せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

初代県庁館オープン・兵庫津を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫津を歩いてみたいと思います。

清盛塚

県立兵庫津ミュージアム「初代県庁館」を出て兵庫運河を渡った先に清盛塚がありました。境内にある十三重の石塔が清盛塚とされ、鎌倉時代の弘安9(1286)年に当時の鎌倉幕府の執権・北条貞時によって建立されたと伝わっています。もともとは現在の場所の南西にありましたが、大正時代に道路拡幅に伴って現在地に移設されています。

兵庫県庁から時代は遡る平安時代の末、平清盛は古くから港町として栄え、大輪田泊と呼ばれていたここ兵庫津を改修し、日宋貿易の拠点として整備しました。その工事の一環として作られたのが「経ヶ島」と呼ばれる人工島です。山を切り崩した土砂で埋め立て地を築く工事は難航したため当時の慣習で人柱を建てようとしましたが、清盛の反対により、人柱の代わりに埋め立てる石一つ一つに経を記し無事に完成したと言われています。

清盛像

境内には清盛像が建っています。こちらは昭和48(1968)年に建てられたものです。清盛は所謂「源平合戦」の最中の治承5(1181)年に熱病で没し、経が島の完成を見ることはありませんでしたが、『平家物語』では経が島に埋葬されたと記されています。その記述から、この清盛塚が清盛の墓であるとされてきましたが、先述の移転の際におこなわれた調査で、清盛塚は清盛の墓ではないということがわかっているそうです。

兵庫城跡

兵庫運河沿いの遊歩道を歩いていると、「兵庫城跡」の石碑がありました。後に初代の兵庫県庁がおかれることになった兵庫城はここにあったとされています。

清盛の死後、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡しますが、鎌倉時代に入ってから経が島の工事は再開され、建久7(1196)年に完成しました。その後も兵庫津は瀬戸内海航路の拠点として発展し、近代以降の国際貿易港・神戸港へとつながっていくこととなります。

兵庫運河を眺めて

兵庫城跡付近から兵庫運河を眺めてみました。運河沿いに大規模な商業施設が建ち、以前とは周辺の随分と雰囲気が変わってしまいましたが、ゆったりと流れる水面はそのままです。まもなく県立兵庫津ミュージアム「ひょうごはじまり館」がオープンすれば、ますます盛り上がって来そうですね。

これからの季節、運河沿いに歴史散策はいかがでしょうか。