こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。
明石城の本丸の南西側に設けられているのは坤櫓です。巽櫓よりも一回り大きく、弁柄で色付けされた格子が印象的ですね。明石城では天守が設けられなかったため、この坤櫓が天守の代用として使われていたそうです。二つの櫓が対のように設けられている明石城ですが、近くで見るとそれぞれの櫓は全く違う造りであることが印象的ですね。
坤櫓の近くには天守台がありました。
今に残る櫓が印象的な明石城ですが、日本の城につきものの天守閣は設けられませんでした。しかし、こうして天守台は用意されていて、大きさは九州の熊本城とほぼ同じ規模だそうです。もしも明石城に天守閣が設けられて現存していれば、明石の景色は大きく変わっていたのでしょうね。
城内には小さな小山がありました。こちらは人丸塚です。
現在は明石城になっている一帯ですが、かつては楊柳寺という寺院がありました。弘仁2(811)年に空海が創建したと伝わり、明石城の築城からさかのぼること800年も前からこの地にあったのですね。総研から程ない仁和3(887)年に覚証という僧が飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の夢を見て、寺の裏手にあった塚に人麻呂を祀るようになり、人丸社を建立しました。この時、楊柳寺は寺号を月照寺と改めています。明石城築城の際に月照寺は東側の丘に移され、人丸社も柿本神社となり、今も明石の街を見守っています。
本丸の裏手に回ると、広い池が広がっていました。こちらは剛ノ池です。もともとこの地にあった池を築城の際に明石城の中に取り込み、水堀の代わりとしたもので、築城当初は現在以上の広さがありました。池の周辺は起伏に富んでいて、鬱蒼とした木々が生い茂る一角もあり、明石城が平地に設けられた城ではなく、天然の山を利用した城であることがよくわかりますね。資料や写真だけでなく、こうして歩いてみて体験することが史跡を訪ね、散策をする楽しみでした。こうした楽しみ方が多くの人に伝わっていればいいですね。
明石城から山陽明石駅に戻り、直通特急に乗ることにしました。
お知らせの通り、「せっつ・はりま歴史さんぽ」の更新は今回で終了です。山陽電車の沿線やそれ以外、摂津や播磨を始めとした地域を巡り歩いてきた11年に渡る長い長い旅はいよいよ終わりとなりました。次はぜひ皆さんが身近な地域を歩いて、古くから地域に根付いてきた魅力を再発見してみてください。
長らくの間、ご覧いただきありがとうございました。
そして、みなさまどうぞよいお年をお迎えください。