摂津水堂を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、水堂を歩いてみたいと思います。

水堂町の街並み

水堂陣屋跡の周辺に広がるのはごく普通の住宅地です。大阪空港までそう遠くないせいか、旅客機が低空で空を横切っていきました。

常春寺

街中にあったのが常春寺という寺院です。この寺の境内には南北朝時代に作られたといわれる水堂宝筐印塔という石塔があります。

水堂須佐男神社

さらに住宅地を歩いていくと、神社がありました。こちらは水堂須佐男神社です。

水堂古墳

立派な神社ですが、境内の奥には気になる建物が…。この建物の中には水堂古墳と呼ばれる古墳があります。

前回見てきたように、水堂と言えば水堂陣屋が知られていますが、水堂自体の歴史は非常に古く、水堂須佐男神社は戦国時代の天正期、水堂古墳はさらに古墳時代前期へさかのぼることができるといわれています。西を南北に流れる武庫川を望むこの地は古来から重要な土地であったことが伺えますね。古墳があるところに城が築かれるあたりは以前訪れた明石の王塚古墳~枝吉城を思わせるものがあります。

水堂古墳は今

水堂古墳は環濠を巡らせた前方後円墳だったと言われていますが、元の姿は失われていて、建物の中に一部が保存されているのみです。また、出土品は阪神尼崎駅近くの、尼崎市立文化財収蔵庫で展示されているとのこと。

水堂を歩く

水堂須佐男神社を出て、水堂の街を歩くことにします。古くから人が暮らし、水堂陣屋が治める街として栄えた街並みはどこか趣があるように感じますね。

街並みをもう少し見てみたいところですが、沈みゆく秋の夕日に背中を押されるように水堂の街を後にすることにしました。

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摂津水堂を訪ねて(前編)


木々も少しずつ色づいてきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

立花駅

今回降りたのは立花駅。

立花の街並み

立花の駅前は民家やビルが建ち並び、賑やかな雰囲気ですが、駅から西に歩くと、賑やかな街並みは途切れ、静かな住宅地が続きます。街路樹と水路がある街並みはいい雰囲気ですね。

水堂陣屋跡

そんな住宅地の中の一軒の塀の上にこんな表示が。表示の示すように、かつてこの地には水堂陣屋という代官所がありました。

水堂陣屋が設けられた時期ははっきりとはわかっていないようですが、江戸時代初めの寛永の頃に尼崎藩主だった青山幸成によって築かれたとされています。後に分家した幸成の次男の幸通がこの地を治める代官所として機能するようになりました。青山氏の本家は後に信州の飯山へと移ることとなりますが、この水堂陣屋は本家が転封となった後も幕末まで青山氏が治めることとなります。

水堂陣屋跡を眺める

水堂陣屋跡はつい数年前まで建物の一部が残っていたそうですが、開発により失われ、現在では案内表示がこの地に陣屋があったことを伝えるのみです。

次回はもう少し水堂の街を歩いてみたいと思います。

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山陽道と新田の街・小久保を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、小久保を歩いてみたいと思います。

上ヶ池公園

新幹線の高架を潜って北側に出ると、街中に公園がありました。こちらは上ヶ池公園で、その名の通り、池の跡に作られた公園です。

駅が開設され、新幹線の駅が設けられたことで「西明石」として発展した小久保ですが、それ以前は田んぼが広がっていました。この上ヶ池は田んぼの中にあるため池でした。上ヶ池は埋め立てられて公園となってしまいましたが、周辺にはかつてここが田園地帯であったことを示すかのようにため池が点在しています。

大宮橋

駅近くに戻り、国道に沿って歩いてみることに。道路脇に欄干があったので見てみると「大宮橋」という文字がありました。古い地形図を見ると、この橋の下には上ヶ池から流れる小川があったようです。橋の下は今も通れるようにはなっていますが、水はありません。

三社神社

街中にあったのが三社神社です。三社神社は江戸時代の寛文2(1662)年、この辺りの新田開発の際に創建された神社と伝わっています。

印南野台地の東端にあるこの辺りは平野が広がっていましたが、稲作を行なう上で重要な水の確保は難しい土地でした。この地に水が引かれるようになったのが江戸時代に入ってから。明石川の上流から水を引き込む大久保用水の開通によって、小久保にも新田が開かれ、田園地帯が形成されるようになりました。点在するため池は、裏返してみれば水の確保に苦労した歴史を象徴しているといえるのかもしれません。

三社神社の境内

三社神社の境内でも秋祭りの準備中でした。

駅ができ、ビルやマンションが建ち、街が大きく姿を変えていっても、実りの秋を祝うお祭りは今も続いています。

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山陽道と新田の街・小久保を歩く(前編)


秋も深まりつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西明石駅

山陽電車を乗り換えて到着したのは西明石駅
新幹線の駅のイメージですが、在来線がメインの東口はのどかな雰囲気です。

小久保の街並み

駅前に広がるのは小久保の街です。

この地に駅ができたのは戦時中の昭和19(1944)年のことです。開業当初の駅は現在の場所から東側に設けられていて、川崎航空機の社員向けの専用駅として設けられました。一般に利用できるようになったのは現在地に移った戦後になってからです。西明石が大きく変わったのは昭和47(1972)年の山陽新幹線の開業でこの地に新幹線の駅が設けられてからです。現在では明石の交通の要衝として発展しています。

旧山陽道

駅前を横切るのは旧山陽道(西国街道)です。新幹線が開業し、駅前が大きく開発される以前、小久保と呼ばれていたこの地は山陽道沿いにある小さな集落でした。古い地形図を見ると田畑が広がる中にぽつんと集落がある景色を想像できますが、市街地となった今、面影はありません。

西明石駅西口

山陽道を少し歩くと、西明石駅の西口に着きました。西明石駅に停車する新幹線は多くはありませんが、巨大な駅舎に圧倒されそうです。前回まで訪れた王塚・枝吉ははるか古代にさかのぼりますが、ここ小久保に関してはわずか100年余りで大きく変わってしましました。巨大な駅舎はこの町の変化を象徴するようですね。

次回はもう少し小久保を歩いてみたいと思います。

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明石川右岸の台地・枝吉を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸市西区を歩いてみたいと思います。

吉田郷土館

王塚台から県道を渡った南側も住宅地が広がっています。その中にあったのが吉田郷土館です。

神本神社

吉田郷土館の裏手にあったのが神本神社です。

かつてこの地には枝吉城という城がありました。この地は明石川の河岸段丘上にあり、西に広がる印南野台地の東端にもあたる見晴らしがよい土地で、城造りには最適な場所でした。この辺りの条件は前回訪ねた王塚古墳とも同じですね。城が築かれたのは室町時代の永享元(1429)年頃と言われて、王塚古墳とはなんと千年(!!)もの差があるのですが、この辺りが時代を超えて重要な場所であったことが伺えます。中世以降には山陽道と三木への三木街道が交わる交通の要衝となったため、さらに重要視されることとなりました。

神本神社の境内

神本神社の境内は広々としているのですが、それ以上に印象的なのが鬱蒼とした裏山の森です。

枝吉城を築いたのは赤松氏配下の明石氏であると言われています。しかし、明石氏について詳しいことはわかっていないようで、そのためにこの城のことも詳しくはわかっていません。交通の要衝に位置したため、戦国時代には戦いの舞台となりましたが、天正13(1585)年、代々城主を務めていた明石氏が豊岡へ移ったために廃城となり、資材は舟上城の築城に使われたといわれています(諸説あるようです)。今では住宅地の中にわずかな城郭の一部が残るのみです。

城山を眺める

神社から城山を眺めてみました。この上には本丸跡があるようですが、秋祭りの準備中だったので、訪問は改めることとしました。この辺りには弥生時代の稲作集落の遺跡である吉田遺跡もあり、古くから人が住み重要な土地であったことがわかります。

気の遠くなるような昔に思いをはせながら、実りの秋を迎えた王塚と枝吉を後にすることとしました。

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明石川右岸の台地・枝吉を歩いて(前編)


すっかり秋らしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

王塚台

西明石駅前からバスで到着したのは神戸市西区の王塚台です。神戸市内ではありますが、西区の西端に位置し、どちらかと言えば明石と結びつきの強いエリアです。実際、戦後の昭和22(1947)年に神戸市に編入されるまで、この辺りは明石郡玉津村という自治体名でした。

王塚台の街並み

バス停から歩くと、静かな住宅街が広がります。この近くには神戸市と明石市の市境があるのですが、街並みは連続していて、あまりよくわかりません。

王塚公園

住宅街の中を歩いていると、こんもりとした森と公園が現れました。

王塚古墳

公園の中にはさらにこんもりとした森がありました。森の周囲は緑色の水をたたえた堀で、堀の周囲は柵で厳重に囲まれています。もうお分かりかもしれませんが、この森は王塚古墳と呼ばれる古墳です。王塚台という地名はこの古墳に因んでいます。

地上からはよくわかりませんが、王塚古墳は垂水の五色塚古墳と同じ前方後円墳です。住宅が建ち並ぶ今ではあまりわからなくなってしまいましたが、この地は東側を流れる明石川が形成した段丘に位置し、「王塚台」の名前の通り、西に広がる印南野台地の東端にもあたる眺めの良い土地でした。古い地形図を見てみると、明石川と伊川の作った谷が玉津から明石の市街地へと広がっているのを見下ろすことができたのであろうことが伺えます。この古墳が築かれたのは古墳時代中ごろの5世紀前半と言われていて、この辺りでは垂水の五色塚古墳に次ぐ規模とされ、有力者が埋葬されていると考えられています。

宮内庁の管理

古墳の周りの柵には宮内庁の文字がありました。王塚古墳の被葬者(埋葬されている人物)はわかっていませんが、欽明天皇の皇女の舎人姫王という皇族の墓であるとされていて、現在では宮内庁の管理する陵墓となっています。ただし、この古墳の築造時期と舎人姫王の時代(6世紀末から7世紀初頭)とは異なるため、事実は謎のようです。

静かな住宅街の中に古代へとつながる史跡があるのはこの辺りの魅力ですね。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて北野坂から二宮を歩いてみたいと思います。

二宮温泉

二宮の街中を歩いていると二宮温泉なる入浴施設がありました。源泉は新神戸駅近くですが、中央区の街中に温泉施設があるとは意外ですね。

二宮神社

さらに街中を歩いていくと、神社がありました。こちらは二宮神社です。「生田裔神八社」の一宮神社に続く二柱目ですが、創建時期などははっきりわかっていないとのこと。

前回説明しましたように「生田裔神八社」は生田神社を取り囲むように配置された神社で、北斗七星を表すという説もあります。神社は生田川と湊川(旧湊川)の間に配置されているはずですが、この二宮神社はフラワーロードの東側…、つまり、生田川の外に配置されています。なぜこのような配置になったのかはよくわかっていないようでずが、街中に古代の謎が残されているというのもロマンのある話ではあります。

二宮神社の境内

街中の神社ですが、境内は広々としています。古い地図を見ても存在感はあり、古くから大きな神社であったことが伺えます。

新生田川

二宮神社から東に歩くと、新生田川のほとりに出ました。生田川の付け替えにより、結果的に二宮神社も生田川の西側に収まることになったのは、たまたまなのでしょうか。

神戸の都心で少し謎のある歴史巡りをした後は三宮に戻ることにしました。

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北野坂から二宮を歩く(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、北野坂を歩いてみたいと思います。

一宮神社

北野坂から横道に逸れた街中にあったのが一宮神社です。神戸の市街地に一から八まである神戸八社の一つで、「一」のつけられた神社ですが、街中にひっそりと佇んでいました。

一宮神社の境内

境内は意外に広く、ゆったりとしています。外国人観光客の方の姿もありました。

神戸八社は正式には「生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)」といいます。生田神社を取り囲むようにここ一宮神社から西に向かって数字が大きくなるように配置されていて、一説には北斗七星を表しているとも言われています。八社のうちの三宮神社は神戸の都心の地名となっていますね。

六甲山地を望む

一宮神社を出て加納町の交差点の歩道橋から六甲山地を眺めてみました。ビルの合間から青々とした山がのぞく光景は神戸ならではですね。

二宮

歩道橋の傍らには少し古びたアーチが架かっていました。この先は二宮町です。

次回はもう少し、二宮を歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(前編)


早秋の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三宮

今回降り立ったのは神戸の都心の三宮。
駅前では阪急神戸三宮駅の新駅ビルが工事中です。

北野坂

三宮から繁華街の中を貫く北野坂を歩くことにしました。

北向地蔵

繁華街の雑居ビルに埋め込まれるようにして佇んでいるのは北向地蔵です。

現在は三宮の東側を流れている生田川(新生田川)ですが、かつてはこの傍のフラワーロードを流れていました。昔、その生田川が大雨で増水し、堤防が決壊しかかっていたところをこのお地蔵さんが防いだという言い伝えがあります。お地蔵さんの名前の「北向」というのはかつての堤防があった方を向いていることに因んでいるとのこと。

北野坂の眺め

北向地蔵からさらに歩くと、六甲の山々が近づいてきました。街路樹とビルの合間からは北野異人館街の風見鶏の館が見えます。神戸らしい印象的な景色ですね。

神戸にいるとあまり訪れないかもしれない北野坂、もう少し歩いてみたいと思います。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて津守を歩いてみたいと思います。

鶴見橋跨線橋

「汐見橋線」沿いに歩いていると古めかしい陸橋が見えてきました。こちらは鶴見橋跨線橋です。もともとは大阪市電阪堺線(三宝線)が「汐見橋線」を跨ぐために設けられたものでした。現在は道路橋となっています。

津守神社

鶴見橋跨線橋の先にあったのは津守神社です。

日本の近代化に伴い工業が発達し、現在は住宅も目立つ津守ですが、もともとは淀川河口から堺へと海沿いに広がる新田の一部「津守新田」でした。津守の新田開発が始まったのは江戸時代の初めの元禄11(1698)年の頃と言われています。大阪湾岸では江戸時代の初めから河川の改修と合わせて新田開発が行われ、広大な田んぼが広がっていました。現在、大阪湾岸には工業地帯が広がっていますが、その土地を生み出したのは江戸時代の新田開発にあったともいえるのでしょうか。津守新田も大阪湾岸の新田の一つとして開発されました。

津守神社の境内

津守神社は津守新田の鎮守として創建された神社と伝わっています。目の前には幹線道路の新なにわ筋が通っていますが、神社の境内は都会の喧騒から離れた静かな雰囲気でした。

津守新田会所跡

津守神社の向かいの小学校・幼稚園の敷地に石碑がありました。小学校と幼稚園はすでに閉校・閉園されていて門は固く閉ざされているのですが、柵の隙間から石碑を見ることができます。こちらは「津守新田会所跡」の石碑です。会所は新田で小作料の徴収を行なったり幕府へ年貢を納めたり、その他、田んぼの維持修繕などを行なう役場のような施設でした。この場所で津守新田の行政を司っていたのですが、今は石碑がその存在を伝えるのみです。

西天下茶屋の街並み

阪神高速の高架を潜ると西天下茶屋の街並みが続きます。

西天下茶屋駅

街の中にあったのが西天下茶屋駅
今は時折電車がやってくる小さな駅ですが、おしゃれな窓があり、丸みを帯びた屋根の駅舎はかわいらしく趣がありますね。かつて高野山への路線として賑わった時代を今に伝えているようです。ホームに上がると、ちょうど電車がやってくるところでしたので、このまま汐見橋に戻ることにしました。

現在は住宅が中心の静かな町となっている津守ですが、歩いてみるとそこかしこに新田開発、そして、工業地帯として大いに繁栄した痕跡を見出すことができます。これから気候のよい秋、買い物ついでに足を延ばしてみませんか。

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