せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

相生を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

蛭子神社

相生港バス停の傍には神社が佇んでいました。こちらは蛭子神社です。前回、少し見てきたように、相生湾の奥の那波と違い、ここ相生は漁業を中心とした集落でした。この蛭子神を祀るこの蛭子神社も漁村らしい雰囲気を今に伝えています。

大谷川

相生地区の北側を大谷川が細く流れていました。川沿いには家並みが続いています。街中には相生湾で獲れた新鮮な魚介を扱う鮮魚店が所々にあり、今でも漁村の活気を感じることができます。

相生天満神社

大谷川を渡った先、石段の上に立派な神社が佇んでいました。相生天満神社です。この神社は建立されたのは平安時代も終わろうとしていた建久2(1191)年のこと。当時、この地を納めていた海老名氏が社を建てたのが始まりです。

もともと「おお」と呼ばれていたこの地を豪族・海老名氏が治めるようになったのは平安時代の後期の長治元(1104)年とされています。海老名氏は元々相模国、現在の神奈川県海老名市付近を治めていた豪族で、家督争いの末に一派が相生湾の奥の那波に城を構えてこの地を治めるようになりました。「相生」の地名は相模国の「相」に生きる「生」という字を組み合わせて生まれました。ただし、昭和に相生市となるまで、「相生」の読み方は「おお」のままだったそうです。

相生天満神社の境内

境内は急な斜面に張り付くようですが、趣があり立派な社殿が佇んでいました。
この相生天満神社の創建には様々な伝説がありますが、一説では播磨海老名氏の祖となった海老名家李が陣中で拾得した菅原道真像をこの地に祀ったのが始まりとされています。

相生地区を見下ろす

相生天満神社からは山と相生湾に囲まれた谷に住宅が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。古くは「おお」と呼ばれ、この相生市の原点ともいえる相生地区。次回ももう少し歩いてみたいと思います。