大阪天満宮を訪ねて(前編)


新緑の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

南森町

今回訪ねたのは大阪の南森町Osaka Metroの駅名では「南森町」ですが、JR東西線の駅名では「大阪天満宮」です。

大阪天満宮

JRの駅名の通り、駅のすぐそばには大阪天満宮がありました。
ビルの合間にそびえる表門は立派ですが、この景色を見ると、私はみたらし団子系和菓子のCMを思い出してしまいます。

大阪天満宮の境内

大阪天満宮は大阪の街の中心にありますが、境内は広々としていて緑豊かです。

大阪天満宮の歴史は奈良時代の白雉元(650)年にまで遡るといわれています。現在の谷町四丁目付近に造営された難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)の守護として大将軍社が創建されたのが始まりとされています。南森町の地名の「森」とはこの大将軍社の森を指すとされていて、かつては対になる「北森町」という地名もありました。

登竜門

境内にあったのが登竜門です。
現在の大阪天満宮は天保8(1837)年の大塩平八郎の乱で焼失したものを再建したもので、その当時から東西にこの登竜門が設けられています。毎年受験シーズンには合格守を購入した方を対象に、この登竜門を潜り抜ける「登竜門通り抜け参拝」ができるとのこと。

大阪の都心に佇む大阪天満宮。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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明石・王子を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石の王子を歩いてみたいと思います。

街道の街並み

JRの線路を潜り、さらに北へ向かいます。街道の風情はあまりありませんが、この辺りの道はかつての山陽道です。
現在は明石の市街地と一続きになっていますが、古い地図を見ると城下町とは独立した町が街道沿いにあったようです。

十輪寺

街中に寺院がありました。こちらは十輪寺です。

街中にある小さな寺院の十輪寺ですが、奈良時代に藤原鎌足の孫の藤原宇合(うまかい)が創建したとされていて、千年以上の歴史を持っています。宇合が明石郡内に七体の薬師像を造った際、さらにもう一体造った薬師像をこの寺に安置したとされていることから、別名「八体薬師」とも呼ばれています。江戸時代の寛永16(1639)年には当時の明石城主の大久保季任が堂宇の整備を行ないました。しかし、これらの堂宇は昭和20(1945)年の明石市街を狙った空襲で焼失してしまいました。現在の建物は戦後に建てられたものです。

秀吉ゆかりの杉

十輪寺の境内には焼け焦げた木がありました。こちらは戦国時代、豊臣秀吉が戦勝を祈願して植えた杉の木とされています。昭和の初めには大木となりこの辺りの名勝となっていたようですが、明石空襲で堂宇もろとも焼け落ちてしまい、今は一部が残されているのみです。

嘉永橋

十輪寺から明石川の方へ歩いてみました。川に架かるのは「嘉永橋」で、その名の通り、幕末の嘉永7(1854)年にもともとこの地にあった橋を改築して架けられた橋です。

明石川を眺める

嘉永橋から明石川を眺めてみました。明石城はこの明石川を外堀代わりにしていたことから、江戸時代には明石川に橋はありませんでした。江戸時代の末に相次いで嘉永橋と下流の大観橋が架けられたことは革命的な出来事だったのでしょう。王子の街が発展したのはこの橋の存在があったのかもしれません。

今は明石の市街地と一体になっている王子地区ですが、明石市街とは少し異なった歴史を歩んできました。気候のよい季節、明石でのお買い物などの際などに少し足を延ばして王子の街を歩いてみませんか。

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明石・王子を訪ねて(前編)


元号が変わり、お正月のような気分もするこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西新町駅

今回降り立ったのは山陽電車の西新町駅
2015年に高架化されたばかりで、真新しい駅舎が眩しいですね。

われらがふるさと王子

駅前には新しい石碑がありました。
この辺りの今の地名は「西新町」ですが、以前は一帯が「王子」と呼ばれていました。

王子神社

交通量の多い国道を渡り、住宅街の中に入ると公園と神社がありました。こちらは王子神社です。

王子神社の創建時期はわかっていないようですが、はるか古代の5世紀後半、のちに顕宗天皇仁賢天皇となる二人の皇子が東播磨に逃れた際にこの地に身を寄せたという伝説から、両天皇を祀る神社とされています。はっきりとした記述は見当たらなかったのですが、この伝説が「王子」の地名の由来になったのでしょうか。

境内の桜

神社の前は公園になっていて、訪れた時はまだ桜の花が残っていました。園内にあった白平大明神の朱塗りの鳥居と桜の花のコントラストが美しいですね。

明石の市街地の一地区のようで、実は古い歴史を持つ王子地区。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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築城400年・明石城を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、明石城を歩いてみたいと思います。

高低差を行く

本丸から坂道を下ることにします。山道のような坂道は意外に急で、ここが城内であることを一瞬忘れてしまいそうなくらいです。

桜堀

坂道を下ると、木々の中に池のような水面が現れました。こちらは桜堀です。ちょうど桜が満開で、名前にふさわしい景色が広がっていました。

明石駅から眺めると立派な石垣が築かれた平城に見える明石城ですが、以前も訪ねたように、台地に築城された平山城で、特に北面は自然の高低差やもともとこの地にあった池を堀として利用して築かれています。この桜堀も池を拡張して堀としています。

剛の池

さらに城内を歩くと、広大な池が現れました。こちらは剛の池です。この池ももともとこの地にあったものを明石城の外堀として使ったものです。明石公園の中では最大の池で、いくつものボートが浮かんでいました。

明石城を見上げる

剛の池から本丸の方を見ると、木々に覆われた姿はまさに山です。明石駅側からとは違った姿の明石城がそこにはありました。この辺りは同じく平山城の姫路城を北側から眺めた姿に似たようなものを感じます。

再び本丸へ

本丸へ戻り、明石公園とビルの立ち並ぶ明石の市街地を眺めてみました。
築城から400年、城は変わっていく明石の街をずっと眺めてきたのでしょう。

新しい令和の時代とともに築城400年を迎える明石城。城内を歩いてみると、市街地から眺めるのとは違った城の姿を見ることができます。
この10連休には明石城を探索してみてはいかがでしょうか。

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築城400年・明石城を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石城を歩いてみたいと思います。

明石城巽櫓

石段を上って、本丸に上がりました。本丸の南面には城壁があり、左右に三重櫓があります。
明石駅側から見て右側にあるこちらは巽櫓です。

巽櫓の内部

普段は非公開の巽櫓ですが、イベント期間中は公開日が設けられていて内部を見学することができます。

現在の明石城で残されている建物は南面にある二基の三重櫓だけですが、かつては北面にも乾櫓、艮櫓という三重櫓があり、天守はなかったものの、四基の三重櫓を始めとする数多くの櫓が建ち並ぶ大城郭でした。築城にあたっては藩内で廃城になった三木城や明石城の前身とされる船上城の資材が使われたとされ、巽櫓も船上城の天守だったと言われています。ただし、現在の巽櫓は火災で焼失したものを再建した江戸時代中頃の建築です。

人丸塚

本丸の真ん中に木々が生い茂った一角がありました。こちらは人丸塚です。明石城のある山にはかつて楊柳寺という寺院がありました。この寺院の裏手には柿本人麻呂の墓とされる塚があり、祠が設けられていました。後にこの地へ明石城が築城されることとなり、寺と祠は隣の山に移転し、現在の月照寺柿本神社となりましたが、塚は城の鎮守として城内に残されています。

坤櫓

南面を西に向かって歩くと、坤櫓が現れました。坤櫓は巽櫓と同じく三重櫓ですが、一回り大きく、天守のなかった明石城では天守代用として使われていたようです。もともとは伏見城の建物だったとされ、破風の格子が朱塗りになっているなど、優美な印象の櫓ですね。

明石城と桜

訪れた時は桜が見ごろで多くの方が花見と城の見学を楽しんでいました。

築城400年を迎える明石城。建物の多くは失われてしまっていますが、二基の櫓からもかつての大城郭を偲ばせることができます。次回はもう少し明石城内を歩いてみます。

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築城400年・明石城を歩いて(前編)


春が深まり、令和への改元が迫ってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

明石公園

今回訪れたのは山陽明石駅の目の前に広がる明石公園です。
訪れた時は桜の花がまだ咲いていて、多くの方で賑わっていました。

築城400年

明石公園の入り口にはこんな看板が。
今年は明石城が江戸時代の元和5(1619)年に築城されてから400年の節目の年で、各種イベントが予定されているようです。

明石城

多くの人で賑わう明石公園に入ると、目の前には左右の櫓と立派な石垣がそびえます。以前は生い茂った木々で隠れていた石垣ですが、築城400年を迎えるにあたって樹木の伐採が行われ、美しい石垣が遠くからもよく見えるようになりました。

明石城は先述のように江戸時代の初めに当時の明石藩主・小笠原忠真によって築かれた城です。平野に築かれた平城のようにも見えますが、実は、西神からの丘陵地帯の西端にあたる人丸山に築かれた平山城です。西国への交通の要衝であった明石海峡と山陽道を抑える重要な立地である一方で、大坂の陣が終わってから築かれた城であるためか、築城には廃城となった城の資材が使われるなど、エコな印象の城です。

明石城の石垣を眺める

樹木が伐採されて露わになった明石城の石垣を見上げてみます。この辺りは木々が鬱蒼と茂っていて昼でも薄暗いくらいだったのですが、すっかり明るくなってしまいました。あの木々がすべて切られてしまったのかと思うと少し寂しい気分になってしまうのですが、今まで見られなかった石垣をこうして眺められるのは新鮮ですね。

桜と櫓

城への上り道の途中から櫓を眺めてみました。
桜の花と白い壁が眩しい櫓のコラボレーションも新しい景色ですね。

次回も築城400年を迎えた明石城を歩いてみたいと思います。

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西神の古刹・如意寺を訪ねて(後編)


こんにちは山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西神の如意寺を訪ねてみたいと思います。

如意寺へ

仁王門から春の里を歩いていくと、如意寺の入口に着きました。

如意寺の境内

境内に入ると、広々とした敷地に文殊堂や三重塔が建ち並び、圧倒されてしまいました。現代的な西神南ニュータウンの近くにある寺院とはにわかには信じられなくなってしまいます。

古代に法道仙人によって開かれたとされる如意寺ですが、一時期荒廃し、平安時代の正歴年間に願西上人によって再興されたとされています。実際の創建時期はこの再興の時期だとも言われているようですが、詳しいことはわかっていません。そういえば、以前訪ねた明石の八木にあった来迎寺は奈良時代にここ如意寺で僧・行基が造った観音像をまつったことに始まるとされていたような…ということを考えると、より一層わからなくなってきます。ちなみに、発掘調査などからは12世紀頃の創建ではないかという説もあるようです。

三重塔

境内で目立つのは三重塔ですね。こちらは南北朝時代の至徳2(1385)年に建てられたとされています。

常行堂

境内の西には常行堂(阿弥陀堂)がありました。こちらは12世紀~13世紀の建築とされ、神戸市内では最古の建築物と言われています。境内にはこの他に本堂がありましたが、戦後に解体されてしまいました。そういえば、この常行堂と本堂、三重塔の位置関係は太山寺と同じですね。

本堂跡

常行堂の近くの本堂の跡地には、現在は礎石や灯篭、石段が残るのみで、ぽかんと空いた空間はどこか寂しげでした。本堂が残っていれば…と思うと少し残念な気にもなってしまいますが、残された立派な建造物や仁王門の位置からは、中世から近世にかけて、大寺院として大いに栄えた姿を今に偲ばせます。

西神南ニュータウンの中にまるで別世界のように静かに佇む古刹・如意寺。春のお散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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西神の古刹・如意寺を訪ねて(前編)


桜が咲き、春真っ盛りのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西神南駅

板宿から神戸市営地下鉄に乗り換えて到着したのは西神南駅

西神南ニュータウン

駅前にはマンション、その先には戸建ての住宅が建ち並び、ニュータウンの景色が広がっています。

南谷口ダム

住宅地の外周の歩道を歩いていると、木々の合間から水面が見えました、こちらは南谷口川に設けられた南谷口ダムのダム湖です。住宅地の中にこんなダム湖があるのはちょっと意外ですね。

春の里

南谷口ダムを回り込むように歩いていくと、南谷口川に合流する小川に出ました。川沿いには田んぼが広がる何とものどかな景色が広がっていて、ここが西神南ニュータウンの傍にあるとは一瞬信じられなくなります。

如意寺仁王門

田んぼの道を歩いていくと、大きな門が姿を現しました。こちらは如意寺仁王門です。

如意寺は大化元(645)年に法道仙人が開いたと伝わる寺院です。法道仙人は播磨一円で多くの伝説がある一方で、謎に包まれた人物で、如意寺についても本当のところは不明ですが、少なくとも中世からの長い歴史を持つ寺院ではないかと言われています。江戸時代には広大な寺域を有するようになったとのこと。

如意寺仁王門を眺める

如意寺の境内はこの仁王門からは少し離れていて、相変わらず春ののどかな景色が広がっています。かつてはこの辺りも如意寺の境内だったのでしょうか。

次回は如意寺を訪ねてみたいと思います。

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間もなくオープン! 尼崎城を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、尼崎を歩いてみたいと思います。

尼崎市立文化財収蔵庫

街中にあったのが、尼崎市立文化財収蔵庫です。本来は尼崎城の跡地に設けられた旧城内中学校の校舎だった建物を利用した博物館のような施設ですが、現在、本来の建物はリニューアル工事中で、現在は幼稚園の跡地に仮移転しています。

マンホール

文化財収蔵庫の近くの路上には尼崎城を描いたマンホールがありました。

三の丸公園

本来の文化財収蔵庫の建物の近くまで歩くと、「三の丸公園」なる公園がありました。その名の通り、この公園のある位置もかつては尼崎城の城内でした。

大物主神社

文化財収蔵庫から東側の阪神電車の大物駅の方へと歩くと、街中に神社がありました。こちらは大物主神社です。創建時期は不明ですが、大物川や庄下川などの河川が形成したデルタ洲の一つに設けられた祠が由来とも言われ、はるか古代にまでさかのぼることができるとされています。諸説あるようですが、この神社が「大物」の地名の由来になったとも言われています。

尼崎城が築かれたのは江戸時代のことですが、尼崎の地に城が築かれたのはさらに遡るといわれています。かつての城は尼崎城よりも東の大物駅から大物主神社にかけての辺りにあり、大物城とも「尼崎古城」とも言われていました。この城が築かれた時期は不明ですが、中世には簡素な平城があったようです。この大物城を拡大したのが尼崎城であるという説もあるようですが、詳しくはわかっていません。

大物くずれの戦跡碑

大物駅近くまで歩くと、公園の入り口に石碑があるのを見つけました。こちらは「大物くずれの戦跡碑」です。戦国時代の初め、幕府の実権を握っていた細川氏の内部で家督相続を巡って起こった争いの中で、享禄4(1531)年にここ大物で細川高国と細川晴元らが衝突。大敗した高国は大物城へ退避しようとしたところを捕らえられて、当時、大物にあった広徳寺(現在は寺町に移転しています)で自害させられました。膠着状態が続いていた戦いがここ大物で一気に高国方が劣勢になったことから「大物くずれ」と言われています。天守が復元され、注目されている尼崎城に対して、大物城は痕跡も少なく、石碑がひっそりとたたずんでいました。

間もなく…といいつつ、尼崎城は一昨日オープンしましたね。白く輝く復元天守は注目ですが、さらに足を延ばして市街化で消えた尼崎城の名残をより感じてみてはいかがでしょうか。

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間もなくオープン! 尼崎城を訪ねて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎城を訪ねてみたいと思います。

契沖生誕の比定地

尼崎城の近くに石碑が立っていました。こちらは「契沖生誕の比定地」の碑です。
尼崎藩士の子として生まれた契沖は幼少より大阪や高野山の寺院で修業をして真言宗の僧侶となりますが、一方で、万葉集の研究をするなど国学者としても知られています。この地には契沖が生まれた尼崎藩士・下川元全の家があったとされています。

櫻井神社

庄下川沿いにあったのが、櫻井神社です。
櫻井神社は尼崎藩を治めた桜井松平家の祖・松平信定から十六代・忠興までの歴代の尼崎藩主をまつる神社として明治15(1882)年に建立された神社です。尼崎の町中にありながら静かな神社…と思いきや、女性の姿をよく見かける…。
どうやら、最近引退発表をしたアイドルグループの「聖地」になっているようです。

尼崎城を眺める

真新しい尼崎城を眺めながら、尼崎の町中を歩くことに。

現在、オープンに向けて準備が進む尼崎城の天守ですが、本来の天守は少し南東側のちょうどこの東側辺りにあったとされています。庄下川と今は埋め立てられた大物川に囲まれた城は沖から眺めると海に浮かんでいるようにも見え、美しい姿から「琴浦城」とも呼ばれていました。しかし、産業都市として発展する尼崎の真ん中にあったせいか、近代に入ってから城郭は跡形もなく取り壊されてしまいました。比較的最近まで天守のあった小山もあったそうなのですが、これも移設された後に取り崩されて痕跡はありません。

尼崎城址の碑

天守があったとされる場所に建つ明城小学校の裏手には「尼崎城址」の石碑がありました。この石碑の位置から直接新しい尼崎城を眺めることはできませんが、間もなくのオープンに向けて準備が進んでいるのでしょう。

次回はもう少し尼崎を歩いてみたいと思います。

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