師走に入り年末の雰囲気を感じるようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
阪神電車の尼崎駅で直通特急から各駅停車に乗り換えて着いたのは大物駅です。
阪神本線と阪神なんば線が分かれる駅ですが、停まるのは各駅停車ばかりであまりなじみのない方が多いのではないでしょうか。
駅の近くには公園や緑地がありました。地図を見ると緑地は曲がりくねりながら駅の南北に細長く続いています。こちらは大物川の跡です。
今では住宅や町工場の建ち並ぶ大物ですが、かつては「大物浦」と呼ばれた港町でした。現在は埋め立てられている大物川は上流で神崎川や淀川につながり、大阪湾を運ばれた物資がここ大物で川船に積み替えられて京都へ運ばれる物流の拠点でした。しかし、近代にかけて尼崎が工業都市として発展するにつれて汚染が進み、地盤沈下の影響で川の流れは淀んでいきました。川を浚渫して浄化する案もあったそうですが、結局埋め立てられることとなり、昭和45(1970)年に埋め立て工事が完了して川としては姿を消してしまいました。同様に埋め立てられて姿を消した川は尼崎から大阪にかけて数多くあり、緑地になっていたり橋跡が残されていたりして川の名残を見つけることができます。
公園沿いを歩いていると、「残念さんの墓」という変わった標記を見つけました。こちらは「残念さん山本文之助墓」です。山本文之助とは幕末の長州藩士で、元治元(1864)年の禁門の変の際には京都へ従軍しました。この戦いで長州藩は幕府軍に完敗し、文之助は京都から敗走します。しかし、途中の尼崎の北の口門で尼崎藩士に捕らえられ、取り調べ中に牢屋の中で「残念、残念」と言いながら自決したそうです。当時は「長州びいき」が流行っていて、尼崎藩が建てた文之助の墓は「残念さん」と呼ばれ、幕府が墓参を禁じたにも関わらず墓参者が絶えなかったそうです。現在の墓は尼崎藩の建てたものではなく、長州藩と取引のあった尼崎の商家が建てたものだそうです。
「残念さんの墓」から大物駅の近くに戻りました。駅の近くには「大物くづれ戦跡」の碑がありました。ここ大物は物流の拠点だっただけではなく、戦国時代におこなわれた所謂「大物崩れ」の舞台ともなりました。
次回は戦と古城の跡をたどりながら大物を歩いてみたいと思います。