北野坂から二宮を歩く(前編)


早秋の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三宮

今回降り立ったのは神戸の都心の三宮。
駅前では阪急神戸三宮駅の新駅ビルが工事中です。

北野坂

三宮から繁華街の中を貫く北野坂を歩くことにしました。

北向地蔵

繁華街の雑居ビルに埋め込まれるようにして佇んでいるのは北向地蔵です。

現在は三宮の東側を流れている生田川(新生田川)ですが、かつてはこの傍のフラワーロードを流れていました。昔、その生田川が大雨で増水し、堤防が決壊しかかっていたところをこのお地蔵さんが防いだという言い伝えがあります。お地蔵さんの名前の「北向」というのはかつての堤防があった方を向いていることに因んでいるとのこと。

北野坂の眺め

北向地蔵からさらに歩くと、六甲の山々が近づいてきました。街路樹とビルの合間からは北野異人館街の風見鶏の館が見えます。神戸らしい印象的な景色ですね。

神戸にいるとあまり訪れないかもしれない北野坂、もう少し歩いてみたいと思います。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて津守を歩いてみたいと思います。

鶴見橋跨線橋

「汐見橋線」沿いに歩いていると古めかしい陸橋が見えてきました。こちらは鶴見橋跨線橋です。もともとは大阪市電阪堺線(三宝線)が「汐見橋線」を跨ぐために設けられたものでした。現在は道路橋となっています。

津守神社

鶴見橋跨線橋の先にあったのは津守神社です。

日本の近代化に伴い工業が発達し、現在は住宅も目立つ津守ですが、もともとは淀川河口から堺へと海沿いに広がる新田の一部「津守新田」でした。津守の新田開発が始まったのは江戸時代の初めの元禄11(1698)年の頃と言われています。大阪湾岸では江戸時代の初めから河川の改修と合わせて新田開発が行われ、広大な田んぼが広がっていました。現在、大阪湾岸には工業地帯が広がっていますが、その土地を生み出したのは江戸時代の新田開発にあったともいえるのでしょうか。津守新田も大阪湾岸の新田の一つとして開発されました。

津守神社の境内

津守神社は津守新田の鎮守として創建された神社と伝わっています。目の前には幹線道路の新なにわ筋が通っていますが、神社の境内は都会の喧騒から離れた静かな雰囲気でした。

津守新田会所跡

津守神社の向かいの小学校・幼稚園の敷地に石碑がありました。小学校と幼稚園はすでに閉校・閉園されていて門は固く閉ざされているのですが、柵の隙間から石碑を見ることができます。こちらは「津守新田会所跡」の石碑です。会所は新田で小作料の徴収を行なったり幕府へ年貢を納めたり、その他、田んぼの維持修繕などを行なう役場のような施設でした。この場所で津守新田の行政を司っていたのですが、今は石碑がその存在を伝えるのみです。

西天下茶屋の街並み

阪神高速の高架を潜ると西天下茶屋の街並みが続きます。

西天下茶屋駅

街の中にあったのが西天下茶屋駅
今は時折電車がやってくる小さな駅ですが、おしゃれな窓があり、丸みを帯びた屋根の駅舎はかわいらしく趣がありますね。かつて高野山への路線として賑わった時代を今に伝えているようです。ホームに上がると、ちょうど電車がやってくるところでしたので、このまま汐見橋に戻ることにしました。

現在は住宅が中心の静かな町となっている津守ですが、歩いてみるとそこかしこに新田開発、そして、工業地帯として大いに繁栄した痕跡を見出すことができます。これから気候のよい秋、買い物ついでに足を延ばしてみませんか。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(前編)


残暑厳しい中に秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

津守駅

阪神なんば線から乗り換えた南海電車で到着したのは津守駅。南海高野線の「汐見橋線」とも呼ばれる区間にある駅です。

汐見橋線

「汐見橋線」
とも呼ばれる岸里玉出~汐見橋間が開業したのは明治33(1900)年のことです。当時物資の集散地として賑わっていた木津川に高野山からの木材などを運搬することを計画したといわれています。津守駅の一駅北側の木津川駅には今でも広い貨物駅の跡が広がっています。しかし、早くも昭和4(1929)年には、高野山方面の列車は便利な難波駅に発着するようになり、この区間は支線となってしまいます。現在では2両編成の電車が行きかうどこかのんびりした雰囲気の路線です。

大日本紡績津守工場跡

駅前には西成公園と高校の広々とした敷地が広がっています。かつてこの地には大日本紡績津守工場がありました。明治42(1909)年に操業を開始したこの工場は当時日本最大規模の紡績工場で、この工場への通勤客で津守駅は非常に混雑したといわれています。当時の地形図を見ると、木津川の左岸、田んぼの広がる中に巨大な工場が記されています。日本の綿産業を支えた大工場ですが、太平洋戦争中の空襲で焼失。残された設備で鉄工所となったようですが、それも廃業してしまいました。

津守商店街

駅の近くには大阪らしい雰囲気の商店街がありました。

古い地形図を見ると、大日本紡績の他にも津守には多くの工場があったことがわかります。かつては住宅地となっている現在とは全く違う景色が広がっていたのでしょうか。

もう少し、津守を歩いてみたいと思います。

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須磨・若宮を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨を歩いてみたいと思います。

旧和田岬灯台

青々とした松が美しい須磨海浜公園の外れに赤い灯台を見つけました。こちらは旧和田岬灯台です。かつて和田岬にあった灯台で、工場用地となるためにこの地へ移転し、保存されています。

須磨海岸

旧和田岬灯台の傍には須磨の海岸が広がっています。海水浴場として人気の海岸ですが、今年は神戸を直撃した台風の影響で早々と終了してしまいました。

神戸市立須磨海浜水族園

須磨海浜公園の中で目立つのがこちらでしょう。三角の建物が印象的な須磨海浜水族園です。

神戸の水族館は明治28(1895)年に和田岬に設けられた和楽園水族館が始まりとされ、それが湊川神社に移転しました。昭和5(1930)年には湊川公園に「湊川水族館」が設けられ、太平洋戦争が激しくなる昭和18(1943)年まで営業をしていたようです。現在の須磨の地に水族園が設けられたのは戦後の昭和32(1953)年のことでした。山陽沿線では人気のスポットですが、背景には深い歴史がありますね。ちなみに、諸説あるようではありますが、和田岬に設けられた和楽園水族館は日本初の水族館とも言われています。

衣掛町

須磨海浜水族園の前の交差点の名前を見てみると、「衣掛町」とありました。この「衣掛」という名前は前回訪ねた松風村雨の物語に因んだもので、周辺には他に「松風町」「村雨町」「行平町」といった地名があります。

若宮神社

須磨海浜水族園から少し歩いた町中に小さな神社がありました。こちらは若宮神社です。もともと、平安時代頃にこの辺りの氏神様として建立された神社で、この神社に因んで周辺の地名は「若宮町」となり、阪神高速のインターの名前にもなりました。道路交通情報などではよく耳にする名前ですが、実際に訪れてみるとこういうところだったのかという発見になりますね。

住宅地と行楽地としてのイメージが強い須磨・若宮界隈ですが、古代からの長い歴史が息づいているような気がします。夏の終わり、水族園とともに歴史の街を歩いてみませんか。

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須磨・若宮を訪ねて(前編)


残暑厳しい頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

月見山駅

山陽電車で到着したのは月見山駅

厄除八幡神社の碑

駅の近くに「厄除八幡神社」と書かれた石碑がありました。この辺りに八幡神社はあったか? と思ってしまいますが、この石碑は多井畑厄除八幡神社を示したものです。今の感覚では随分距離があるような気がしますが、かつてはこの辺りが多井畑への玄関口でした。

離宮道

駅から西へ少し歩くと、松並木が美しい道に出ました。こちらは離宮道です。この山側にある武庫離宮(現在の須磨離宮公園)への道として設けられました。

松風村雨堂

離宮道沿いにあったのが松風村雨堂です。平安時代の仁和3(887)年、京で左遷された在原行平はここ須磨の地へ流されました。ここで多井畑の村長の娘の「もしほ」「こふじ」姉妹と出会い、それぞれ「松風」「村雨」と名付けます。後に行平は京へ戻ることとなり、姉妹はこの地に庵を編んで行平を偲んだといわれています。後に庵の跡にはお堂が建てられました。

松風村雨堂の境内

境内に入ると小さなお堂が並んでいました。先ほど、多井畑厄除八幡神社の石碑を見てきましたが、松風村雨姉妹も多井畑からここまで通ってきていたようですね。須磨と多井畑は今の感覚よりはるかにつながりが強かったのでしょう。ここ須磨と多井畑や、板宿と太山寺など海沿いの街と内陸の寺社との関係を見ていくと、古来の交通路の姿が薄らと浮かび上がってくるような気がしますね。

商店が建ち並びどこか懐かしい雰囲気のこの辺りですが、平安時代からの古い歴史あるスポットが点在しています。もう少し歩いてみることにしましょう。

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幻の海水浴場・香櫨園浜を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、香櫨園を歩いてみたいと思います。

夙川河口

オアシスロードを歩いていくと木々は途切れ、防波堤のような擁壁に真夏の日差しがじりじりと照りつける道に出ました。夙川の河口は目の前です。

御前浜

コンクリート造の階段を下りると浜辺に出ました。こちらは御前浜です。といっても、目の前に人工島があるためあまり海の雰囲気はありません。遠くには独特なデザインの芦屋浜高層若葉町住宅を眺めることができます。

香櫨園浜の名残

浜辺は草が生えていてあまり海水浴という雰囲気ではありませんが、散策をする人の姿をちらほら見かけました。所々にコンクリート製の何かの残骸が砂に埋もれるように佇んでいます。

この地に海水浴場「香櫨園浜海水浴場」がオープンしたのは明治も終わりの明治40(1907)年のことです。幕末に砲台が設けられて防衛拠点だったこの浜を阪神電車が払い下げを受け、隣の打出にあった海水浴場を移転して開設されました。大正時代には前回説明した香櫨園遊園地の一部の施設が移転し、一大行楽地としてさらに賑わうことになります。戦時中に一時閉鎖されたことはありますが、賑わいは戦後まで続きました。砂に埋もれるコンクリートは当時の施設の跡なのでしょうか。

西宮砲台

浜の外れの松林の中に円筒形の巨大な施設がありました。こちらは西宮砲台です。

西宮砲台が造られたのは幕末の慶応2(1866)年のこと。大坂湾の防衛のために設けられたのですが、竣工して程なく明治を迎え、実戦で使用されることはありませんでした。周辺をフェンスで囲まれていて中を見学することはできないのですが、明治17(1884)年に発生した火災で木造部分が焼失してしまったそうです。この地に海水浴場があったころにはこの砲台の周辺にも様々な施設が設けられ、多くの行楽客で賑わったそうです。

香櫨園浜を眺める

再び香櫨園浜を眺めてみることにしました。賑わった海水浴場は水質の悪化などにより昭和40(1965)年に閉鎖。代替にプールが設けられましたが、それも今はありません。大坂湾の防衛拠点、そして、行楽地として賑わった浜は今、静かに佇んでいます。

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幻の海水浴場・香櫨園浜を訪ねて(前編)


暑い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

香櫨園駅

阪神電車に乗り換えて到着したのは香櫨園駅夙川の川の上にあり、涼しげな木陰が続いていますが、蝉時雨が否が応でも夏を感じさせます。

香櫨園駅を眺める

香櫨園駅は今では高架駅になっていますが、どこか趣のあるデザインです。私の記憶の中にある高架化前の駅舎はレンガ造りのかわいらしい駅舎で、高架化後の新しい駅舎もその伝統を受け継いでいるのでしょうか。

夙川沿いを歩く

香櫨園駅から夙川沿いを歩くことにします。

香櫨園の地名は明治時代の後半の明治40(1907)年に開設された香櫨園遊園地に由来しているとされています。その遊園地があった場所はというと夙川の上流、阪急神戸線より北側で、現在香櫨園と言って思い浮かべる地区からは随分と山手でした。古い地形図を見ると池や「香櫨温泉」の文字もあり、遊園地と温泉を楽しめる行楽地であったことが伺えます。この遊園地は程なく廃園となって、跡地は住宅地として開発されることとなり、遊園地の一部は現在、香櫨園と言われてイメージするこの辺りに近い夙川河口付近に移転することとなりました。

オアシスロード

夙川の東側に渡ると、オアシスロードという道が続いています。現在は川辺の静かな遊歩道ですが、かつて、この道を香櫨園へのシャトルバスが行きかっていたそうです。周辺は遊園地としてにぎわっていたことが信じられないような静かな住宅地が広がっています。

次回も香櫨園を歩いてみたいと思います。

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阿閇の津・本荘を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、播磨町の本荘を歩いてみたいと思います。

阿閇神社

少林寺の隣に大きな神社がありました。こちらは阿閇(あえ)神社です。

阿閇神社の境内

境内は広々としていて、古い神社であることを伺わせます。本殿は珍しい形式で県の文化財に指定されているそうなのですが、訪れた時は桧皮の葺き替え工事中で仮囲いがなされていました。残念ですが、工事完了後に再訪することとしましょう。

阿閇神社の創建時期ははっきりとしていないようですが、一説では奈良時代の創建ともされ、非常に長い歴史を持っています。古代から近世にかけて、この地は「阿閇の津」とも呼ばれ、瀬戸内海航路の港のひとつとして栄えていたそうです。この神社の祭神は各地にある「住吉神社」とほぼ同じ住吉三神と神功皇后で、航海の安全を祈願して神社を創建したのでしょうか。ちなみに、神社の周辺の土地は住吉大社の荘園だったとも言われ、住吉と深いつながりがあったと考えられています。

蓮花寺

阿閇神社の北側へ歩くと、木々が生い茂る静かな寺院がありました。こちらは蓮花寺です。

蓮花寺の境内

蓮花寺は山門の鐘楼が印象的な寺院ですが、境内はひっそりとしています。今は静かな寺院ですが、この蓮花寺はかつて、戦いの舞台となったこともあるとされています。

天正6(1578)年、三木合戦の際、ここ阿閇の地は瀬戸内から三木への補給ルートの上に位置し、戦略上重要な拠点とされていました。この地に築かれた阿閇城には三木城の援護に毛利水軍が迫り寄ってきました。それに立ち向かったのが黒田官兵衛率いる軍でした。官兵衛は10倍以上の数の毛利軍を打ち破り、三木への補給ルートを断つことに成功しました。官兵衛がいた阿閇城はこの蓮花寺の位置にあったとも言われていますが、その他にも候補とされる場所があり、はっきりとしたことはわかっていません。

蓮花寺を眺める

蓮花寺を出ると、本荘の田園風景が広がっています。青々とした田んぼの向こうには蓮花寺の鐘楼を眺めることができました。かつては阿閇と呼ばれ、海上交通の要所となり、戦いの舞台にもなった本荘ですが、今は静かに時が流れています。

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阿閇の津・本荘を歩く(前編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回まで播磨町の古宮を歩いてきましたが、今回から隣の本荘を歩いてみたいと思います。

本荘下橋

古宮から旧浜街道沿いに歩くと、喜瀬川に架かる橋に差し掛かりました。この橋を渡った西側が本荘です。

喜瀬川を眺める

橋の上から川を眺めてみました。橋から河口は間近で、海の気配を感じられます。ただし、河口付近は埋め立てられていて、かつての海岸線は町割りに名残を残すのみです。

浜街道の街並み

喜瀬川を渡り、本荘に入ります。旧街道沿いには風情ある街並みが続いています。

今の山陽電車の播磨町駅はかつて「本荘」という駅名でした。そのせいか、「本荘」=「播磨町」と思ってしまいそうになりますが、もともとの本荘は阿閇村と呼ばれていたこの辺りの一地区の地名でした。ちなみに播磨町駅のある辺りには川端という集落があったようですが、今では一続きの住宅地になっています。

漁村の雰囲気

かつては本荘の集落のすぐ近くに海岸線がありましたが、現在は埋め立てられ、工業地帯となってしまいました。ただ、集落の中の道を歩くと、漁村の雰囲気を今も感じることができます。

少林寺

浜街道から横道に入ると、少林寺という立派な禅宗寺院がありました。ゆったりとした境内で、由緒がありそうですが、詳しいことはわかりませんでした。それにしても、古宮の良仙寺といい、禅宗が多いような気がします。

次回も、本荘を歩いてみたいと思います。

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播磨灘を望む・古宮を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、播磨町の古宮を歩いてみたいと思います。

ジョセフ・ヒコ生家跡

古宮の町中を歩いていると、ジョセフ・ヒコの生家跡なる空き地がありました。ヒコはここ古宮に生まれたものの、母の再婚に伴い、隣村の浜田村(現在の本荘)に引っ越しています。

帰国後、アメリカ領事館で通訳として働いていたヒコですが、程なく渡米、再び帰国したのちに領事館で働き始めますが、一年で辞めて商社を設立、さらに元治元(1864)年には横浜で日本で初めての新聞「新聞誌」を発刊しました。ちなみに、この時期、ヒコはまだ20代前半だったそうで、なんとパワフルなことかと驚いてしまいます。「新聞誌」は発刊の翌年に「海外新聞」と改題し、26号まで発行されたそうです。

古宮漁港

路地を抜けると古宮漁港に出ました。南側に人工島があるため水平線はあまり見えないのですが、夏の海はまぶしいくらいに輝いています。

古宮住吉神社

海沿いを歩いていると古宮住吉神社にたどり着きました。海沿いにひっそりとある神社ですが、境内は広く、門は立派です。創建時期は不明とのことですが、歴史のある由緒ある神社のようです。

常夜燈碑

境内には石碑がありました。こちらは常夜燈碑と呼ばれています。

かつてこの場所には常夜灯がありました。戦国時代、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する際に古宮の沖合を航行していたところ夜間に海が荒れはじめたのですが、村人が灯したこの常夜灯の明かりを目印に無事上陸し避難することができたという伝説が伝わっています。「古宮」の地名はこの時に秀吉が命名したとのこと。

海側を眺める

この古宮住吉神社も海に向かっている神社で、村人が普段参拝に使う参道は東側に伸びています。現在、神社の海側には人工島が造成され、境内からは水面がわずかに見えるだけですが、かつては、朝鮮へ向かう豊臣秀吉が上陸し、ジョセフ・ヒコが漕ぎ出した播磨灘が門の向こうに広がっていたのでしょう。ちなみに、ジョセフ・ヒコが漂流する際に乗っていた船は「住吉丸」という名前だそうです。

神社の前に残るかつての防波堤に沿って、古宮を後にすることにしました。

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