せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

清和源氏発祥の地・多田を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、多田を歩いてみたいと思います。

多田神社の境内

石段を上った先の多田神社の境内は広々としていました。奥には檜皮葺の本殿がそびえています。現在の本殿は戦国時代に焼失したものを再建したものですが、それでも建てられたのは江戸時代の初めの寛文7(1667)年の建築で、歴史ある神社らしい趣があります。

前回も見てきたように多田神社は天禄元(970)年に源満仲が邸宅を築いたことが始まりとされています。確かに、猪名川を見ろす高台に位置する神社の境内はまるで砦のような雰囲気にも思えますね。ちなみに、先日訪れた妙見山に祀られる鎮宅霊符神(妙見大菩薩)は満仲の邸宅に祀られていた神像を妙見山に遷したことが始まりとされています。

満仲・頼光両公神廟

境内の奥には満仲・頼光両公の神廟がありました。満仲の息子の頼光は大江山の酒呑童子や土蜘蛛の退治の伝説で知られています。

鎌倉時代の源氏の幕府の成立によって清和源氏発祥の地とされる多田院には多数の寺坊が建てられて非常に栄えましたが、その後、将軍家の断絶やこの地を治めた「多田源氏」が没落し、次第に衰退していきました。しかし、「清和源氏発祥の地」ということは一種のブランドのようなもので、その後、多田荘園の地頭職に就いた鎌倉幕府執権の北条氏は多田院の再興に貢献しました。その後、室町幕府になっても足利将軍家の庇護を受けて発展していきます。

鬼首洗の池

境内には「鬼首洗の池」という物々しい名前の池がありました。こちらは源頼光が丹後・大江山の酒呑童子を退治して都へ戻る途中にここ多田へ立ち寄り、酒呑童子の首を洗い清めたという伝説のある池です。多田院に頼光が祀られるようになったのは北条氏による再興の頃からと言われています。

戦国時代の天正5(1577)年には織田信長の甥の織田信澄の軍勢によって火がはなたれ、本殿をはじめとした多田院の堂宇は焼失し、境内は荒廃してしまいます。しかし、江戸時代に入ると清和源氏にルーツを持つという徳川氏の大きな庇護を受けるようになって「西日光」とまで呼ばれるようになりました。

猪名川渓谷

多田神社を出て、神社の前の御社橋の上に出てみました。この辺りは「猪名川渓谷」と呼ばれていて、川を見下ろしてみると岩場が露出した荒々しい景色が広がっていました。

西日光」を眺めて

御社橋を渡って、多田神社を振り返って眺めてみました。朱塗りの橋の向こう、川を見下ろす高台に南大門を始めとした瓦葺の建物が並ぶ光景は「西日光」と呼ばれた威容を今に伝えるようです。

帰り際にもう一度、猪名川渓谷の川面を見下ろして能勢電鉄の多田駅へと戻ることにしました。