、城の西側に寺町、南側に武家屋敷が建ち並び、そのさらに南の沿岸部には海を埋め立てて設けられた街が広がっていました。物流の拠点だった大坂に近かったことから商品作物を中心とした農業が発達し、物流の拠点としても大変栄えたそうです。
明治維新で尼崎城は廃城となって取り壊され、戦前・戦後は工業都市として開発がおこなわれたことから城下町の面影の多くは失われてしまいました。大きく変わった街の中に残る寺町の風情はとても貴重なものなのかもしれません。

寺町を歩いて

三回に渡って中世から近代へと尼崎という町が積み重ねてきた歴史を歩いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
尼崎の違う面を発見できたという方、是非、梅雨入り前の爽やかなこの季節に歩いてみてください。

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