せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

姫路・京口を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城の東側、京口を歩いてみたいと思います。

旧寺町

内京口門から少し東側に向かうと、寺院が建ち並ぶ一角がありました。
こちらは「旧寺町」と呼ばれています。

妙国寺

通りに入ってすぐにあるのが妙国寺です。こちらはもともと天文20(1551)年に姫路の北側の置塩城下に建立されたものが、現在地の北側の河間町に移転し、池田輝政の姫路城改築の際にこの地に移りました。

ここ姫路に限ったことではありませんが、城下町にはこうして寺院が集められた「寺町」が設けられることが多くありました。当時の寺院は強固な塀や石垣を持ち、一種の砦のような機能があり、城の防御の一環として重要な地区に集められることが多かったとされています。この近隣では尼崎の寺町がよく知られていますね。
ここ姫路でも、この旧寺町と呼ばれる地区の寺院は多くが池田輝政の改築の際にこの場所へ集められ、街道沿いの内京口門外京口門の間の防衛設備とされました。そのためか、ほとんどの寺院は東側に山門を向けて並んでいます。

正明寺

旧寺町の寺院は通りの西側に並んでいますが、珍しく東側にあったのが正明寺です。

多くが中世に建立された寺院の旧寺町ですが、この正明寺は特に古い歴史を持ち、平安時代の康治2(1143)年に正覚坊道邃なる人物が建立したとされています。称名寺と呼ばれていた創建当初は姫山、現在、姫路城が建っている山にありましたが、正平元(1346)年に赤松貞範が姫山へ築城をした際に城下へ移転、城下でも何度も移転し、やはり池田輝政の改修の際の慶長13(1608)年に旧寺町へ移転し、江戸時代にも移転して現在に至っています。

正明寺の境内

境内を覗いてみると、堂宇が建ち並んでいました。旧寺町は昭和20(1945)年の姫路大空襲で大きな被害を受け、歴史ある寺院の多くが焼失してしまいました。この正明寺も中門と庫裏の一部を残して焼失してしまったそうで、現在の建物は戦後に建立されたものです。

野里街道

京口の名の通り、京都へつながる街道沿いに開けた京口は防衛機能を持つ町となり、城下のほかの街とは少し違った景色が広がっていました。この京口からはもう一つ、北へと延びる街道が通っています。その名は野里街道

次回はこの野里街道をたどって歩いてみたいと思います。

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