鉄の街・広畑を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、広畑を歩いてみたいと思います。

広畑

広畑の道路は製鉄所の発展とともに整備されたもので、中門通り正門通りと製鉄所を基準とした名前が付けられています。しかし、整然とした通りから脇道に入ると、急に入り組んだ道となり、瓦屋根の家が建ち並ぶ景色が。少し歩いただけで大きく景色が変わり、驚いてしまいます。この辺りが元々の広畑の中心でした。

火の見櫓

集落の中に古めかしい火の見櫓がありました。この場所にはかつて、廣村の役場があったそうです。ここが村の中心であったためか、火の見櫓の傍にあるバス停の名前も「広畑」でした。

姫路藩領だったこの地で新田が開かれたのは江戸時代の後半のことでした。当時の姫路藩では新田開発が盛んに行われていて、大きなものでは御立に堰を設けて夢前川本流の付け替え、川跡の新田を開いたものが知られています。ここ広畑でも遠浅の海を埋め立てて新田開発が行われていました。隣の龍野藩領でも海を埋め立てた新田開発が行われ、こちらは開発を行った人物の名前を取って勘兵衛新田と呼ばれ、今も山陽電車の天満駅の南側に地名が残されています。

廣畑天満宮

広畑の集落の北のはずれに神社がありました。こちらは廣畑天満宮です。もともと広畑は夢前川の対岸にある英賀神社の氏子でしたが、明治2(1869)年に広畑独自の氏宮として天満宮が創建されたものです。

廣畑天満宮の境内

木々が生い茂った境内は静かな雰囲気です。屋根の傾斜がきつい社殿が特徴的ですね。

海を埋め立てる新田開発によって生まれた広大な稲田が製鉄所になり、前回見てきた鉄の街が生まれたのはこの神社が創建されてから70年後のこと。新田の村から鉄の街へ、姿を変えていった広畑を150年もの間、この神社は見つめてきました。

夢前川

廣畑天満宮のすぐそばには夢前川が流れています。下流に目を向けると製鉄所をはじめ、沿岸に建ち並ぶ工場群を眺めることができました。

広畑といえば鉄の街。しかし、町の中に残された鉄の街以前の面影を辿っていくと、変わっていった町の姿を感じることができました。

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鉄の街・広畑を歩いて(前編)


残暑の中に秋の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

広畑駅

飾磨から網干線の電車に乗って到着したのは広畑駅

広畑駅構内

現在の網干線は飾磨と網干の間をワンマン列車が行き交う支線ですが、かつては相生市那波、そして、赤穂までの延伸計画がありました。広々とした広畑駅の構内を見ていると、もし相生までの路線が開業していれば、ここで相生行きの特急と普通車の接続が行われていたのかもしれないと想像してしまいます。

広畑製鉄所

駅から南へ歩くと巨大な工場が見えてきました。こちらは日本製鉄広畑製鉄所です。

今では広畑といえば製鉄所ですが、廣村と呼ばれていたこの地の海岸を埋め立てた土地に製鉄所が設けられたのは昭和12(1937)年のこと。戦時体制下で急速に製鉄所の規模が拡大され、関連工場の設置もあり、一帯は工業地帯として急発展していくことになります。そんな中、山陽電車の網干線が飾磨から日鉄前駅(後の広畑駅)まで開業したのは昭和15(1940)年のことでした。戦後も製鉄所は隆盛を極め、広畑は鉄の街として大いに発展することとなります。

広畑の街並み

山陽電車沿いには製鉄所とともに発展した街並みが広がり、碁盤目の町割に製鉄所に関連する企業をはじめ、多くの企業のオフィスが建ち並んでいます。広畑ならではの景色とでも言えるでしょうか。

広畑といえば鉄の街と言いたいところですが、実はそれだけではありません。
次回はもう少し広畑を歩いてみたいと思います。

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鵯越を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、鵯越を歩いてみたいと思います。

元西神戸有料道路

坂道を上ると、急に開けた道に出ました。神戸市道の夢野白川線で、かつての西神戸有料道路です。多くの車やバスが行き交い、山間にひっそりと佇んでいた鵯越駅とは別世界のようで一瞬戸惑ってしまいます。

大阪湾を見下ろす

道沿いからは神戸の街並みと大阪湾を見下ろす景色を眺めることができました。ちょうど、神戸電鉄の電車が住宅地を縫うように坂道を下りていきました。

鵯越墓園

市道を少し上ると、大きく開けた空間がありました。こちらは神戸市の鵯越墓園です。

逆落としで知られる鵯越ですが、現在神戸市にお住まいの方なら、鵯越といえば墓園のイメージもあるのではないでしょうか。かつては「奥山新田」という山奥の新田に大規模な墓園が整備されたのは実は最近で、和田岬にあった墓地を移転し、昭和7(1932)年に鵯越公園墓地として開設されました。当時は湊西区(のちの兵庫区)の墓地だった鵯越は戦後に市の直営となり、市営の公園墓地として整備されていくこととなります。

鵯越の碑

墓園の入り口には鵯越の碑がありました。

鵯越大仏

墓園の中を歩くと、大仏がありました。こちらは「鵯越大仏」と呼ばれ、昭和7(1932)年にこの墓地が開設された当初に建立されたものです。今では墓園の中にある大仏ですが、当時は墓園の頂上に設けられたのだそうです。

大仏からの眺め

鵯越大仏からは神戸の街を見下ろすことができました。

お盆には鵯越を訪れたという方も、改めて歴史と神戸を見下ろす景色を楽しめる鵯越を歩いてみると、新しい発見があるかもしれません。

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鵯越を歩いて(前編)


夏の日差しの照りつける中に時折涼しさを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

鵯越駅

新開地から神戸電鉄の電車で六甲山の山の中に分け入り、到着したのは鵯越駅

鵯越の街並み

鵯越駅の周辺には複雑な地形の斜面に住宅が建ち並んでいます。
神戸といえば異人館や港が思い浮かぶのかもしれませんが、こういった立体的な住宅地が広がる景色こそ神戸らしい景色ではないかと個人的には思います。

鵯越といえば、「鵯越の逆落とし」が思い浮かぶのではないでしょうか。
所謂「源平の合戦」と呼ばれる治承・寿永の乱の最中の寿永3(1184)年、一の谷の合戦の中で行われたといわれ、源義経率いる軍勢が平家の陣を奇襲した戦いです。物語では、須磨・一の谷の平家の陣の裏手の山を義経の軍勢が駆け下りて奇襲を仕掛けたと言われていますが、ここ鵯越から一の谷までは直線距離でも7kmは離れています。一応、山並みは須磨へ繋がっていますが…。この辺りから、義経の逆落としが行われた場所には諸説があるようで、今もはっきりはしていません。

石仏の道

住宅地の奥に入ってみると、菊水山のほうへとつながる山道がありました。道沿いには石仏が並んでいて、どこか神聖な雰囲気ですが、この道の由来についてはよくわかりませんでした。

氷室神社

山道には氷室神社という神社がありました。
氷室神社といえば、麓の神鉄長田駅近くの神社がこの辺りでは知られていますが、ここ鵯越にも同じ名前の神社がありました。ここにも氷室があったのでしょうか。境内は草木が茂り、鳥居も倒れていて、小さな神社は自然に還ろうとしていました。

鵯越の山の中に佇む歴史の道、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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御影・平野城を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

城ノ前バス停

御影駅の南側へ歩いてみました。大通りにあったのは「城ノ前」なる名前のバス停です。この辺りの地名は今では「御影」ですが、以前は「城ノ前」「大手筋」といった城を思わせる地名がありました。城の痕跡はすっかり姿を消してしまったのですが、こうして地名にはかつての城の姿が残されているのですね。

中勝寺

山手幹線沿いに歩いていくと、中勝寺なる寺院がありました。戦国時代の永正(1505)年に創建された寺院で、平野城を築いた平野忠勝の菩提を弔うために子孫が建立したと言われていて、以前は「忠勝寺」という名前だったそうです。

六甲山麓に強固な守りをもった平野城でしたが、城が築かれた直後に起こった観応の擾乱であっさりと破られてしまいます。近代に入り、平野村と呼ばれていたこの辺りは御影町へ編入され、さらに戦後には神戸市に編入されていきます。急速な市街化と住宅開発により、中世にわずかな期間存在した城の痕跡は消えていきました。

弓弦羽神社

中勝寺の隣には弓弦羽神社への参道がありました。
御影に城があった頃、この神社の辺りには弓場があったとも言われています。

平野城が破られた後、平野忠勝はどうなったのか…? 実は、農業へ戻り、郡家と呼ばれるこの地の庄屋を務めるようになりました。忠勝の子孫は江戸時代にはこの周辺の大庄屋を務めるようになります。中世の戦乱で多くの武家が滅んでいったことを考えると、この平野忠勝の選択は正しかったということなのでしょうか。

弓弦羽神社の境内

弓弦羽神社の境内からは、神社の名前の由来となった六甲山地(諸説あります)の山並みをわずかに眺めることができます。

弓弦羽の杜からの蝉しぐれを聞きながら、平野氏の治めたこの地を後にすることとしました。

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御影・平野城を訪ねて(前編)


真夏の太陽が照りつけると思うと、台風がやってくるこの頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急御影駅

阪急電車で到着したのは御影駅です。

御影の街並み

駅の山手には住宅地が広がります。御影といえば、言わずと知れた関西屈指の高級住宅地で、六甲山を背景にゆったりと住宅が建ち並ぶ景色を眺めていると、確かに住みたくなる街だと思います。

平野城跡

駅前に「御影城址」と書かれた石碑がありました。こちらは御影城とも呼ばれた平野城の跡です。

平野城が築かれたのは南北朝時代の正平元(南朝)/貞和2(北朝)(1346)年のことで、平野忠勝なる赤松氏の家臣によって築かれたと言われています。北側の六甲山地、西を流れる石屋川の支流の新田川に囲まれた強固な守りをもつ城であったと言われているのですが、今では何の痕跡もなく、この地に城があったことも信じられません。

深田池

御影駅のすぐ北側には畔の松の木が美しい池がありました。こちらは深田池です。
もともとは農業用のため池でしたが、この地に城があった頃は城の防衛設備の一つとしても機能していたとされています。
今では池の周囲は公園として整備されていて、釣りをしている方もちらほら見かけました。

次回はもう少し、高級住宅地の中に眠る城跡を巡ってみたいと思います。

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海峡の街・舞子を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、舞子を歩いてみたいと思います。

舞子延命地蔵

交通量の多い国道沿いを歩いていくと、お堂がありました。
こちらは舞子延命地蔵です。お堂の中を覗いてみると、思ったよりも大きなお地蔵さんが優しげな表情で佇んでいました。このお地蔵さんは幕末に建立されたものと伝わっていて、木槌で台座を叩くと願いがかなうという言い伝えがあることから「たたき地蔵」とも呼ばれています。

川の跡

国道を渡り、さらに西に向かうと、橋の欄干の跡がありました。川は暗渠になっているのか、水面を眺めることはできないのですが、道路の形状にうっすらとかつての川の流れを偲ぶことができます。それにしても、舞子を流れる山田川はもう少し西にあるので、この川は…? というところですが、古い地形図を見てみますと、北側にある舞子小学校前バス停の辺りにあった平池という池からこのあたりへ流れている川を見つけることができました。今は交通量の多いバス道になっている道路の下にはかつての川が眠っているのかもしれません。

舞子六神社

住宅地の中を歩いていくと、神社がありました。こちらは舞子六神社です。

舞子六神社の境内

神社の境内は意外と広く、交通量の多い国道や鉄道各線に隣接しているにも関わらず静かな雰囲気です。

舞子六神社の創建時期は分かっていないのですが、記録では江戸時代の元禄2(1689)年まで遡ることができると言われています。創建よりこの地・山田の鎮守とされていて、海峡を望む村を見守ってきました。前述の延命地蔵とともに、幕末から近代へ移り変わり、現代には世界最長の吊り橋が架けられるという舞子の変化を眺めてきたのでしょうか。

舞子漁港

神社の正面の道を歩くと港に着きました。
堤防に上がると、青々とした明石海峡の海が広がります。

夏本番となり海の季節ですね。この夏は海峡の街を歩いてみてはいかがでしょうか。

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海峡の街・舞子を歩いて(前編)


梅雨も明け、夏の盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

舞子公園駅

今回降りたのは舞子公園駅です。

明石海峡大橋

駅からバスターミナルをデッキで越えてすぐ、世界最長の吊り橋・明石海峡大橋がそびえています。大橋目当ての外国人観光客の姿もちらほらとあります。

明石藩舞子台場跡

公園のはずれに石碑がありました。こちらは明石藩の設けた「舞子台場」の跡で、舞子砲台とも呼ばれています。

台場と言えば東京の「お台場」が思い浮かぶかもしれません。名詞としての意味は砲台の置かれた軍事施設で、同様の施設は幕末に舞子を含め各地に設けられていました。この舞子台場が設けられたのは幕末の文久3(1863)年のことで、幕府の命令で明石藩により築かれました。当時、日本には外国船が多く訪れていて、それとともに生麦事件や薩英戦争を始めとする諸外国との衝突も各地で起こっていました。台場が設けられた直後の慶応4(1868)年には舞子にも近い神戸の三宮神社付近で神戸事件も起きています。そんな世相を背景に、舞子台場は対岸の淡路市にある松帆台場と対になり、交通の要衝だった明石海峡を防衛する目的で設けられました。ただ、結局、一度も使用されることもなく明治を迎えることになります。

舞子台場から明石海峡を眺める

舞子は総石造の大規模なものであったと言われていますが、明治時代に一部が焼失し、さらに今は大半が地中に埋められていて、現在では石垣の一部を眺めるのみです。ここが砲台であったことを示す大砲を模したモニュメントが設けられていました。
台場が活躍しなかったのは何だかもったいないような気もしますが、一方で、もし舞子が薩英戦争のような戦いの舞台になっていたら…と考えると、台場が使われることがなかったのは良かったのかとも思います。

今も昔も交通の要衝の舞子。もう少し歩いてみたいと思います。

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須磨・関守を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨の関守を歩いてみたいと思います。

ちどり坂

関守稲荷神社のそばには「ちどり坂」という坂道がありました。
車も通るのが難しい細い坂道ですが、風情がありますね。

現光寺

ちどり坂を下り、千森筋を下ると、大きな寺院がありました。こちらは現光寺です。

現光寺の境内

須磨の町中にある現光寺ですが、道路から一段高台にあるせいか、境内は静かです。

現光寺は室町時代の永正11(1514)年の創建とされています。『源氏物語』の主人公・光源氏の居所があった場所ともいわれ、かつては「源氏寺」とも呼ばれていました。現代でいうところのアニメやマンガの「聖地」のようなものでしょうか。この現光寺は前回訪れた関守稲荷神社とともに須磨の関跡とされる場所の一つでもあります。寺の前を通る千森筋の「千森」の名前も「関守」が変化したものともいわれています(諸説あります)。

千守交差点

千森筋を下り、山陽電車の築堤をくぐると交差点にたどり着きました。こちらの交差点名は「千守」(読み方は「ちもり」)で、同じく「関守」が変化したものともいわれています(諸説あります)。関守に千森、千守と何だかこんがらがりそうですが、この地域が長い歴史とともにあったことを感じさせますね。

梅雨も明け、夏もいよいよ盛りの頃。須磨海岸だけでなく、山側の歴史と坂道の街を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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須磨・関守を歩いて(前編)


梅雨明けの待ち遠しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽須磨駅

今回降りたのは山陽電車の須磨駅
これからのシーズンは海水浴客で賑わう駅ですね。

たぬき坂

改札を出てすぐ、築堤を潜るトンネルを抜けると、急な坂道がありました。坂の上からは須磨駅を見下ろすことができます。この坂は地元では「たぬき坂」と呼ばれているようで、西側には「きつね坂」も存在しています。

この辺りの地名は「関守町」といいます。「関守」の由来は須磨のこの地にあったとされる「須磨の関」に由来していると言われています。須磨の関は大宝元(701)年に大宝律令によって設置された播磨と摂津の間の関所で、古来より和歌に詠まれた名所であるだけでなく、陸路と海路をともに監視する重要な関所でした。

関守稲荷神社

住宅街の中を歩くと関守稲荷神社がありました。一説ではこの地に須磨の関があったと言われています。境内に須磨の関の石碑があるのですが、こちらは明治時代に近くの現光寺の境内から出土したものをこの地に移したものとのこと。須磨の関の場所はこの関守稲荷にあったという説のほか、現光寺にあったという説、はたまた内陸の多井畑にあったという説など様々で、詳しい場所は現在ではわかっていません。

須磨の海を眺める

関守稲荷神社の境内からは、家並みの合間から大阪湾を望むことができました。

古くからこの須磨の地を見守ってきた関守、もう少し歩いてみたいと思います。

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