紅葉の三木街道を歩いて(前編)


師走の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

板宿駅

山陽電車で着いたのは板宿駅
地下のホームから地上へ上がると賑やかな街並みが迎えてくれます。これから年末に向けて、多くのお買い物の方で賑わうことでしょう。

神戸市バスへ

今回はここ板宿から神戸市バスに乗ることにしました。

禅昌寺

板宿を出たバスは三木街道を走り、街並みを抜け出すと妙法寺川の谷へと分け入っていきます。着いたのは禅昌寺バス停です。

禅昌寺

バス停からすぐの場所にはバス停名の通り禅昌寺があります。

禅昌寺の歴史は古く、はるか南北朝時代へ遡るとも言われています。延文(1356~1360)年間に月庵宗光なる僧が後光厳天皇の勅令を受けて建立したと伝わっています。歴史ある寺院だけあって、境内には松尾芭蕉や伊藤博文などの文学碑が残されています。

禅昌寺の山門

竹藪の中に山門がありました。こちらは江戸時代の彫刻職人・左甚五郎の作品ともいわれています。

境内の紅葉

禅昌寺は「紅葉寺」と呼ばれ、紅葉の名所です。訪れたとき、境内は紅葉の盛りでした。12月の今でもまだもう少し名残の紅葉を楽しめるでしょうか。

紅葉の妙法寺川に沿って、もう少し歩いてみたいと思います。

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生駒山地の麓・石切を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、生駒山麓の石切を歩いてみたいと思います。

生駒山地への道

石切劔箭神社
から石切駅の方へ戻り、途中から山の方へと向かってみます。
参道の賑わいからは離れて、まるで静かな山里のような景色が続いています。

石切劔箭神社上之社の鳥居

坂道の先にあったのは鳥居。こちらは先ほど訪ねた石切劔箭神社上之社です。

上之社の石段

鳥居の奥には石段が続いています。木々に囲まれた空間に石段が続く光景はどこか厳かな雰囲気ですね。

石切劔箭神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)とその御子の可美真手命(うましまでのみこと)の二柱です。神話では、饒速日尊は神武天皇の東征に先立って天磐船に乗って哮ヶ峰(生駒山)に着きます。当時鳥見の里(とみのさと)と呼ばれていた河内と大和に先住していた鳥見一族と呼ばれる人々を饒速日尊は従え、河内と大和を治めるようになりました。

石切劔箭神社上之社の境内

境内は先ほど訪ねた本社と比べると小ぢんまりしていますが、山の中の神社らしい雰囲気です。

神話では、饒速日尊の死後、神武天皇がこの地に攻め入りますが、息子の可美真手命が「天羽々矢」を神武天皇へ差し出して天照大神の子孫であることを示し、可美真手命と鳥見一族は神武天皇へ従うようになったとされます。のちに可美真手命は生駒山中に饒速日尊を祀る祠を建てたそうで、これが石切劔箭神社の始まりとされています。この祠は今も元宮として山中に残されているようですが、祭祀の中心は山麓の上之社や本社へ移ったそうです。

石段から眺める

石段の上から麓を眺めてみました。
木々の間からは大阪平野の街並みを望むことができます。

縁日のような参道を歩くと、はるか神話の時代まで遡る古社が迎える石切の地。少し足を延ばして訪れてみませんか。

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生駒山地の麓・石切を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、少し足を延ばし、生駒山麓の石切を歩いてみたいと思います。

石切劔箭神社

賑やかな門前町を通り抜けると、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)に着きました。境内への入り口には絵馬殿がそびえています。

境内へ

絵馬殿をくぐると、本殿へ向かって参道が伸びています。

石切劔箭神社の創建時期は記録が焼失してしまったために詳しくはわかっていないそうですが、はるか古代に遡るともいわれています。祭神の饒速日尊は神武天皇の東征の際に功績あったとされ、もとは生駒山中に祀られていました。現在はでんぼ(腫物)の神様とされていて、近隣だけでなく関西の各地から多くの人が参拝に訪れています。

石切劔箭神社の境内

境内は多くの参拝客で賑わっていました。この神社で特徴的なのは本殿と百度石の間を往復する百度参りで、この時も参拝客が列をなして境内を往復する姿が見られました。

境内を歩く

本殿の奥には社務所や穂積殿という建物が連なっています。複雑に入り組んだ建物が渡り廊下で結ばれていて、ちょっと不思議な空間に迷い込んだような気分になります。

生駒山麓の街中に佇む古社・石切劔箭神社、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

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生駒山地の麓・石切を歩いて(前編)


紅葉もそろそろ見ごろになってきた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

石切駅

神戸三宮
から阪神なんば線を経由して、近鉄奈良線の電車に乗りました。大阪の街を通り過ぎ、瓢箪山を通過すると、電車は大きなカーブを描いて生駒山地へと挑んでいきます。電車が到着したのは新生駒トンネルの手前の石切駅。この駅の次は奈良県の生駒駅です。

石切

石切に駅ができたのは大正3(1914)年の今の近鉄奈良線の前身の大阪電気軌道が大阪と奈良を結ぶ路線を開業させたときのことで、開業当初の石切千手寺前駅はこの看板の向こう辺りにあったとされています。

石切の門前町

かつての駅跡からは商店街が続いています。こちらは石切剣箭神社の門前町です。門前町は神社に向かって上り坂になっていることが多いのですが、ここ石切では下り坂になっていて、少し不思議な雰囲気ですね。

古い地形図を見ると、この辺りには生駒山の興法寺への道と社寺、そして、川沿いにたくさんの水車がある様子がわかりますが、今のような街並みの姿はありません。今のような商店街ができたのは先ほど訪ねた石切千手寺前駅がこの地に開業してからです。麓にある石切剣箭神社への参道とするために道の拡幅をおこない、やがて道沿いに商店が建ち並ぶようになりました。独特な雰囲気のあるこの門前町は駅とともに発展してきたのですね。

石切大仏

参道の途中に大仏が佇んでいました。こちらは製薬会社が昭和55(1980)年に建立した石切大仏です。

賑やかな門前町

神社が近づいてくると、だんだんと賑やかな雰囲気になってきました。飲食店からは香ばしい匂いが漂い、まるで縁日のような雰囲気です。

生駒山地の麓に門前町が続く石切。次回は石切剣箭神社を訪ねてみたいと思います。

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薬の街・道修町を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪・船場の道修町を歩いてみたいと思います。

道修町

道修町に建ち並ぶ製薬会社には様々な資料が展示されています。
この街が現在のような薬の街になったのは江戸時代の初めの寛永年間に堺の商人の小西吉右衛門なる人物が薬種問屋を開いたことが始まりとされ、享保7(1722)年には当時の将軍・吉宗が薬種問屋を株仲間として特権を与え、さらに薬の街として発展していきます。政治・経済の中心が東京に集中した今も、大阪や関西に本社を置く製薬会社が多いのは、道修町があったからなのかもしれませんね。

神農さん

道修町を歩いていると、一角のビルに「神農さん」という文字とともに張り子の虎のイラストの描かれた看板がありました。

少彦名神社

こちらのビルにあるのは少彦名神社です。

少彦名神社は少彦名命(すくなひこなのみこと)と神農炎帝(しんのうえんてい)を祀る神社です。少彦名命は日本、神農炎帝は中国の神ですが、いずれも医薬の神とされています。先ほどのビルの看板の「神農さん」は神農炎帝にちなんだ通称ですね。道修町に医薬の神を祀る社が建てられたのは江戸時代の安永9(1780)年のことで、当時、既に薬の街となっていたこの地に、やはり医薬の神の京都・五條天神社より少彦名命を勧請したのが始まりです。

少彦名神社の境内

ビルの合間に社がありました。広くはありませんが、香の匂いが漂い、どこか厳かな気分になります。

神農祭

少彦名神社では毎年11月22・23日に例大祭の「神農祭」が執り行われています。この祭礼の始まりは江戸時代の終わりの文政5(1822)年のこと。当時流行していたコレラに対し、道修町の薬種商が「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り、お守りの張り子の虎とともに神前で祈願したうえで施したことが始まりとされています。現在は丸薬の配布は行われていませんが、張り子の虎は現在も神農祭のお守りとして、授与されています。

旧小西家住宅資料館

少彦名神社から堺筋を挟んだ向こうに和風建築が佇んでいました。こちらは旧小西家住宅資料館で、コニシの本社として使われていた建物でした。現在は接着剤で知られるコニシですが、もとは道修町の薬種商として発展した会社でした。大阪の都心にあり、変わりゆく街並みに佇む和風建築は、近世・近代の道修町の風情を今に伝えるようです。

まだまだ油断はできない状況ですが、気候の良い時期になりお出かけ気分が盛り上がってきましたね。お天気の良い日には、少し遠くの街を歩いてみてはいかがでしょうか。なお、電車バスをご利用の際は感染症対策にご協力ください。

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薬の街・道修町を歩いて(前編)


立冬を過ぎ、いよいよ冬の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

淀屋橋駅

緊急事態宣言解除後、久しぶりに遠出をして、大阪へやって来ました。
大阪梅田から御堂筋線に乗り換えて着いたのは淀屋橋駅です。
風格あるビルの一角に、趣ある「地下鉄」の表記があります。

御堂筋

駅前を通るのは御堂筋です。
南向き一方通行の大阪のメインストリートですね。街路樹のイチョウはもう少しすれば金色に染まることでしょう。

道修町

淀屋橋駅から南に少し歩いたところで東西の道に入ると、オフィスビルの建ち並ぶ御堂筋とは違った趣の景色が広がります。この辺りは道修町と呼ばれる一角です。

道修町は大阪・船場の町のひとつで、御堂筋を挟んで東西に広がっています。不思議な地名には諸説があるようで、はっきりとはわかっていませんが、オフィスと昔ながらの建物が並ぶ独特の景色が広がっています。この街は、江戸時代から「薬の街」として知られています。その名残で、今も多くの薬品会社が建ち並び、大手製薬会社もこの地に本社を構えているところがあります。

大阪薬科大学発祥の地

オフィスの建ち並ぶ一角に「大阪薬科大学発祥の地」の碑がありました。現在は大阪医科大学の薬学部となった大阪薬科大学の前身の「大阪道修薬学校」は、明治37(1904)年に日本初の薬学専門学校として、ここ道修町に開設されました。現在、キャンパスは高槻に移転していますが、今も学校があった場所には記念碑が残されています。

感染症の流行で医療が注目されている今だから…というわけではありませんが、次回ももう少し道修町を歩いてみたいと思います。

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離宮道を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨の離宮道を歩いてみたいと思います。

松風村雨堂

離宮道
に面したお堂の松風村雨堂は平安時代に松風村雨姉妹の庵があった場所と伝わっています。

平安時代の公卿だった在原行平が須磨へ蟄居を命じられたのは文徳天皇の御代(850年~858年)とされています。須磨の海岸で過ごしていたところ、汐汲みに来た多井畑の村長の娘の「もしほ」「こふじ」姉妹に出会い、「松風」「村雨」と名付けて親しんだそうです。やがて、行平は京へ戻ることとなり、烏帽子と狩衣を形見として松の枝にかけて旅立っていきました。姉妹は行平を慕って、行平の居所の傍に庵を編んで観世音菩薩をまつったと言われています。その庵の跡がこの松風村雨堂とされています。

離宮道を進む

松風村雨堂から、さらに離宮道を進みます。青々とした松並木が山へ向かっていきます。

須磨離宮公園

離宮道の先にあったのが須磨離宮公園です。もとは武庫離宮(須磨離宮)と呼ばれ、大正天皇の離宮として宮内庁が買い取り整備したものです。ただし、大正天皇がこの離宮を利用したのはわずか3回だけと言われ、整備された御殿は昭和20(1945)年3月の神戸大空襲の際に焼失してしまいました。戦後の昭和42(1967)年に、今の上皇陛下のご成婚記念に神戸市へ下賜され、須磨離宮公園として整備されています。

千森川筋

離宮公園から千森川筋を歩いていきます。その名の通り、暗渠になった千森川が流れている道で、緩やかなカーブに川の名残を感じます。

堂谷池

途中に須磨寺の裏手の堂谷池に差し掛かりました。
鏡のように静かな池の水面には、須磨の街並みと山々が写りこんでいます。

まだまだ油断ができない状況が続きますが、少しお出かけの気分も盛り上がってきました。歴史に彩られた秋の須磨を歩いてみてはいかがでしょうか。

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離宮道を歩いて(前編)


山の木々も染まりゆく頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

月見山駅

山陽電車で着いたのは月見山駅。秋が深まり、影が長くなってきましたね。

須磨浦の山々

駅から西へ向かうと、須磨浦の山々を遠くに眺めることができました。
西日本豪雨で崩れた山肌が今も痛々しいですね。

離宮道

南北に通る松並木の美しい道に行き当たりました。こちらは離宮道です。

浄土真宗本願寺派第22世法主をつとめた大谷光瑞の別邸を宮内庁が買い取り、武庫離宮(須磨離宮)として整備したのは大正3(1914)年のことで、この離宮道は天皇の離宮への行幸のために整備された道でした。並行する道は数多くありますが、この離宮道の沿道にはクロマツが植えられていて、他の道とは違った趣です。

松風村雨堂

離宮道に面して、小さなお堂がありました。こちらは村雨松風堂です。平安時代、在原行平を慕っていた松風・村雨姉妹が建てた庵があった場所だと伝わっています。

街中に須磨の深い歴史を感じさせるスポットの離宮道界隈。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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下山手・中山手を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、元町から山手へと歩いてみたいと思います。

旧小寺家厩舎

蘇鉄林を通り抜けるとレンガ造りの建物がありました。こちらは旧小寺家の厩舎です。

前回も見て来たように、この相楽園は三田藩士だった小寺泰次郎の邸宅でした。小寺は明治維新後の神戸で元三田藩主の九鬼隆義、同じく三田藩士だった白洲退蔵とともに「志摩三商会」を設立しました。この会社で神戸港の後背地の土地を買収し、不動産業や金融といった事業を営むようになり、大きな利益を得た小寺はこの地に私邸を建てました。これが現在の相楽園です。

旧ハッサム邸

厩舎と並んで、異人館がありました。こちらは旧ハッサム邸で、インド系イギリス人貿易商J.K.ハッサムの邸宅として北野に建てられたものが戦後にこの場所へ移築されたものです。

日本庭園

さらに園内を進んでいくと、日本庭園に行き当たりました。こちらの庭園はもともと小寺邸の庭園で、多くの建物がこの庭園を囲んでいたそうです。

船屋形

池のほとりに美しい建物がありました。こちらは船屋形で、姫路藩で藩主が河川の遊覧用に使っていた「川御座船」の屋形の部分でした。明治に入り飾磨港に放置されていた船の屋形部分だけが建物として使用されるようになり、舞子にあった実業家の牛尾健治氏の自宅に移築されていたものを神戸市が寄贈を受けてこの場所に復元移築しました。移築に当たって船の屋形として使われていた華麗な姿が復元され、もう少しすれば紅葉に囲まれた景色を楽しむことができるでしょうね。

小寺は明治13(1880)年に県会議員に選出され、市街整備に携わるようになり、明治38(1905)年に亡くなります。この私邸が完成したのは明治44(1911)年で、小寺自身は私邸の完成を見ることなくこの世を去ったことになります。昭和16(1941)年に神戸市がこの私邸を譲り受けて公園として整備しました。なお、建物の大半は昭和20(1945)年の神戸大空襲で焼失しています。ちなみに、小寺泰次郎の息子の小寺謙吉氏は衆議院議員を務めた後、昭和22(1947)年には戦後初の神戸市長を務めました。

菊花展

園内では菊花展の準備中で、現在はちょうど開催中です。これからの季節は紅葉も楽しむことができるでしょう。

今も昔も神戸、兵庫県の行政の中心だった下山手・中山手には明治以来の風情ある雰囲気が残されています。状況が落ち着き、まだまだ油断はできませんが、お出かけの気分が盛り上がってきたこの頃。ゆっくりとお散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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下山手・中山手を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、元町駅から山手へと歩いてみたいと思います。

兵庫県公館の庭園

兵庫県公館
の庭園越しには神戸の中心のビルやマンションが眺められます。
都心の緑あふれる空間はまるでオアシスのようですね。

兵庫県公館の内部

公館の内部は県政資料館になっています。その他にも通常なら内部の見学ができましたが、現在は感染症対策のために見学の受付は中止されています。

兵庫県庁

公館の山側には現在の兵庫県庁のビルが建ち並んでいました。5代目になる現在の庁舎は昭和39(1964)年から使用されていますが、老朽化のために建て替えが計画されています。山手の景色はまた少し変化することになりそうですね。

相楽園

県庁舎の間を通り抜けた先に和風の門がありました。
こちらは相楽園です。

三田藩士だった小寺泰次郎が明治時代の明治44(1911)年に完成させた邸宅だった相楽園は西洋風の庭園の影響を受けた池泉回遊式の和風の庭園です。先ほどの兵庫県公館とは門からして違った趣を感じますね。

蘇鉄園

門をくぐると完成当時の別名「蘇鉄園」の名前の通り、蘇鉄林が迎えます。

次回は相楽園を歩いてみたいと思います。

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