せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

三田・三輪を訪ねて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて三田を歩いてみたいと思います。

大道坂

三輪神社の裏手には坂道が続いていました。こちらは「大道坂」と呼ばれる古くからの道です。

三輪明神窯史跡園

坂の途中に公民館のような施設がありました。こちらは三輪明神窯史跡園です。

三輪明神窯

園内には焼き物を焼く登り窯が保存されていました。

三田盆地は古くから焼き物の生産が盛んな地域で、三田で生産された焼き物は「三田焼」と呼ばれていました。北部の福知山線広野駅の近くには須恵器に由来する「末(すえ)」という地名も残されています。そんな三田で青磁の生産が始まったのは江戸時代でした。この場所から大道坂をさらに上った先にある志手原という地区に江戸時代中期の宝暦年間に志手原窯が開かれて青磁が作られるようになりました。ここ三輪明神窯が開かれたのはその少し後の寛政11(1799)年とされています。三田焼の中でも特に青磁は美しく品質が高かったため「三田青磁」として評価されるようになり、三田城下の豪商が青磁器を生産する窯を支援したこともあって大きく発展することとなりました。

三輪明神窯を眺めて

三輪明神窯には6基の窯が保存されています。近隣には志手原窯を始めとして数多くの窯があり、一帯は焼き物の町だったのでしょう。

江戸時代の終わりに三田青磁の生産はピークを迎えますが、その後、三田焼産業全体が衰退していきます。昭和10年代にはここ三輪明神窯を始め、一帯の窯が全て閉じられてしまいました。現在ではわずかな作家が三田青磁の作品をつくり、ここ三輪明神窯史跡園などで体験会がひらかれています。

三輪神社に戻って

三輪明神窯史跡園から森を通り抜けると三輪神社へ戻りました。境内からは秋空の下に広がる三田の街並みを眺めることができます。

神戸や大阪のベッドタウンとして大きく発展した三田ですが、新しい街並みを離れると盆地に生まれた町が積み重ねてきた歴史が垣間見れるようです。これからの紅葉の季節に訪ねてみてはいかがでしょうか。

三田・三輪を訪ねて(前編)

投稿日:


暦の上では冬となった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三田駅

新開地駅から六甲山地を越えた神戸電鉄の電車は武庫川沿いに広がる三田盆地へと下り、三田線の終点の三田駅に到着しました。三田市の中心にある三田駅は福知山線と接続する交通の結節点で、駅前には商店やホテルなどが建ち並んでいます。

三田駅の北側

バスターミナルが広がり、街の中心部の印象の強い三田駅の南口に対して、北口を出ると山の麓に住宅が建ち並ぶのどかな景色が広がっていました。この辺りは「三輪」と呼ばれていて、中世には今の奈良県にある大神神社の荘園でした。

現在の三田市は神戸や大阪のベッドタウンのイメージが強いのですが、近世には三田盆地を中心に三田藩が置かれ、九鬼水軍で知られる九鬼氏が志摩国から転封されて幕末までこの地を治めていました。そうした歴史から、現在の三田の市街地は九鬼氏の城下町がもとになっていますが、ちょうどこの辺りの三輪地区は三田藩が置かれる以前からの町で、大神神社の荘園を現在の桜井市周辺に拠点を置いていた松山氏が荘官として治めていたことから「松山の庄」とも呼ばれていたそうです。

三輪神社

山の方へ向かって歩くと、大きな鳥居が見えてきました。こちらは三輪神社です。

三輪神社の境内

急な石段の先に三輪神社の社殿がありました。

三輪神社は名前の通り、大神神社を分祀した神社です。日本最古の神社とされる大神神社の分祀ということでこの三輪神社の歴史も非常に古く、奈良時代の天平神護元(765)年に遡るとされています。大神神社が摂津国のこの地を与えられて治めるようになり、その際に祭神の大己貴神をまつるようになったのが始まりとされています。その後、中世には三輪神社の前に門前町が生まれ、武庫川の南岸に建立された金心寺の門前町と一体となって現在の三田の市街地の基となる街が形成されていきました。

三田市街を見下ろす

三輪神社の境内から三田の市街地を眺めてみました。ビルの建ち並ぶ市街地の向こうには丘陵地帯に広がる住宅地を眺めることができ、現代の三田という街を感じることができるような眺めですね。

晩秋の三田をもう少し歩いてみたいと思います。

湊川・荒田を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、湊川を歩いてみたいと思います。

洗心橋

賑やかな商店街を通り抜けると、新湊川の畔に出ました。この付近の湊川は旧湊川を付け替えられたもので、深い擁壁に囲まれてまるで峡谷のようです。川に架かるのは洗心橋で、かつてはこの北側に神戸監獄(後の神戸刑務所)があり、出所した受刑者が更生することを願ってこの名前になったと言われています。

新旧の湊川

洗心橋の少し北東で新湊川は大きくカーブしていて、さらに川沿いからは不自然にカーブした道路が伸びています。ここが新旧の湊川の分岐で、道路がかつての旧湊川の川筋です。

荒田八幡神社

住宅街を歩いていくと、小さな丘の上に神社がありました。こちらは荒田八幡神社です。

荒田八幡神社の創建時期はわかっていませんが、かつては高田神社と呼ばれていたようです。地名からもわかるように、石井川天王谷川が合流して湊川となる地点に近いこの辺りは洪水の被害に遭うことが多かったのですが、この神社の境内は古くから周りより高台にあったため、平安時代には平清盛の弟の平頼盛の山荘が設けられていました。そして、やはり平安時代の治承4(1180)年の福原遷都の際は安徳天皇の行在所となります。今では住宅地の中の神社ですが、平安時代は福原京の中心となった場所だったのですね。

安徳天皇行在所址

境内には安徳天皇行在所址の石碑が設けられています。

宝地院

神社の近くには宝地院という寺院がありました。今では保育園の目立つ寺院ですが、こちらは鎌倉時代の弘安2(1279)年に安徳天皇の菩提を弔うために創建された寺院で、非常に長い歴史を持っています。先ほど訪ねた荒田八幡神社も、もともとこちらにあった八幡社が明治時代に高田神社に合祀されて八幡神社となっています。今ではすっかり街になじんだお寺になっていますが、長い歴史に驚いてしまいますね。

川跡に生まれた町とその周辺に息づくはるか古代からの歴史をもつ場所。
まだまだ感染症の厳しい状況が続きますが、密を避け、お買い物と運動に訪れてみてはいかがでしょうか。

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湊川・荒田を訪ねて(前編)

投稿日:



梅雨明けの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

湊川駅

今回降りたのは神戸電鉄の湊川駅
今は地下のホームに電車が停車していますが、かつては地上にホームがありました。今もターミナル駅らしい風格のある駅舎が地上にあります。

湊川トンネル

駅の南側を通る山手幹線にはアンダーパスのようなものが。こちらは湊川トンネルです。

湊川公園

トンネルの脇にある階段を上り、トンネルの上に上がると湊川公園が広がっていました。芝生の広がる公園はトンネルの上とは思えませんね。この公園の前後には周りから一段高くなった細長い土地が続いています。

何度かご紹介をしましたが、今は「新湊川」として会下山から長田へと流れている湊川はかつてこの場所を流れていました。跡地の公園が一段高い土地になっていることからもわかるように、この旧湊川は六甲山地からの土砂の堆積で川底が高くなった所謂天井川で、大雨のたびに氾濫し、市街地は洪水の被害に遭っていました。また、高い堤防は古くから開けていた兵庫の街と開港地・神戸を分断する存在でもありました。神戸の街の発展には少し厄介な存在だった湊川が付け替えられたのは明治34(1901)年のことで、新湊川は湊川隧道会下山を貫き、苅藻川と合流して長田へと流れることになりました。

湊川の商店街

商店街は買い物客で賑わっていました。
旧湊川の跡地は先ほど見てきた公園や商店街、そして「新開地」として市街地になり、兵庫の街と開港地・神戸の間の繁華街として発展することとなりました。今ではすっかり市街地となり、ここが川跡とは思えないくらいに変わってしまいましたが、かつての川跡は周辺よりも高くなっていて、商店街の中にも高低差が残されています。

旧湊川跡に生まれた町、次回もう少し歩いてみたいと思います。

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衝原と丹生の里を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
これまで北神は山田を歩いてきましたが、最後となる今回は衝原を訪ねてみたいと思います。

衝原バス停留所

神戸市バスに乗って到着したのは終点の衝原(つくはら)です。
志染川はこの先、加古川へと流れていきますが、この先は湖に山が迫る険しい地形が続き、その先は三木市になります。

箱木家住宅

衝原の集落にあったのが箱木家住宅です。別名「箱木千年家」と呼ばれ、日本で現存最古の民家と言われています。箱木家住宅の母屋は室町時代の建築とされていて、実際に千年経っているわけではありませんが、戦後まで民家として使われていたそうです。中を見学したいところですが、残念ながら訪れたときは5月まで閉館とされていました。残念です。

衝原地区

箱木家住宅のある衝原地区は整然とした町割りで、新興住宅地のような雰囲気です。それもそのはずで、元々の衝原地区は今の場所の西側…今は湖になっている場所にあり、今の街は移転して作られました。

衝原地区の西側にある「つくはら湖」は呑吐(どんど)ダムで志染川を堰き止めて作られた灌漑用・上水道用の貯水池で、蓄えられた水は東播磨地域を潤しています。竣工は平成元(1989)年で、変わったダムの名前は、この地にあった「呑吐の滝」という滝に由来しているそうです。住宅や箱木家住宅は高台に移転しましたが、山里や呑吐の滝は今は水の底です。

衝原大歳神社

バス停の近くに神社がありました。こちらは衝原大歳神社です。この神社も移転したもので、新しい社殿が建っていました。

つくはら湖を見下ろす

神社の横からつくはら湖を見下ろしてみました。写真ではまだまだ冬の景色ですが、もう間もなく湖畔には桜が咲くことでしょう。不安に覆いつくされたような世の中ですが、北神の里には確かに春が来ています。世の中が落ち着いたころ、京都とのつながりを感じる山里を歩いてみてはいかがでしょうか。

世の中がいち早く元に戻ることを祈りながら、衝原を後にすることにしました。

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衝原と丹生の里を歩いて(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、北神は山田を歩いてみたいと思います。

福田寺

田んぼの中ののどかな道を歩き、集落の中に入ると寺院がありました。こちらは福田寺です。

丹生神社鳥居

福田寺のある集落を抜けて歩いていくと、田んぼの中に鳥居がありました。
こちらは丹生神社の鳥居です。

丹生神社の創建時期はわかっていませんが、はるか古代に遡ると言われています。元々はこの地にあった明要寺という寺院の鎮守社だったとのことで、この明要寺も百済の聖王の王子の童男行者なる人物が伽藍を建立したのが始まりと言われていますが、これも詳しい時期はわかっていません。平安時代は平清盛が山王権現を勧請し、神社としての姿が整えられました。

丹生山への道

鳥居の向こうにはのどかな道が続き、その向こうに丹生神社のある丹生山がそびえています。丹生神社に祀られている丹生都比売(にうつひめ)は渡来系の丹生氏の氏神で、丹生氏が水銀鉱山に深くかかわっていたことから、鉱山の神とされています。実際に、丹生山の隣の帝釈山では銅を始めとする金属が採掘されていました。北神地域では有馬温泉の泉源を守るために採掘は厳しく制限されていて、この帝釈山は数少ない鉱山でしたが、太平洋戦争後に衰退し、今ではほとんど面影もありません。

丹生宝庫

丹生山への道の途中にあったのが丹生宝庫です。こちらは丹生神社の宝物殿で、中には丹生神社を鎮守としていた明要寺の遺物などが収められているそうです。興味深いところですが、公開は毎年5月5日の年に一日だけだそうです。

丹生神社参道

集落を通り抜ける丹生神社の参道には、参道を見守るようにお地蔵さんがありました。神社はこの先、3キロ弱の山道を登った先にあるようですが、山登りの装備をしていなかったのでまたの機会ということに。お地蔵さんに挨拶をして、引き返すことにしました。

のどかな里に史跡が点在する北神・山田。次回はさらに歩いてみたいと思います。

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北神・山田の里を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、北神は山田を歩いてみたいと思います。

志染川を眺める

無動寺の山を下りて、のどかな里道を歩くことに。
谷を刻むのは志染川で、この川は三木で美嚢川と合流し、さらに加古川に合流することになります。

六條八幡宮

山沿いにあったのが六條八幡宮です。

六條八幡宮の歴史は非常に古く、はるか古代に神功皇后がこの地に行宮を設けたのが由来とされています。平安時代の長徳元(995)年には基灯なる周防国の僧が八幡三神を祀る社を建立し、神社としての姿が整えられていくこととなります。

六條八幡宮の境内

六條八幡宮の境内は開けていて明るい雰囲気ですが、どこか厳かな雰囲気が漂っています。
創建から時代が下り、中世の保安4(1123)年にこの地を治めていた源為義が京都六條の自邸に祀っていた左女牛八幡を勧請し、この神社に合祀したことから「六條」と呼ばれるようになったと言われています。

三重塔

境内には立派な三重塔がありました。こちらは室町時代の文正元(1466)年に地元の鷲尾綱貞なる人物らによって建立されたものです。神社に仏教的な塔があるのは何とも不思議ですが、かつての神仏習合の名残のようです。

北神の住宅開発の範囲からも外れ、のどかな景色が残されている山田の地はどこか京都の香りのする山里でした。すでに十分に興味深いところを訪れたように思いますが、志染川を下るとさらに見どころが広がっています。次回はもう少し山田の地を歩いてみたいと思います。

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北神・山田の里を歩いて(前編)

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春の気配を感じながらも、どこか落ち着かないこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

箕谷駅

今回のスタートは神戸電鉄の箕谷駅
駅近くのバスターミナルから神戸市バスに乗ります。

山田の里

福地バス停
で市バスを降り、歩いていくと広がるのは志染川沿いに広がる里の景色です。
ここは神戸市内ですが、こんなにのどかな景色が広がるとは。近世にはこの辺りは下総古河藩の所領だったそうで、畦道に佇む「新兵衛石」なる石には藩主に年貢の軽減を訴えた青年の話が残されているそうです。

山道を行く

山中に分け入ると、石仏の並ぶ山道が続きます。

無動寺

山道の先にあったのは無動寺という真言宗の寺院です。

無動寺はかつては「福寺」と呼ばれていたそうですが、創建時期ははっきりとわかっていないようです。現在の姿になったのは江戸時代の宝暦2(1752)年のこと。この地にあった荒廃した寺院を高野山の高僧・真源和尚なる人物が再興したと伝えられています。高野山の影響か、真言宗の寺院となったため、密教寺院らしい雰囲気ですね。

無動寺の境内

山中にあるだけあり、境内はしんと静まり返っていました。ここは仏教寺院ですが、境内の隅には鳥居が…。

若王子神社

境内の鳥居の先には神社がありました。こちらは若王子神社です。福寺と呼ばれていた無動寺の鎮守として建立されたそうで、室町時代の応永5(1408)年の創建と伝わっています。この神社の棟札には永仁5(1297)年と書かれたものもあるそうで、福寺の創建はその頃までさかのぼることができるのではないかと言われています。

のどかな里に中世からの社寺が佇む山田の里。もう少し歩いてみたいと思います。

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鵯越を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、鵯越を歩いてみたいと思います。

元西神戸有料道路

坂道を上ると、急に開けた道に出ました。神戸市道の夢野白川線で、かつての西神戸有料道路です。多くの車やバスが行き交い、山間にひっそりと佇んでいた鵯越駅とは別世界のようで一瞬戸惑ってしまいます。

大阪湾を見下ろす

道沿いからは神戸の街並みと大阪湾を見下ろす景色を眺めることができました。ちょうど、神戸電鉄の電車が住宅地を縫うように坂道を下りていきました。

鵯越墓園

市道を少し上ると、大きく開けた空間がありました。こちらは神戸市の鵯越墓園です。

逆落としで知られる鵯越ですが、現在神戸市にお住まいの方なら、鵯越といえば墓園のイメージもあるのではないでしょうか。かつては「奥山新田」という山奥の新田に大規模な墓園が整備されたのは実は最近で、和田岬にあった墓地を移転し、昭和7(1932)年に鵯越公園墓地として開設されました。当時は湊西区(のちの兵庫区)の墓地だった鵯越は戦後に市の直営となり、市営の公園墓地として整備されていくこととなります。

鵯越の碑

墓園の入り口には鵯越の碑がありました。

鵯越大仏

墓園の中を歩くと、大仏がありました。こちらは「鵯越大仏」と呼ばれ、昭和7(1932)年にこの墓地が開設された当初に建立されたものです。今では墓園の中にある大仏ですが、当時は墓園の頂上に設けられたのだそうです。

大仏からの眺め

鵯越大仏からは神戸の街を見下ろすことができました。

お盆には鵯越を訪れたという方も、改めて歴史と神戸を見下ろす景色を楽しめる鵯越を歩いてみると、新しい発見があるかもしれません。

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鵯越を歩いて(前編)

投稿日:



夏の日差しの照りつける中に時折涼しさを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

鵯越駅

新開地から神戸電鉄の電車で六甲山の山の中に分け入り、到着したのは鵯越駅

鵯越の街並み

鵯越駅の周辺には複雑な地形の斜面に住宅が建ち並んでいます。
神戸といえば異人館や港が思い浮かぶのかもしれませんが、こういった立体的な住宅地が広がる景色こそ神戸らしい景色ではないかと個人的には思います。

鵯越といえば、「鵯越の逆落とし」が思い浮かぶのではないでしょうか。
所謂「源平の合戦」と呼ばれる治承・寿永の乱の最中の寿永3(1184)年、一の谷の合戦の中で行われたといわれ、源義経率いる軍勢が平家の陣を奇襲した戦いです。物語では、須磨・一の谷の平家の陣の裏手の山を義経の軍勢が駆け下りて奇襲を仕掛けたと言われていますが、ここ鵯越から一の谷までは直線距離でも7kmは離れています。一応、山並みは須磨へ繋がっていますが…。この辺りから、義経の逆落としが行われた場所には諸説があるようで、今もはっきりはしていません。

石仏の道

住宅地の奥に入ってみると、菊水山のほうへとつながる山道がありました。道沿いには石仏が並んでいて、どこか神聖な雰囲気ですが、この道の由来についてはよくわかりませんでした。

氷室神社

山道には氷室神社という神社がありました。
氷室神社といえば、麓の神鉄長田駅近くの神社がこの辺りでは知られていますが、ここ鵯越にも同じ名前の神社がありました。ここにも氷室があったのでしょうか。境内は草木が茂り、鳥居も倒れていて、小さな神社は自然に還ろうとしていました。

鵯越の山の中に佇む歴史の道、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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