せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

国際貿易港は今も・新港町を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の新港町を歩いてみたいと思います。

御幸記念碑

神戸税関の傍には「御幸記念碑」と書かれた碑がありました。こちらは昭和4(1929)年に昭和天皇が初めて神戸へ御幸されたことを記念する碑です。

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」

神戸税関の庁舎の前を通るのは「日本一短い国道」として知られる国道174号線です。国道を挟んだ向かいには風格のある建物が佇んでいます。こちらはかつての神戸市立生糸検査所の建物で、現在はデザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」という施設となっています。

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」の内部

KIITOの内部はホールやギャラリーなどとして使用されています。

神戸に輸出用の生糸の品質検査をおこなう農商務省の生糸検査所が作られたのは明治29(1896)年のことでした。当時、日本の主要な輸出品は茶と生糸で、特には生糸の世界一の輸出国で、開港地となって以来の貿易港だった神戸からも多くの生糸が輸出されていました。しかし、関西の生糸市場が不振のために徐々に衰退し、わずか5年後の明治34(1901)年に神戸の検査所は閉鎖されてしまいました。その後、関西でも生産性と品質の向上が図られて生糸の生産量が増加し、神戸港での生糸の取り扱い再開を求める声が大きくなっていきます。生糸検査所の閉鎖の20年後の大正10(1921)年に神戸商工会議所に「生糸市場委員会」が設置されて生糸の取り扱いの再開の検討が始まります。その間に発生した関東大震災で横浜港が被災したため、神戸港にその代替を求める声も高まり、ついに大正13(1924)年には神戸市立生糸検査所が設置されて業務を開始しました。

生糸検査所ギャラリー

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」には生糸の品質検査に使われていた機械や当時の写真などを展示するギャラリーがありました。

現在に残る神戸市立生糸検査所の旧館の建物が建てられたのは昭和2(1927)年のことで、その後、検査所は国営に移管されて、旧館の完成の5年後には東側の新館も建てられました。当時は日本の生糸輸出のピークで、神戸港の輸出は日本国内の三割に上ったとも言われています。戦後にはGHQに接収されながらもこの地で業務を続けてきました。しかし、合成繊維が開発されると生糸の輸出は減り始め、生糸価格が大暴落した昭和49(1974)年に検査所は閉鎖され、以後は農林水産省や独立行政法人の施設として使われることになりました。その行政の施設としての役目を終えた後は市へ売却され、現在のデザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」となりました。

階段の意匠

装飾がなされたデザイン・クリエイティブセンター神戸の階段を眺めていると、生糸の輸出を再開し、さらに国際貿易港として発展しようとしていた当時人々の意気込みを感じることができるようです。

国際貿易港として発展しようとしてきた当時の雰囲気を感じる新港町をもう少し歩いてみたいと思います。

国際貿易港は今も・新港町を歩いて(前編)

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初夏の花が咲き始めた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神神戸三宮駅

直通特急で着いたのは阪神神戸三宮駅です。

フラワーロードを歩いて

阪神神戸三宮駅から地上に出てフラワーロードを歩いてみることにしました。現在は三宮の東側を流れている生田川はかつて今はフラワーロードとなっているこの場所を流れていました。広々とした道路を新神戸駅・三宮駅と神戸のウオーターフロントを結ぶ「PortLoop」の青い連節バスがちょうど走ってきました。

神戸税関

阪神高速の高架橋を潜った先に、ちょうど旧生田川の河口近くに当たる場所に時計塔が目立つ近代建築が佇んでいました。こちらは神戸税関の庁舎です。

神戸税関旧館のホール

神戸税関は兵庫県から中国・四国地方を管轄する現役の税関ですが、旧館の建物が歴史的な建築物であることや、「開かれた税関」を目標としていることから内部の見学が可能です。時計塔の目立つ旧館側の東門を入るとそこは重厚な雰囲気の漂うホールでした。

神戸に税関が設けられたのは慶応3(1868)年のことで、神戸港の開港に伴って江戸幕府が設けた兵庫運上所が始まりでした。その後、運上所は新政府に引き継がれて神戸税関となります。税関となった後の初代の建物は現在の場所の山手にありましたが、大正11(1922)年に火災で焼失してしまい、現存していません。今は旧館となっている二代目の庁舎が建てられたのは昭和2(1927)年のことでした。大蔵省営繕部の手による建築で、今もシンボルとなっている時計塔を設けた庁舎は港町を象徴する建物となりました。

神戸税関の中庭

ホールを抜けると芝生の張られた中庭が広がっています。奥にそびえるのは平成10(1998)年に建設された三代目の庁舎で、税関全体を船に見立てると三代目の庁舎が船のブリッジのように見えるように作られているとのことです。

旧生田川の河口付近に広がる新港町は税関を始め、港町・神戸を象徴するような街並みが広がっています。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

間もなく花の季節・姫路城を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路を歩いてみたいと思います。

姫路城を見上げて

姫路市立美術館の裏手は姫路城天守閣のちょうど東側にあたります。石垣の向こうには天守閣がそびえているのが見えました。

姫路城喜斎門跡

石垣の合間にあったのは喜斎門跡です。喜斎門は姫路城の搦手門ですが、今は石垣しか残されていません。この門の傍には馬で登城した藩士が馬をつないでおく「駒寄」と呼ばれる支柱があり、こちらの石垣の修理工事の際に支柱を立てた穴の跡が発見されました。同様の駒寄は大手門にもあったとされています。

現在の姫路城は安土桃山時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、当時の城主の池田輝政が整備したものです。もともとこの場所には天然の山の姫山があり、城は山の地形を利用して作られた「平山城」です。大手前側から眺めると平野に城がそびえているように見えますが、城の東西に回り込んでみると急な地形が残されていて「山」を感じることができます。城の搦手、つまり、裏口にあたる喜斎門からは急な地形を生かしてあえて歩きにくい道を設けることで敵の侵入を防いだとされています。

姫路城と石垣

喜斎門跡の奥には天守閣の石垣がそびえていました。姫路城といえば大手前から眺めた姿のイメージが強いのですが、こちらの喜斎門跡から眺めた真横の姿も最近は「映える」として注目を集めています。

三の丸広場

搦手から三の丸広場へ出て姫路城の天守閣を眺めてみました。

姫路城の桜

三の丸広場では桜のつぼみが膨らみかけていました。訪問時は見ごろまでまだ時間がかかりそうでしたが、ちょうど今頃は満開になってるそうです。

この春は桜の海に包まれた姫路城だけでなく、城がたどってきた歴史を訪ねてみながら、お花見を楽しんでみてはいかがでしょうか。

間もなく花の季節・姫路城を歩いて(前編)

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桜の便りも届くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城ループバス

山陽姫路駅前から姫路城ループバスで着いたのは姫路城の東側です。ループバスは長らくボンネットバスでしたが、2月から新たに登場した電気バスで運行されています。

姫路市立美術館

バス停の前にあるのが姫路市立美術館です。
姫路城をバックにそびえる重厚なレンガ造りの建物は迫力がありますね。

現在、姫路市立美術館として使われている建物はもともとは旧日本陸軍の姫路陸軍兵器支廠の西倉庫として明治38(1905)年に建てられたものです。現在は多くが公園や緑地となっている姫路城ですが、かつては陸軍の諸施設が置かれていました。明治維新直後、一度国有化された姫路城は競売によって民間に売却されます。のちに再度国有化された後は兵部省(のちに陸軍省)の所管となって城内やその周辺は練兵場や軍の施設が建ち並ぶようになります。もともと城郭は軍事施設なので、時代が変わっても同じような役割を果たしていると考えると興味深いですね。

市立美術館を眺める

庭園から美術館の建物を眺めてみました。姫路城の軍事施設は後に移転などで姫路を離れ、最終的には昭和20(1945)年の姫路大空襲で多くが焼失してしまいますがこちらの倉庫は残されて、戦後は姫路市役所の庁舎として使われていました。現在のように美術館になったのは昭和58(1983)年のことです。

内堀と市立美術館

姫路市立美術館の裏手は姫路城の内堀で、天守閣も間近です。

次回は花の季節を待つ姫路城を歩いてみたいと思います。

南畝丘と皿屋敷の伝説・姫路を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて姫路を歩いてみたいと思います。

モノレール跡

十二所神社を後にして、姫路の市街を歩くことにしました。飾磨駅から北上してきた山陽電車の高架橋が山陽姫路駅へ向かってカーブを描くあたりに、巨大な橋脚が佇んでいます。こちらは昭和41(1966)年に開業した姫路市営モノレールの橋脚の跡です。姫路駅と手柄山の間を結んでいましたが、利用が伸び悩み、わずか8年で休止となってそのまま廃止されてしまいました。

街中に残る橋脚

市街にはモノレールの橋脚をいくつも見ることができます。再開発などでモノレールの廃線跡の橋脚は徐々に撤去が進んでいますが、今も市街地では一部の橋脚が残されています。

大将軍駅跡

橋脚沿いに歩いていくと、弧を描くような形の空き地がありました。こちらは姫路市営モノレールの大将軍駅の跡です。大将軍駅はマンションの中をモノレールが通り、3階と4階に駅が設けられているといなんとも未来的な構造の駅でした。モノレールの廃止後も長らく残されていましたが、平成28(2016)年に解体されてしまいました。跡地は再開発される予定でしたが、地中に残された杭の撤去が困難なため、今も空き地で残されています。

大将軍神社

ところで、大将軍駅「大将軍」は城下町に由来するようにも思える不思議な名前ですね。駅名の由来となったのが船場川沿いにあるこちらの神社、大将軍神社です。

大将軍神社は今では新幹線や姫新線の高架橋に囲まれてひっそりとたたずむ神社ですが、前回訪ねた十二所神社の御旅所とされています。元々の十二所神社はこの地にあったとされていて、この辺りの地名は「南畝町」、十二本のヨモギが生えたという伝説のある南畝丘があった場所とも言われています。現在では市街化や鉄道の建設などで地形も変わってしまい、丘の痕跡すらわからなくなってしまいました。今では地名に名残を感じるのみです。

姫路城を眺めて

大将軍神社から姫新線の高架沿いに歩いて姫路駅前へ戻ってきました。大手前の向こうには姫路の象徴・姫路城が城壁を輝かせています。

姫路は間もなく花の季節。お城の桜とともに、伝説に彩られた市街を歩いてみてはいかがでしょうか。

南畝丘と皿屋敷の伝説・姫路を歩いて(前編)

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そろそろ桜の季節と思ったら急に冷え込みが戻ってきた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽姫路駅へ

山陽電車の直通特急に乗って着いたのは山陽姫路駅です。

十二所前線

姫路駅前から山陽姫路駅や山陽百貨店の少し北側の道を歩いてみることにしました。こちらの道路は十二所前線で、さらに北側を通る国道2号線が姫路市街で東行き一方通行に規制されていて、西行き一方通行のこちらは国道の西行き車線としての機能を担っているため、交通量が多く賑やかな道です。

十二所神社

十二所前線の「十二所」の由来となるのがこの道路沿いに鎮座する十二所神社です。

十二所神社の歴史は非常に古く、はるか平安時代に遡るといわれています。延長6(928)年、村人が疫病で苦しんでいた時にこの地にあった南畝丘という丘に一夜にして十二本のヨモギが生え、そのヨモギで体をさすれば病が癒えるとの神託がありました。のちに村人たちがヨモギの生えた南畝丘に社を建立したのがこの神社の始まりとされています。江戸時代に南畝丘から今の場所へ神社は遷されますが、今も医薬の神とされる少彦名神が祀られています。また、社殿に掲げられている幕に描かれた紋章も創建の伝説に因んだヨモギの葉ですね。

お菊神社

十二所神社の境内にはもう一つ社殿が佇んでいます。こちらはお菊神社です。「お菊」とは播州皿屋敷の伝説の女性です。室町時代後期の永正年間にここ姫路城下であった横領未遂事件にちなみ、井戸に投げ込まれた女性を祀る神社として創建されたとされています。

烈女碑

境内にはお菊にちなんだ「烈女」と刻まれた石碑がありました。

お菊神社の創建に関する記録は太平洋戦争中の姫路空襲で社殿とともに焼けてしまったそうで、詳しいことは分かっていません。また、江戸の番町皿屋敷のように同様の話が各地に伝わっているため、ここ姫路の伝説もあくまで伝説なのかもしれませんが、のちの時代にお菊は罪を着せられ、井戸に投げ込まれて幽霊になっても主君に報いようとしたとして、深く信仰されるようになったといわれています。

間もなく桜の季節だというのに姫路は雪がちらつきはじめました。
静かに春を待つ姫路の街をもう少し歩いてみたいと思います。

春を待つ明石港を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。

材木町の街並み

入り江状になった明石港の西側を歩いてみることにしました。この辺りの地名は材木町です。明石城の築城の際に港に近いこの辺りに材木商が集められたことが由来だそうです。

現在のような明石の街が整備されたのは江戸時代の初めの元和3(1617)年に明石藩が設置されてからのことです。初代藩主となった小笠原忠政(忠真)は当初は西新町駅近くの船上城に入城しましたが、当時の将軍・徳川秀忠の命で現在の位置に明石城を築城し、城下町の整備を始めました。当時の城下町は東側に町人や職人の町、中央部には商人の町、そして、西部には廻船問屋や船大工の集まる港湾関係者の街に大きく分けられていました。この時、中央部に設けられた商人町では明石で水揚げされる海産物や加工品が取引されて大変にぎわった町となり、後に前回訪ねた魚の棚商店街へと発展していくことになります。

岩屋神社

材木町の一角に大きな神社がありました。こちらは岩屋神社です。

岩屋神社の境内

岩屋神社ははるか神代の成務天皇13年(143)年に対岸の淡路島の岩屋から遷ったのが始まりと言われ、非常に長い歴史をもっています。そのせいか、境内もどこか趣のある雰囲気ですね。淡路島から遷ったという伝説に因んで、毎年7月には海に船を出す「おしゃたか舟神事」が執り行われています。古くから港湾関係者の多いこの辺りの地区では航海の安全を願う神社として古くから信仰されていたようですね。

旧波門崎燈籠堂

住宅地を通り抜けて港の先端に着きました。岬のように飛び出した護岸には石造りの灯台が佇んでいます。こちらは旧波門崎燈籠堂で、江戸時代に作られた灯台です。現在に残る燈籠堂は江戸時代の初め頃に設けられたもので、以来、明石港を出入りする船の目印としての役割を果たしてきました。戦後の昭和38(1963)年に新しい灯台が建設され、この燈籠堂は役目を終えましたが、今もこの地で明石港を見守っています。

明石港を眺めて

燈籠堂から明石港を眺めてみました。ビルに囲まれた港を、ちょうど淡路島へ向かう高速船が出港していきます。明石は間もなく春本番を迎えます。明石海峡で水揚げされた様々な海産物で魚の棚が賑やかになるまでもうすぐですね。

淡路島への船が大橋をくぐって見えなくなるまで見送ってから、明石港を後にすることにしました。

春を待つ明石港を歩いて(前編)

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桜のつぼみも膨らみ、春本番が間近の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

魚の棚

山陽電車で着いたのは山陽明石駅
駅の浜側には明石の台所「魚の棚」の商店街が続いています。大漁旗が並ぶアーケードの下の店では明石の海で獲れた海産物を扱う店が軒を連ねていました。

魚の棚の西側

魚の棚商店街を通り抜けて西側に出ると、南北の道と交差しました。道は緩やかにカーブを描いています。こちらは山陽電車の前身の兵庫電気軌道の線路跡です。

山陽電車の前身の兵庫電気軌道が開業したのは明治時代の終わりの明治43(1910)年のことです。当初は兵庫から須磨までの間の路線でしたが、順次西へ西へと延伸し、大正6(1917)年4月12日に明石へと到達しました。当時の路線は現在の山陽電車の本線から浜側の国道2号線沿いに敷設されていて、山陽明石駅前の明石駅前交差点付近に「明石駅前駅」、そして、国道から海に向かって曲がったこの辺りに「明石駅」が開設されました。

明石港

南北の道を歩くとジェノバラインの明石港にたどり着きました。

当時の明石駅が担っていた重要な役割が淡路島方面への航路との接続で、ここ明石港からは播淡聯絡汽船の航路が淡路島の岩屋へと出ていました。運営会社は変わりましたが、今もここ明石港からは岩屋へと高速船の航路が出ていて、明石海峡架橋後も日常の足として利用されています。一方、淡路島との連絡の役割を担っていたかつての明石駅はというと、神戸~姫路間の直通運転の開始に伴なう明石駅前の線路が付け替えのために昭和6(1931)年に廃止されてしまいました。今では道路の形状にかすかに線路の名残を感じるのみです。

明石港と淡路島を眺める

明石港から淡路島を眺めてみました。なだらかな丘陵が広がる本土側とは違い、対岸の淡路島側は険しい山々が連なっています。

海の幸に恵まれた明石港、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

梅の咲く須磨を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨寺界隈を歩いてみたいと思います。

綱敷天満宮

須磨寺駅から浜側へ向かって住宅地の中を歩くと、綱敷天満宮がありました。

綱敷天満宮の境内

綱敷天満宮の境内は多くの参拝客でにぎわっています。

綱敷天満宮は平安時代、左遷された菅原道真が九州・大宰府へ向かう途中にこの地に立ち寄ったことに由来して建立された神社です。少し不思議な神社の名前は須磨の漁民が綱を丸く置いて作った円座に道真が座ったという伝説にちなんでいます。なお、「綱敷」という名前の神社は各地にあり、それぞれにここ須磨と同様の伝説が残されています。こちらの須磨の綱敷天満宮が神社の姿になったのは天神への信仰と道真が結びついた天神信仰の広まった平安時代とされていて、天元2(979)年の建立とも伝わっています。

綱の円座

境内には伝説にちなんで綱でできた円座のモニュメントがありました。ちなみに、ここ須磨で道真が休憩した際に井戸水を汲んで飲ませた人物は後に前回訪ねた「頼政薬師」浄福寺を建立した前田氏の祖先といわれています。また、道真が水を飲んだ井戸は「菅ノ井」と呼ばれ、今も須磨寺駅と月見山駅の間に残されています。

梅林

綱敷天満宮の境内では甘い香りが漂ってきます。香りの元は境内に広がる梅林で、訪れたときはちょうど梅の花が見ごろでした。

梅林の梅

境内をかわいらしい梅の花が彩っています。こちらの梅林には様々な種類の梅が植えられていて、それぞれの花や香りを楽しむことができました。

梅林を眺めて

青空に向かって咲き誇る梅の花を見上げてみました。甘い香りに包まれるような梅林は多くの参拝客でにぎわっています。

しばらく梅林の中で花を楽しみ、源頼政や菅原道真の伝説に彩られた須磨の地を後にすることにしました。

梅の咲く須磨を歩いて(前編)

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寒さの中に春の気配を感じる頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

須磨寺駅

山陽電車で着いたのは須磨寺駅です。

須磨寺への道

須磨寺駅の山側には商店街が続いています。正面の山の麓には駅名にもなっている須磨寺がありますが、今回は反対側の浜側へ歩いてみることにしました。

頼政薬師

早速浜側へと歩きたいところですが、駅のすぐそばで細い踏切を渡ってみることにしました。踏切の先にあったのは住宅の中に佇む小さな寺院です。こちらは浄福寺といい、「頼政薬師」とも呼ばれています。

浄福寺は西須磨の前田氏という旧家の建立と伝わる古刹です。「頼政薬師」という別名は荒廃していた寺院を平安時代の末の久寿元(1154)年頃に源頼政が再建したことにちなんでいるとのこと。ご本尊の薬師如来像は聖徳太子の作、脇士の十二神将は江戸時代に尼崎藩主の青山氏から寄進されたものと伝わっています。

頼政薬師の境内

長い歴史のある寺院ですが、現在の本堂は阪神淡路大震災で倒壊した本堂を再建したもので真新しい見た目です。ちなみに、明治時代にはこの場所に一ノ谷小学が開設され、のちに現在の西須磨小学校になったそうです。境内にはそのことを記した石碑が建てられていました。

薬師踏切

頼政薬師の前には山陽電車の踏切があります。ちょうど直通特急が住宅の合間をレールを軋ませながらせながら通過していきました。

春本番を待つ須磨の街をもう少し歩いてみたいと思います。