せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

荒井・小松原を歩いて(前編)

投稿日:



梅雨の中に夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

荒井駅

梅雨の雨の中、山陽電車で訪れたのは荒井駅です。
工業地帯の真ん中にあり、通勤客で賑わう駅ですが、日中はひっそりとした雰囲気でした。

荒井の街並み

工場が建ち並ぶ浜側に対し、山側には住宅地が広がっています。旧道沿いの家々は新しいものになっていますが、曲がった道に古い道の雰囲気を感じることができます。

荒井神社

荒井の街の中にあったのが荒井神社です。

荒井神社の楼門

荒井神社で印象的なのはこちらの楼門です。

荒井神社ははるか古代の舒明天皇元(629)年に遡るとされています。山陰の出雲から渡ってきた氏族がこの地を開き、大己貴神(大黒様)を祀ったのが始まりとされています。境内の保育園の名前は「白兎愛育園」といい、なぜ播磨で「白兎」と思ってしまいますが、出雲や大黒様に関わる歴史を考えると納得ですね。

荒井神社の境内

雨の降り続ける荒井神社の境内。
あいにくの天気なのは残念ですが、もう少し荒井を歩いてみたいと思います。

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伊保崎を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊保崎を歩いてみたいと思います。

延寿寺の境内

延寿寺の境内は緑があふれ、広々としていました。

寺の街の景色

延寿寺を出るとこんな景色。白い塀が続く景色はどこか奈良や京都のような雰囲気を感じます。古い地図でもこの辺りには寺院が集まっていて、小さな寺町のような雰囲気だったのかもしれません。

真浄寺

延寿寺のすぐそばにあったのが真浄寺です。
こちらも延寿寺と並び、伊保崎の町を見守ってきた寺院ですが、こちらは併設された保育園が目立ちます。

網堂

さらに伊保崎の街中を歩いていると現れたのは小さなお堂の網堂です。

先日訪れた播磨の善光寺こと時光寺時光上人なる人物が創建したとされています。この時光上人はもともと源経家と名乗る武士で鎌倉幕府に仕えていましたが、寛元元(1243)年に出家しました。経家は摂津の寺院を経てここ伊保崎村にあった心光寺で修業を積むこととなります。その心光寺があったのが、この網堂であるとされています。

網堂の境内

住宅地の中に佇む網堂には春の穏やかな日差しが差し込んでいました。

のちに廃寺となった心光寺の跡地には、時光上人が時光寺の阿弥陀如来像を海中から引き上げた際に使った網が埋められ、その名も「網堂」と呼ばれるお堂が築かれました。ちなみに、このお堂の中には古墳時代の石棺の蓋石に室町時代に地蔵立像を刻んだ石棺仏が納められています。

法華山谷川

網堂から少し歩くと法華山谷川に出ました。

住宅地の中に眠る史跡は、古くからこの地の物流を支えたこの川があったからこそ生まれたものだったのでしょうか。また大変な世の中となってしまいましたが、今こそ、身近なスポットに目を向けてみる機会なのかもしれません。

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伊保崎を歩く(前編)

投稿日:



木々にも若葉が萌出るこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

伊保駅

山陽電車で着いたのは伊保駅
この時は「山陽電車×山陽バス×神戸市交通局 つながるヘッドマークSNSキャンペーン」のヘッドマーク掲出電車がまだ運行をしていました。三社局のキャラクターがデザインされたヘッドマークは賑やかで楽しいですね。

伊保の街並み

伊保駅を出ると伊保の街並みが続きます。もともとの伊保の街は今の駅前の北東に広がり、法華谷川の対岸の今市や中島などの集落と合わせて伊保村を形成していました。

伊保を行く

かつての伊保の集落に入ると、狭い路地が続きます。

現在は住宅が広がっている伊保ですが、中世には「伊保荘」と呼ばれる荘園でしたが、近世には法華谷川と洗川の河口に近いことを生かして特産の竜山石を始めとした物資を運ぶ舟運の拠点となり、栄えたと言われています。法華谷川の対岸は幕領でやはり舟運で栄えた今市で、法華谷川はきっとたくさんの船が行きかい、今では考えられないくらいに賑やかだったのでしょうね。

延寿寺

伊保の街中に鐘楼の載った門が印象的な寺院がありました。
こちらは延寿寺です。古い地図にも寺院が記されていて、地域の中心的な寺院だったのでしょう。

静かな住宅地になった伊保ですが、長い歴史を持った町です。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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播磨の善光寺と山陽道・高砂市阿弥陀を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、高砂の阿弥陀を歩いてみたいと思います。

薬師堂

街道沿いを歩いていると薬師堂がありました。江戸時代に建立されたというお堂で、街道の風情を残す町並みに溶け込むように佇んでいました。

時光寺

住宅地を歩いていくと、趣のある山門が姿を現しました。
こちらは時光寺です。

時光寺の境内

趣のある山門をもつだけあって、時光寺の境内は広々としていました。

時光寺は鎌倉時代の建長元(1249)年の創建と伝わっています。時光上人なる人物が阿弥陀如来を海中から引き揚げ、堂宇を創建したのが始まりとされています。この阿弥陀如来像は一体で見つかったわけではなく、二見から阿閇・高砂・福泊・妻鹿…と色々なところから頭や足が引き揚げられたという話が伝わっています。ただし、この時、右手だけは見つからなかったそうで、魚を救うために右手は海中に残ったままといわれています。

戦後記念大仏

境内には戦後記念大仏がありました。なお、ここでいう「戦後」は太平洋戦争ではなく、日露戦争を指します。

もともとは曽根天満宮の西側にあった時光寺ですが、のちに文永10(1273)年に今の場所へ移りました。この時、北原の宿と呼ばれていたこの地を「阿弥陀の宿」と呼ぶように改められたそうです。不思議なありがたい地名はこの時光寺に由来していたのですね。ちなみに、この時光寺は「播磨の善光寺」とも呼ばれていて、この寺に三回参拝すれば信州・善光寺に一回参拝したのと同じご利益があると言われています。

時光寺を眺める

静かな時光寺の境内を眺めてみます。

不思議な地名の街に佇む時光寺。「播磨の善光寺」と呼ばれるだけでなく、不思議な伝説に彩られた古刹でした。これからの気候の良い季節、電車に乗って訪ねてみてはいかがでしょうか。なお、お出かけの際は十分な感染症対策をお願いします。

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播磨の善光寺と山陽道・高砂市阿弥陀を訪ねて(前編)

投稿日:



春も深まりゆく頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

曽根駅

山陽姫路駅からJRに乗り換えて着いたのは曽根駅
山陽電車にも山陽曽根駅がありますが、こちらは曽根の街からはかなり山側に入った位置にあります。

陸橋下の道標

駅のすぐそばの陸橋の下にはたくさんの道標が佇んでいました。どれも興味深いことが描かれていますが、ひとまず左に向かうことにしました。

阿弥陀町阿弥陀の街並み

駅の周辺に広がるのは阿弥陀町の街並みです。この地区は阿弥陀町阿弥陀という地名で、何だかありがたい気分になる町ですね。

先ほどの道標に「左 おうくわん」(=往還)と書かれていましたが、こちらはかつての山陽道でした。古い地図を見てみると、山陽曽根駅の北側の曽根の街とは別に、街道沿いに阿弥陀の街が広がっていたことがわかります。今は住宅街になっていますが、どこか街道の風情を感じることができますね。

地蔵院

街道にあった道標に導かれてたどり着いたのが地蔵院です。阿弥陀の町にはこうした寺院やお堂が数多くあります。だから「阿弥陀」という地名なのかと思いますが、そうではありません。
次回は「阿弥陀」の由来を訪ねてみたいと思います。

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日本三奇・石の宝殿を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、高砂の生石神社を訪ねてみます。

石の宝殿

生石神社の拝殿の向こうには岩肌が見えました。こちらが「石の宝殿」と呼ばれる巨石です。

石の宝殿を眺める

拝観料を払って中に入りますが、巨大すぎて全体を写真に収めることはできませんでした。

前回も見てきたように、「石の宝殿」と呼ばれるこの巨石は生石神社のご神体とされていて、はるか神代に作られたという伝説があります。伝説では大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二柱の神がこの地に石の宮殿を建てようとしましたが、この地域の土着の神である「阿賀の神」の反乱を受けて中断。宮殿は作りかけのままとなりましたが、二柱の神はその後もこの岩に籠ったそうで、これが生石神社のご神体となりました。

石の宝殿を見下ろす

拝殿の裏手には上ることができ、「石の宝殿」を見下ろすことができました。近づくとよくわかりませんが、こうして見下ろしてみると「石の宝殿」は神社のある巨大な岩をくり抜いて作ったもののようにも見えますね。ただし、そうだとしてもこの石の宝殿が何の目的でどうやって作られたのかはわかっていません。そうした謎から、「石の宝殿」は宮崎県高千穂の「天之逆鉾」、宮城県塩竈市の「四口の神竈」とともに「日本三奇」とも呼ばれています。

岩山と播磨灘

さらに裏手を上ると播磨灘をバックに岩山を眺めることができました。こうした岩山はこの地域特有で、こうした山から採られた石は竜山石(宝殿石)と呼ばれて古くから石材として利用されてきました。石の宝殿もこの石を使って何かを作ろうとした跡なのかもしれません。

播磨灘と上島

山頂に上がると景色が開けました。神社越しには播磨平野の東側、加古川沿いの街並みが広がっていて、南に目を向けると播磨灘が広がっています。水平線の上には無人島・上島も見ることができました。

高砂の山中に眠る謎に包まれたスポット「石の宝殿」ですが、どこか、この地域とのつながりも感じることができました。これからの季節、混雑を避けて訪ねてみてはいかがでしょうか。

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日本三奇・石の宝殿を訪ねて(前編)

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日差しが明るくなり、春を感じることが多くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

宝殿駅

山陽姫路駅からJRに乗り換えて着いたのは宝殿駅です。

梅の咲く道

宝殿駅から住宅地の中を歩いていきます。
道沿いの家には所々に梅の木が植えられていて、かわいらしい花が咲いていました。

生石神社

住宅地を抜けた先の山腹に神社がありました。
こちらは生石神社(おうしこじんじゃ)です。

生石神社の石段

鳥居を抜けると山に張り付くように楼門のような絵馬殿があり、そこをくぐるような急な石段が設けられています。

生石神社の歴史ははるか昔にさかのぼり、3世紀頃の崇神天皇の時代の創建と伝わっています。大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)という二柱の神がこの場所に石造りの宮殿を建てようとしたのが始まりという伝説があります。この時の宮殿が「石の宝殿」と呼ばれるようになり、今も生石神社のご神体になっています。

生石神社の境内

急な石段を上ると、ようやく生石神社の境内に着きました。振り返れば播磨平野が一望できますが、「石の宝殿」は伝説から1700年以上も経った今もこの拝殿の向こうにあります。

次回は石の宝殿を訪ねてみたいと思います。

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鶴林寺を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、高砂線の跡を辿って加古川の鶴林寺を訪ねてみたいと思います。

新薬師堂

境内にあったのは新薬師堂です。

ウインクする仏像

こちらの新薬師堂には薬師如来像とそれを護る十二神将像がおさめられていて、十二神将像のうちの摩虎羅大将像「ウィンクをしている仏像」として知られています。写真を撮るのは遠慮しましたが、実際に拝見するととてもチャーミングな姿でした。

太子堂

こちらは太子堂です。檜皮葺の屋根に蔀戸が巡らされた見るからに古い建物で、それもそのはずで、平安時代の天永3(1112)年に建てられた兵庫県内で現存最古の建物だそうです。ちょうどこの年は「鶴林寺」という寺号になった年ですね。前回紹介した聖徳太子が建てたとされる鶴林寺の始まりである「刀田山四天王聖霊院」の後継の建物とされるために太子堂と呼ばれているそうです。

常行堂

太子堂に似た蔀戸を巡らせた建物が境内にありました。こちらは常行堂です。こちらも太子堂と同時期の建築とされています。

非常に長い歴史を持ち、今も加古川を代表する寺院の鶴林寺ですが、かつてはさらに広大な寺領を持っていました。鎌倉時代から室町時代にかけて、太子信仰の広まりとともに寺領は広がり、数多くの寺坊を抱える大寺院となりました。

三重塔

太子信仰の広まりにより非常に大きな寺院となった鶴林寺ですが、その後は江戸時代にかけて寺領は減らされていき、明治の廃仏毀釈によって現在の大きさとなりました。境内で特に目立つ三重塔は鶴林寺が最盛期を迎えた室町時代の建築とされ、大寺院として栄えたかつての姿を今に伝えているようです。

かつては大寺院として栄え、今も加古川を代表する寺院で、現代的な楽しみもある古刹・鶴林寺。まだまだ大変な時期が続いていますが、感染症に注意しながら近場で楽しんでいただけるスポットではないでしょうか。

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鶴林寺を訪ねて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川を歩いてみたいと思います。

鶴林寺仁王門

高砂線
の線路の跡にできた道路を歩いていると、こんもりとした森が見えてきました。
こちらは鶴林寺です。寺の前まで歩くと、巨大な仁王門が迎えてくれました。

鶴林寺の境内

木々の緑が眩しいくらいの鶴林寺の境内を歩いていきます。

鶴林寺本堂

境内を歩くと、本堂にたどり着きました。歴史ある古刹だけあって、大きく風格のある本堂です。

鶴林寺は崇峻天皇2(589)年の創建と伝わる古刹です。創建時期は伝承で本当のところはわかっていないそうですが、この地に隠れていた僧・恵便のもとへ教えをこうために聖徳太子が訪ね、その際に「刀田山四天王聖霊院」と呼ばれる寺院を建立したのが始まりと言われています。現在の「鶴林寺」という寺号になったのは平安時代の天永3(1112)年のことで、当時の鳥羽天皇から勅額を受けたことによります。本当のところは結局わからないのですが、仏像や堂宇から調べると、少なくとも平安時代の初めにはこの地に寺院があったのではないかと考えられています。

菩提樹

訪れたときには、本堂の前で菩提樹が花を咲かせていました。
菩提樹の花の見ごろは6月で、もう花は終わっていることでしょうが、大変な世の中を癒してくれているような優しい花でした。

加古川に佇む古刹・鶴林寺、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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鶴林寺を訪ねて(前編)

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まだまだ梅雨空が広がる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

尾上の松駅

今回山陽電車で降りたのは尾上の松駅です。

今福八幡神社

駅から少し西に歩くと広い境内を持った神社がありました。
こちらは今福八幡神社です。

旧尾上の松駅跡

現在は平地にある尾上の松駅ですが、かつては今より少し東側の築堤の上にありました。この築堤をくぐる道路は何だか不思議な雰囲気が…。この築堤をくぐる道路にはかつて国鉄高砂線が通っていました。

高砂線は加古川駅高砂駅(山陽電車の高砂駅よりかなり浜側にありました)を結んでいた鉄道で、大正時代に高砂までの路線が開業しました。東西方向の交通網が充実している今では不思議な経路の路線ですが、当時は加古川の舟運がまだ盛んで、舟運の代替として加古川沿いの鉄道(今のJR加古川線)とともに、近世より物資の集散地として栄えていた高砂を結ぶために設けられた路線でした。

国鉄尾上駅跡

旧尾上の松駅跡の浜側には高砂線の尾上駅があり、山陽電車と接続していました。駅の跡地には車輪を使った記念碑が設けられています。現役当時はここ尾上駅から高砂北口駅(山陽電車の高砂駅前)まで加古川を渡る区間で山陽電車と並行して走っていたのですね。ただし、この高砂線は国鉄再建法により昭和59(1984)年に廃止となり、今はこうしてわずかな痕跡が残るばかりです。

かつての高砂線はここから加古川を渡り、高砂へと向かっていきますが、私たちは逆に加古川駅の方に歩いてみたいと思います。

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