四宮を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、元町駅界隈を歩いてみたいと思います。

明治天皇臨幸記念碑

下山手通沿いにひっそりとあったのが「明治天皇臨幸記念碑」と刻まれた石碑。
明治13(1880)年の明治天皇の行幸を記念して建てられたものです。当時、明治天皇は神戸師範学校(のちの神戸大学)の視察などを行なったそうです。

山手へ

兵庫県庁の横手から入り組んだ坂道を上り、さらに山手へ向かうことにします。市街地で多くの道が直線で作られている中、妙に曲がったこの道はちょっと気になるところです。古い地形図を見てみると、中山手通が設けられる前からある道のようで、大昔から山手へと上る道としてあったようです。

四宮神社

中山手通に出ると、交差点の向こうに朱塗りの鳥居が見えました。こちらは四宮神社です。

四宮神社は生田裔神八社の一つで、市杵島姫命をまつっています。この市杵島姫命は弁財天と同神ともされていて、境内には「弁財天」赤い幟が立ち並んでいます。創建時期は不明ですが、現在の場所に移ったのは幕末の安政元(1854)年のことです。古い地形図を見ると、先ほどの曲がった坂道の辺りまでが境内だったようですが、明治6(1873)年に開通した中山手通の建設の際に境内の一部を提供し、現在の姿に落ち着くことになりました。

四宮神社の境内

四宮神社の境内は神社のビルとマンションに挟まれて少々窮屈ですが、歴史ある神社の風格を感じることができます。

市街地の元町界隈ですが、少し歩いてみると近世・近代の名残を見つけることができます。お買い物の際などに散策してみてはいかがでしょうか。

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四宮を訪ねて(前編)


春の暖かさを感じる日が増えつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

元町駅

直通特急で到着したのは元町駅

福建商業會議所の碑

駅の北側に出ると、ビルの中に埋もれるように「福建商業會議所」と書かれた石碑がありました。

近世~近代にかけて、開港地となった神戸には欧米人だけでなく多くの華僑が移り住み、貿易などに携わっていました。この華僑たちは三江地域と呼ばれる浙江省などの長江下流域、広東省、福建省など大陸南部の出身者が多く、それぞれの出身地でグループを作っていました。神戸の開港から日清戦争までの間に神戸の華僑は増加し、出身地域ごとに商人の団体を設けるまでになりました。この福建商業會議所は福建省出身者が設立した団体です。

兵庫県公館

山手に緩やかな坂道を上ると、兵庫県公館の前に出ました。兵庫県公館は明治35(1902)年に県庁舎として建てられたもので、今は迎賓館と資料館として使われています。木々に囲まれた明治の建物は存在感がありますね。

神戸栄光教会

公館の裏手に回ると、下山手通に出ました。通に面してそびえるのは神戸栄光教会の鐘楼と礼拝堂です。神戸栄光教会は大正11(1922)年にこの地に建てられましたが、当時の協会は阪神・淡路大震災で倒壊してしまいました。現在の建物は平成16(2004)年に再建されたものですが、レンガ造りの外観は初代の協会を踏襲したものです。

行政機関が集まる静かなこの界隈ですが、近代の日本や、中国、欧米の気配を感じ、神戸らしい雰囲気を感じますね。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、岡本を歩いてみたいと思います。

岡本八幡神社

住宅地の坂道を上っていくと、神社がありました。こちらは岡本八幡神社です。

岡本八幡神社の境内

木々に囲まれた境内は意外と広々としていました。岡本八幡神社の創建時期はわかっていないようですが、岡本地区の鎮守として信仰を集めてきたそうです。

岡本梅林公園

岡本八幡神社から少し坂を下ったところに岡本梅林公園がありました。阪急電車の踏切の名前になっていたのはこの梅林でしょうか。

今や住宅地として知られる岡本ですが、かつては「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」と言われるなど、梅の名所として有名でした。この地に梅が植えられた時期はわかていませんが、豊臣秀吉が観梅に訪れた記録もあるようで、中世には梅の名所として知られていたようです。岡本梅林は近代に入ってからも多くの観梅客で賑わい、春には東海道本線や阪神電車が観梅客向けの臨時駅を設けていたようです。明治時代の地図を見ると、山沿いに広大な梅林が広がっていることがわかります。

岡本梅林の梅

岡本の梅は今が見ごろです。公園の中は梅の香りでいっぱいでした。

多くの観梅客で賑わった岡本ですが、昭和13(1938)年の阪神大水害で壊滅的な被害を受けてしまいます。水害で梅林のあった山は崩壊し、梅の木の多くが失われてしまいました。さらに昭和20(1945)年の神戸大空襲でわずかに残った梅も焼失。跡地は住宅地として開発され、梅林は失われてしまいました。戦後すぐの地形図を見ると「岡本梅林跡」という何とも寂しい表記があるのですが、程なく表記もなくなり、岡本の梅林は忘れられていきました。その梅林が復活したのは昭和50年代のことでした。保久良神社の境内に梅が植えられ、後にこの梅林公園が設けられました。毎年梅まつりが開かれるなど、かつての賑わい取り戻しつつあります。

梅と神戸の街

高台にある梅林公園からは梅の花越しに神戸の街を眺めることができます。

岡本の梅は3月上旬頃まで見ごろです。賑わう梅林に「梅は岡本」を感じてみてはいかがでしょうか。

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梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(前編)


明るい日差しに春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

岡本駅

今回降り立ったのは阪急電車の岡本駅
駅の周りは六甲山地を望む住宅地が広がっています。

本山村役場跡碑

住宅地の中にあったのが本山村役場跡の石碑です。

現在は「岡本」として独立した地域となっているこの辺りですが、もともとは武庫郡本山村の一地区でした。戦後、本山村が神戸市に吸収されて東灘区の本山町となり、さらに本山町から独立した岡本という地名となって今に至っています。

保久良の丘を望む

阪急電車の踏切の向こうに六甲山に続く山々を望むことができました。こちらの山は「保久良山」と呼ばれていて、山の上には保久良神社があります。「岡本」の地名もこの保久良の丘の麓にある村だったことからついた名前とも言われています。

新梅林踏切道

そんな保久良を望む踏切の名前は「新梅林踏切道」です。
梅林とは…?

今は住宅地の岡本ですが、かつては今とは異なる景色が広がっていました。
次回はもう少し岡本を歩いてみたいと思います。

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島の城下町・洲本を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて淡路島の城下町・洲本を歩いてみたいと思います。

下屋敷町

外町の通りを歩き、曲田山の麓に出ました。外町の南の端の通りには風情ある街並みが続いています。この辺りはかつて「下屋敷町」という地名で、その名の通り洲本城代・稲田氏の下屋敷があったそうです。

旧益習館庭園

街外れにあったのが旧益習館庭園です。もともとは稲田氏が下屋敷内に設けた西荘の庭園で、幕末の嘉永7(1854)年に稲田氏の学問所「益習館」が移ってきたために、益習館庭園と呼ばれるようになりました。

堀端通

旧益習館庭園から堀端通に戻ります。通の東側が内町で西側が外町で、いずれも洲本の古くからの市街地で、「松の内」とも呼ばれています。

洲本の内町と外町を分けた町割りは徳島藩の藩庁のあった徳島の街づくりを思わせます。ただし、吉野川河口のデルタ地帯に形成されて複雑な地形の徳島と比べると、洲本の町割りはシンプルですね。内町も外町も碁盤の目の整然とした町割りなのですが、なぜか、どちらの通りも堀端通と直角に交わっておらず、今でも内町と外町の境界がはっきりとわかります。近世には、内町には藩の行政機関や藩士の屋敷が多く集まり、外町には町人の町屋が集まっていたようですが、入り組んでいるところもあり、厳然と分けられていたわけではなかったようです。

弁天銀座

堀端通沿いに飲食店の建ち並ぶ道がありました。「弁天銀座」または「新開地」と呼ばれている町です。

厳島神社

通の突き当りに大きな神社がありました。こちらは「淡路島弁財天」とも呼ばれる厳島神社です。先ほどの弁天銀座はこの神社の参道だったのでしょうか。創建時期はわかっていないようですが、近世に洲本の城下町が形成されていく中で造られたのでしょうか。

城下町の街づくりにまで徳島の影響を感じさせる洲本ですが、明治に入り、稲田氏と蜂須賀氏との対立から起こった庚午事変により、洲本を含む淡路島は徳島から切り離され、兵庫県に編入されることになりました。

洲本城を眺める

厳島神社の前からは洲本城の模擬天守を眺めることができました。

徳島と兵庫の間で複雑な歴史を辿ってきた洲本。淡路島の観光地の雰囲気とは少し違った、歴史の積み重ねを感じる街並みをゆっくりと歩いてみれば、新しい発見があるかもしれません。

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島の城下町・洲本を歩く(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、淡路島の洲本を歩いてみたいと思います。

本町

かつて洲本城の内堀だった堀端通を南に向かうと、アーケードのある商店街が見えてきました。こちらは本町の商店街です。

もともと由良にあった城と城下町が「由良引け」によってここ洲本に移ったのは寛永8(1631)年のこと。それ以降、徳島藩蜂須賀家の家老で洲本城代を務めた稲田氏によって江戸時代中ごろにかけて徐々に城下町が整えられていったそうです。現在は堀端通になっている内堀の海側が内町、山側が外町とされ、この本町は外町に形成された商業地でした。

本町の街並み

アーケード街に入ると商店が建ち並び、中には歴史を感じる建物もあって、古くから中心市街として栄えていたことを伺わせます。

淡路信用金庫本町支店

商店街の中で特に目立つのが風格のあるこちらの淡路信用金庫本町支店の建物です。もともとは兵庫農工銀行の洲本支店として建てられた建物で、戦前の昭和10(1935)年の建築です。兵庫農工銀行は戦前戦中に他の県にもあった農工銀行とともに日本勧業銀行(後のみずほ銀行)に統合され、戦後にはここ洲本から撤退してしまいますが、その後には地元の淡路信用金庫がこの建物に入り、今も現役の銀行として使われています。網干の旧網干銀行もそうですが、商店街の中の銀行建築は心惹かれるものがありますね。

外町の街並み

本町商店街から南北の通りを覗いてみると、こちらも風情のある街並みが続いています。

江国寺

通りの突き当りにあったのが江国寺です。

江国寺は洲本城代を務めていた稲田氏の菩提寺です。かつては城や城下町とともに由良にありましたが、「由良引け」で今の洲本に移ることとなりました。江国寺の西側の千草川沿いには他に七つの寺が建ち並んでいて、寺町と呼ばれています。

江国寺の境内

江国寺の本堂は、城代の菩提寺だったせいか、巨大で印象的ですね。

城下町らしい風情ある街並みが今に残る洲本。もう少し歩いてみたいと思います。

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島の城下町・洲本を歩く(前編)


寒さの中に春の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

明石海峡大橋

今回は高速舞子バス停から山陽バスの高速バスに乗り、明石海峡大橋を渡ります。

洲本

高速バスで到着したのは淡路島の洲本
淡路島の中心都市で、多くの建物が建ち並び賑わった雰囲気です。
街はずれの三熊山の頂には洲本城の小さな模擬天守を見ることができます。

淡路島は現在では兵庫県になっていますが、もともとは四国とつながりの深い地域でした。かつての中心地は洲本から海岸沿いに南に下った由良でした。しかし、山が海に迫る由良は土地が狭く、江戸時代の寛永8(1631)年洲本を治めていた徳島藩蜂須賀氏が所謂「由良引け」で城も城下町も洲本に移すことになります。以後、洲本が淡路島の中心として発展することとなりました。

洲本駅跡

街中に淡路交通のバスの車庫がありました。
かつてはここが洲本のバスターミナルで、さらに時代を遡れば、ここ洲本と南あわじ市の福良を結ぶ淡路鉄道の洲本駅でした。淡路鉄道は島内の輸送だけではなく、福良から航路で鳴門・徳島へと連絡していたとのこと。今では神戸・大阪へ高速バスが頻繁に運行する一方で、洲本から徳島へのバスはごくわずかしか運行されていませんが、かつては四国とのつながりが深かったことを伺わせます。

農人橋跡

洲本駅跡から街中を歩いていくと、市役所の真新しい建物の傍らに石碑がありました。こちらは農人橋の跡です。かつてはここに洲本城の堀があり、堀を渡る橋が架かっていたとのことです。

洲本城の堀は

洲本城の堀はほとんどが埋め立てられてしまいましたが、この付近ではわずかでありますが痕跡があります。石碑の向かい側の商店の裏を覗くと、水面を眺めることができました。

「由良引け」で生まれた洲本の城下町。
もう少し歩いてみたいと思います。

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加古川を見下ろす山・日岡を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加古川の日岡を歩いてみたいと思います。

日岡神社

参拝客で賑わう日岡神社の境内。現在の社殿は戦後、火災で焼失したものを再建したものです。

常楽寺

日岡神社の南東に寺院がありました。こちらは常楽寺です。境内は静かで、日岡神社の賑わいからは離れた落ち着いた雰囲気です。

宮内庁管理

常楽寺の裏手の山へ続く道を歩いてみると、厳重な柵と「宮内庁」の文字がありました。以前、神戸市西区の王塚古墳を訪ねた時に見かけたような気が…。

日岡の陵

もうお気づきでしょうが、この山にあるのは宮内庁の管理する陵墓「日岡陵古墳」です。

日岡陵古墳は日岡山の山頂にある古墳です。木々に覆われた今はわかりにくいのですが、五色塚古墳などと同じ前方後円墳で、航空写真などを見ると鍵穴型の古墳の形が何となくわかります。被葬者はわかっていないのですが、日岡神社の祭神・天伊佐佐比古命(あめのいささひのみこと)が安産祈願をしたという景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の陵墓に指定されています。

日岡陵古墳

山道を登り詰めると鳥居と玉垣が見えてきました。山頂付近のこの辺りは前方後円墳の前方部の底面を眺めるような位置です。

この山や神社、加古川線の駅の名前は「日岡」ですが、麓には「氷丘」と書いて「ひおか」と読む学校名もあります。この「ひ」はもともとは「日」でも「氷」でもなく「火」であったとされ、この日岡山が火を焚く…烽火を上げる山だったからと言われています。山頂からは加古川の市街を一望することができ、また、加古川市街からもこの山はよく見えます。日岡陵古墳の被葬者は不明とされていますが、この立地を考えると、加古川下流域のこの辺りを治めた有力者なのではないかという気がします。

加古の流れ

日岡山からは加古川を眺めることができました。この加古川の名前も、日岡山が鹿の背に似ている、日岡山から眺めた加古川の中州が鹿のように見えたなどの伝説から「鹿児川」と呼ばれるようになり、後に「加古川」と書かれるようになったとも言われています。

播磨平野にそびえる日岡山と日岡陵は今も加古の流れを見守っています。

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加古川を見下ろす山・日岡を訪ねて(前編)


寒さも厳しいころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

加古川線

加古川駅から一両の電車に乗って到着したのは加古川線の日岡駅
加古川の隣駅ですが、のどかな景色が広がっています。

日岡駅

日岡駅は加古川線の前身の播州鉄道が設置した駅で、100年以上の歴史があります。駅舎は戦後に改築されたものですが、昔ながらの木造駅舎が残っています。

日岡の街並み

駅から歩いてみることに。加古川沿いにそびえる小さな山の麓に日岡の街が広がっていました。

随身門

街の北側、山の麓に立派な門がありました。こちらは日岡神社随身門です。

日岡神社は東播磨地域では大きな神社で、読者の皆様の中には初詣に訪れたという方も多いのではないでしょうか。大きなだけでなく、古い歴史を持っていて、創建時期はわかっていないものの、一説には奈良時代の天平年間に遡ると言われています。紀元前の第12代景行天皇の皇后の安産を祈願した天伊佐佐比古命(あめのいささひのみこと)をまつることから、安産の神様とされ、多くの人々の信仰を集めています。

日岡神社の境内

まだ正月の雰囲気の残る境内は多くの参拝客で賑わっていました。安産の神様として知られていることから、安産祈願で訪れる人も多く見かけます。

日岡は日岡神社の街…と言いたいところですが、神社の背後にそびえる日岡山にはさらなる史跡があります。次回は日岡山へ登ってみたいと思います。

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太山寺への道・妙法寺川を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、板宿から妙法寺川沿いに歩いてみたいと思います。

那須神社前

禅昌寺から再び市バスに乗り、那須神社前で降りることに。バス停の傍には神社への道がありました。

北向八幡神社

木々の中の細道を歩くと、社殿が建ち並ぶ広場に出ました。こちらは北向八幡神社の境内です。北向八幡神社は大国主命を祀っていて、その名の通り、出雲の方角の北を向いて社殿が建てられています。

平安時代の治承4(1180)年に始まる、治承・寿永の乱…、所謂源平の合戦の際、弓の名手として知られる武将・那須与一は源義経の命でこの北向八幡神社へ武運長久を祈って参拝に訪れ、守護神として信仰したと言われています。その伝説からか、妙法寺川沿いの山中に佇むこの神社は那須与一ゆかりの神社として知られています。

那須神社

北向八幡神社の境内には那須与一を祀った那須神社もあります。現在ではこちらの神社の方が有名になってしまい、神戸市バスのバス停名にもなっています。

萩の寺

北向八幡神社の裏山には寺院が。こちらは「萩の寺」こと明光寺です。こちらの寺院は歴史ある禅宗寺院とのことですが、寺院として整えられたのは江戸時代に入ってからといわれています。秋には境内の萩の花が美しいそうです。

那須与一公墓

北向八幡神社から道路を挟んで向かい側には碧雲寺という寺院があります。この寺院の境内には那須与一の墓があり、「那須与一公墓」の名前の方が知られているようです。伝説では、那須与一は北向八幡神社へお礼参りに訪れた際に亡くなり、この地に墓が造られたとのこと。ただし、那須与一の墓は全国にいくつかあるようで、本墓とされているのは京都・東山の寺院にあるものと言われています。この辺りの真相は謎ですね。

妙法寺川沿いの道

古来より多くの人々が行きかい、歴史の舞台となった妙法寺川沿いの道はここから白川峠を越えて太山寺、そして、明石へと続いていきます。この先を訪ねてみたいところですが、それはまたの機会としましょう。

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