せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨のお城めぐり その1~上月城

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こんにちは、玄蕃允です。

山陽姫路駅からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。
佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三つのお城を押しているようです。
今回は上月城です。
公共交通機関では、JR姫新線の上月駅が最寄りとなります。駅から徒歩10分くらいで、上月城の麓・登山口に到着です。

登山口

登山口前には資料館があります。入館は200円ですが、土日祝月しか開館してないようですので、ご注意を。

資料館


この上月城。黒田官兵衛のゆかりとしては、官兵衛の妻・光の姉が上月城主・上月景貞に嫁いだことで知られています。
上月城跡は標高322mの山頂にあり、登山口から約15分かかります。完全に山登りになるので、動きやすい服装・靴を準備してください。

堀切


堀切とは、山の尾根をそのまま敵に進まれないように掘った堀を言います。

この城は赤松氏の一族である上月景盛(かげもり)が1336年に築きました。

赤松政範の墓


戦国時代に入り、播磨平定に乗り出した織田信長方の大将・羽柴秀吉が攻撃し、1577年に城を陥落させました。その時の城主が赤松政範になります。

奪った上月城を秀吉は、出雲の守護大名であり、毛利氏に滅ぼされた尼子家の再興を目指す尼子勝久・山中鹿之助に与えます。

しかし、毛利氏も織田の中国地方進出を防ぐため、上月城再奪還を目指し、秀吉よりもはるかに多くの兵で城に攻め寄ります。秀吉は信長に援軍を要請しましたが、上月城への援軍は叶わず、落城。尼子勝久は自ら命を絶ち、山中鹿之助は捕虜となり、広島・鞆への移送中に殺されます。

尼子勝久追悼碑


それまで、播磨の領主達はは織田方に従いましたが、上月城をなかば見捨てる形となったため、一気に反感が高まり、一斉に中国地方の毛利方に従います。織田の播磨での立ち位置が逆転する契機になりました。

播磨の西端に位置したため、中国地方へ進出する織田とそれを守る毛利の板挟みとなり、半年の間に二度も落城する、悲運の城・上月城。ぜひ足を運んでみてください。



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