せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

淡路島の城下町・洲本を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、淡路島の洲本を歩いてみたいと思います。

洲本城跡からの眺め

洲本城跡からは洲本市街や遠く神戸の街並みが見渡せます。
山道でヘロヘロ汗だくですが、爽やかな景色に癒されました。

安宅氏が滅んでから、秀吉の家臣の仙石秀久が城主となり、洲本城は四国攻めの前線基地となりました。仙石秀久が軍律違反で高野山へ追放されてからは脇坂安治が城主となります。簡素な山城だった洲本城には石垣や天守閣が整備され、城としての体裁を整えていくことになりました。のちに脇坂安治は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの功績で脇坂安治が伊予大洲へ転じることになります。
江戸時代に入ってからの淡路は姫路の池田氏の領地になりますが、元和元(1615)年には阿波徳島藩蜂須賀氏の領地になり、家臣の稲田氏由良城代に任ぜられました。稲田氏は由良に城と城下町を整備するのですが、海と山に囲まれたこの地は手狭で、寛永8(1631)年には早くも洲本への移転を始めました。4年がかりで城と城下町をそのまま移したこの巨大事業は「由良引け」と呼ばれています。その後、明治維新まで稲田氏がここ洲本で淡路島を支配することになります。

下の城

山を下りて山麓を散策することに。
税務署や地裁の支部などの行政機関が建ち並ぶこのあたりは「下の城」と呼ばれ、「由良引け」後に整備された城です。山上の「上の城」はこの頃に使われなくなったとのこと。

洲本城跡碑

江戸時代の城は、いわば、市役所や県庁ですから、ひたすら山を登らなくてはならず不便な「上の城」が使われなくなったのは、当然と言ったら当然でしょうか。

大浜海岸

「下の城」から東へ向かうと松林が広がります。
こちらは大浜海岸と呼ばれる景勝地で、海辺に出てみると青々とした瀬戸内海が広がりました。大浜海岸の近くには洲本温泉の温泉街が広がり、夏場ならハモなどの海の幸を味わうことができます。

台風が来ていますが、梅雨明けももう少し。
この夏は洲本へ瀬戸内の海とともにあった城の歴史を探りに出かけてみませんか。

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