せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

官兵衛幽閉の地 ~有岡城をたずねて

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黒田官兵衛が幽閉された有岡城(伊丹城)を訪ねてきました。

JR伊丹駅前すぐ。阪急伊丹駅からは徒歩10分ぐらいでしょうか。思いっきり町中にありますが、自然に溶け込んでいます。

案内板

この有岡城ですが、織田信長の家臣・荒木村重の居城となります。天正2年(1574年)に村重は領主であった伊丹氏に替って有岡城に入り、大改築を行います。侍屋敷や町屋を堀や土塁で囲んだ惣構えの城となり、難攻不落の名城とされました。ちなみに規模は東西に0.8キロ、南北に1.7キロだったそうで、歩いて回るのも大変です。といっても当時を偲ぶ城跡は駅前の本丸跡ぐらいでしょうか。

有岡城石碑

ゆるキャラ、むらしげたみまる

いたみのマスコット・たみまるが「軍師官兵衛」放映にあわせて荒木村重に扮しました。昨年、伊丹市が官兵衛幽閉を姫路市に謝罪したというニュースが流れましたね。

荒木村重は摂津の国を信長から与えられ、石山本願寺の攻略を任せられていました。

有岡城の石垣

秀吉の播磨攻略が上手くいかず、小寺氏や官兵衛以外の播磨の領主達が織田方から中国地方の毛利方に寝返っていく中、突如村重も信長に謀反を起こします。

荒木村重と旧知の間柄であった官兵衛は村重の説得に向かいましたが、主君の小寺氏からも裏切られ、有岡城に幽閉されます。官兵衛の投獄された場所ですが、有岡城の西北、後ろは沼地、三方が竹藪に囲まれており、日が差し込まず湿気が多い場所であったとされています。

場所は特定できていないそうです。勝手な予想ですが…

織田方の攻撃を受け、約1年間にわたり攻防が繰り広げられますが落城し、官兵衛も瀕死のところを家臣・栗山善助に助け出されます。

ちなみに荒木村重は謀反後、毛利方に亡命し茶人として生き延びます。

豊臣時代には官兵衛にお願い事をする書状を送っており、官兵衛も快く応じていることから、投獄された遺恨もあまりなく、すでに仲直りしていたのではないでしょうか。

官兵衛の器が大きいのか、殺さずに幽閉という手段をとった村重に恩義を感じていたのか…

建物礎石跡

ちなみに有岡城のその後ですが、天正8年(1580年)に池田之助という人が城主になりますが、3年後に美濃に移ったため廃城となりました。
官兵衛にとっては本当につらい時期を過ごした有岡城でしたが、織田の重臣・荒木村重が精魂こめて築き上げた城でもあります。
ぜひ足を運んでみてください。

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官兵衛の初陣の地 ~土器山~

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前回に続いて黒田官兵衛の初陣、青山・土器山の戦いについて。
その土器山を訪ねてきました。

土器山と書きますが、「かわらけ山」と呼んだのだそうです。そしてこのかわらけやま(瓦山)は現在の船越山であるという説があります。

場所は前回の青山古戦場と夢前川を挟んで姫路側になります。青山古戦場から徒歩で20~30分ぐらいでしょうか。
姫路赤十字病院の近くになります。

一度は青山で龍野の赤松政秀を撃退した黒田家でしたが、赤松政秀は再び姫路に侵攻してきます。
赤松軍は3000人程の兵に対し、黒田軍はその10分の1程の兵しかいませんでした。
数に劣る官兵衛は当然、劣勢に陥ります。
黒田軍に多数の死傷者が出て壊滅状況の中、官兵衛は夜に赤松軍を強襲します。
まさか反撃に出るとは思っていなかった赤松軍は混乱し、龍野に敗走します。

官兵衛の忠臣である母里武兵衛は重傷ながらも赤松軍を追撃し、7本の槍に貫かれ、壮絶な死を遂げたそうです。

船越山の麓には船越神社が建っています。

船越神社

麓には黒田官兵衛にまつわる案内版もあります。

階段を登っていくと、山の中腹に金毘羅宮がありました。

金毘羅宮

黒田官兵衛陣地跡の案内にしたがって、その横の山道を行きます。

完全に山道なので大丈夫なんだろうかと不安になりますが、恐る恐る進むこと2、3分。
すぐに山頂につきます。

青山合戦陣地跡

頂上からは姫路城方面と龍野城方面がよく見渡せます(木が生い茂っていますが…)夢前川をはさんで、赤松氏の龍野方面がすぐ眼下におさまります。

小さく見える姫路城

決死の覚悟と機転で生まれ育った姫路を守った官兵衛。

幼いころからの家臣である母里武兵衛を失うなど、失ったものは計り知れませんが、ここから「軍師」としての道が始まりました。

官兵衛の初陣の地である青山土器山にぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

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A:山陽姫路駅
B:青山古戦場跡
C:船越神社(土器山)


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官兵衛の初陣の地 ~青山古戦場~

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官兵衛の初陣の地である青山古戦場跡を訪ねてきました。

山陽姫路駅から神姫バスの38か39系統龍野行に乗って、「青山坂下」という停留場で降ります。特に案内もないので分かりづらいと思いますが、停留所から歩いてすぐです。

松本ガスさんの看板の前の細い路地を進みます。

官兵衛の初陣である青山・土器山の戦いについてですが、黒田氏と龍野城主の赤松政秀との壮絶な戦いになります。

そもそもの発端は赤松家の内部争いになります。

赤松家は書写山の北方の置塩城が宗家になります。宗家の義祐は父・晴政と共同で政務を行っていましたが、備前の浦上家を後ろ盾に父・晴政を追放し、赤松家の家督を相続しました。この晴政を龍野の赤松政秀が匿います。

これにより赤松宗家と龍野の赤松家は対立します。

龍野の赤松政秀は勢力を広げ、京都の将軍・足利義昭とも結びつきを強めようとしますが、これを危惧した宗家の赤松義祐は備前の浦上家と御着の小寺家に龍野を攻撃させようと企図します。

一方、政秀は足利義昭を通じて織田家の援軍と三木の別所家の援軍を得ます。

さらに義祐側の備前・浦上家では家臣の宇喜多直家の謀反により、撤退を強いられることになりました。

龍野の赤松家が有利になっていく中、赤松政秀は義祐側の黒田家が守る姫路へ侵攻します。こうして青山・土器山の戦いが始まります。

青山古戦場の絵図

現地には青山古戦場の碑が残っているだけで当時の面影を残すものは何もありません。

黒田官兵衛古戦場碑

目の前には青山ゴルフクラブが広がります。そして、ゴルフ場の敷地内に大きな池が見えます。

千石池

「戦国池」とも呼ばれ、青山の戦いでの戦死者が多く沈んでいると言われているそうです。そう言われると不気味な感じがしてきます…

圧倒的に劣勢な黒田軍ですが、兵を伏せて、数に勝る赤松軍を追い払いました。

碑のそばにはフジの木メグスリの木が植えられていました。

フジは官兵衛が有岡城に幽閉されていたころに、フジの花を見て励まされたそうです。黒田家の家紋にもなっています。

メグスリの木は官兵衛関連のスポットではもはやお馴染みでしょうか。黒田家はメグスリを売って財源となし、その後の繁栄へとつながりました。

一度は赤松軍をこの青山の地で追い払いましたが、再度赤松軍は姫路に攻めてきます。土器山の戦いと呼ばれる戦いですが、長くなりましたので次回に紹介したいと思います。

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A:山陽姫路駅
B:青山古戦場跡


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屏風ヶ浦海岸を歩く

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山陽電車の沿線には歴史的な大発見だったかもしれないスポットがあります。
屏風ヶ浦海岸にある「明石原人発見地」です。

中八木駅で降り、少し歩くと目の前に海が広がります。
この辺りは「屏風ヶ浦海岸」と呼ばれていますが、「屏風ヶ浦」の名前の由来は瀬戸内海の波に洗われて古代の地層が露出し、切り立った断崖がまるで屏風のように見えることからその名がついたそうです。

屏風ヶ浦海岸

屏風ヶ浦海岸を歩くと、少し高台に小さな神社があります。
住吉神社です。

住吉神社からの景色

鳥居越しに海がきれいで気持ちいいです。

アカシゾウ発掘地

アカシゾウは、120万年前~180万年前に日本列島にすんでいたゾウの一種です。
昭和35年に中学生がこの屏風ヶ浦海岸でゾウの牙の化石を発見し、6年間にも渡って発掘を続けたそうです。

明石原人発見地

1931年に明石の大蔵谷に住む直良信夫がこの屏風ヶ浦海岸で成人男性の腰骨を採集しました。これを東京帝国大学に送り、鑑定を依頼しましたが、特に評価もされず返送されたそうです。直良はその後東京に転居しますが、大切に保管していたこの人骨は空襲により失われました。
戦後、東京大学の教授が残っていたこの人骨の石膏模型を検討した結果、原人の骨であるとして「明石原人」と名付けられました。
発見地は何度か発掘調査が行われましたが、特に他の人骨や石器は出土しなかったようです。
とにかく実物が失われているので、その後に様々な研究が成されましたが、原人ではなく、縄文時代から現代までのいずれかの時代の人骨だと評価されていきます。

ただ、1985年に国立歴史民俗博物館の発掘調査で人骨は発見されませんでしたが、人間によって加工された木材片が発見され、ネアンデルタール人級の人類である可能性が高まりました。

実物があればというところですが、真実は闇の中にというところでしょうか。

 

歴史スポットも多くある風光明媚な屏風ヶ浦海岸にぜひ足を運んでみてください。

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A:山陽電車 中八木駅
B:八木公園(アカシゾウ発掘地)
C:明石原人発見地
D:住吉神社

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官兵衛ゆかりの地 ~御着城をたずねて

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こんにちは。玄蕃允です。

黒田官兵衛ゆかりの地、御着城へ行ってきました。

御着城石碑

黒田官兵衛の主君、小寺氏の居城になります。別名は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、永世16年(1519年)に小寺政隆が築城しましたが、すでに明応年間(1492年~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として、守護所の機能をもつ城郭として機能していたそうです。江戸時代に描かれた絵図では惣構えの城(城内に城下町等をとりこんだお城)として描かれているそうで、かなり大規模なお城だったと考えられます。三木城・英賀城とともに播磨の三大城郭に数えらました。

当時、姫路城は現在のように大きくはなく、この御着城が本城、姫路城が支城という位置づけでした。

現在は公民館が建っています。

黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

黒田家繁栄の源となった目薬の木が植えられています。

官兵衛は16歳の時に御着城主・小寺政職の近習として出仕し、その後家老として重用されていきます。主君の小寺政職が播磨地方に侵攻する織田家から中国地方の毛利家に寝返るまで、18年間御着城に出仕しました。

「黒田家廟所」

黒田家の礎を築いたともいえる官兵衛の祖父・重隆と母・明石氏の供養塔です。

重隆は諸説ありますが、備前福岡から姫路に流れ着き、廣峰神社の御師(神官)と家伝の目薬を売ることで財をなし、小寺家に仕えました。

母・明石氏は枝吉城主・明石正風の娘で、父正風が近衛関白家の歌道の師範をしていたこともあり、歌の道に優れていたそうです。官兵衛は若いころ、和歌に熱中したそうで母の影響を多分にうけていました。

この御着城ですが、小寺氏が織田方から毛利方に寝返ったため、天正7年に秀吉に攻められ落城、廃城となります。

小寺大明神

南側には小寺大明神があり、小寺家三代とその家臣が祀られています。
毎年4月には黒田家、小寺家の関係者が集まり、祖先慰霊の大祭も行われているそうです。

黒田官兵衛が前半生を費やした御着城祉にぜひ足を運んでみてください。

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舞子公園の移情閣をたずねて

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こんにちは。玄蕃允です。

突然ですが、山陽電車公認3ブログ「たいたいの太鼓判」「スマホ片手にまちぶらり」そして「せっつ・はりま歴史さんぽ」が協力して、9月9日~23日まで「垂水ウィーク」を開催したいと思います。

垂水のグルメ・歴史・街並みをこれでもかと押していきたいと思っていますので、ぜひブログを見て、垂水に足を運んでくださいね。

 

山陽沿線歴史部ではすでにフライング気味ですが、垂水の歴史を追っていきます。

ということで、明石海峡大橋の袂、舞子公園に重要文化財の建物があり、行ってきました。

移情閣(孫文記念館)です。

8角3階建ての美しい建物です。1915年に建築され、コンクリートブロックを用いた建造物では最初期の建物でもあり、当時の構造や技術を伝える遺構としても重要です。

神戸で活躍した中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海荘」を前身としています。

明石海峡大橋と移情閣

明石海峡大橋がバックに映えますね。

内部は中国の革命家・孫文を顕彰する日本唯一の博物館となっています。

民主主義を掲げ、清王朝を倒し、中華民国を建国した孫文ですが、神戸と深い関わりがあります。

中華民国を建国したものの、実権は袁世凱に移り、袁世凱に対する第2革命を起こした孫文でしたが、革命は失敗に終わり、日本に亡命します。その際、川崎重工業の松方幸次郎に神戸にかくまわれる等、何度も神戸を訪れました。

そんな孫文に関する資料が所せましと並んでいます。

また内装の美しさにも目を奪われます。

 

移情閣のすぐそばには「旧武藤山治邸」もあります。

武藤山治ですが、鐘紡の中興の祖と呼ばれた人物で、衆議院議員としても活躍します。

この建物は明治40年に建築されましたが、国会議事堂や首相官邸などを手掛けた大熊喜邦の設計によるものだそうです。

「移情閣」も「旧武藤山治邸」も舞子の浜に上手く調和していますね。

美しい舞子公園を拠点に垂水の街並みをぜひ散策してください。

サンヨーパス

 9/14(土)~16(月・祝)9/21(土)~23(月・祝)のそれぞれ3日間、山陽バス全線(高速バス、二見線、Tacoバスは除く)が乗り放題『Sun!Sun!サンヨーパス』が便利です。

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A 山陽電車舞子公園駅
B 移情閣(孫文記念館)
C 旧武藤山治邸(旧舞子鐘紡倶楽部)


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室津へ

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こんにちは。玄蕃允です。

今回は黒田官兵衛ゆかりの地として室津に行ってきました。(ちょっと沿線からは離れていますが・・・)

 

室津は『播磨国風土記』で「風を防ぐこと室の如し」と紹介されているように、天然の良港で古代から瀬戸内海航路の要港でした。江戸時代、参勤交代の西国大名はほとんどがこの室津で上陸し、陸路を進んだため、宿場町としても栄えたそうです。

車以外の交通手段として、山陽電車の網干駅から神姫バスで行くことができます。時刻表を見ると便数は少ないですが、約25分で着きます。意外と近いです。

美しい港

カキの販売所が並んでいます。

カキの時期にまた来たいですね。

 

たつの市立室津民俗館

 

民俗館は海産物問屋の商家であり、立派な雛人形が飾られていました。

室津では八朔(旧暦8月1日)にひな祭りをする風習があるそうです。それは室山城で起こった悲劇に由来があります。

室山城の城主・浦上正宗の弟・宗景と黒田官兵衛の妹との婚礼の夜に、当時対立していた龍野城主の赤松政秀が室山城を急襲しました。室山城は落城し、花嫁は討死したという悲しい出来事があったそうです。花嫁の鎮魂のために半年遅れの八朔の日にひな祭りを延期したというのが八朔のひな祭りの由来です。

官兵衛にとって室津は家族を亡くしたつらい土地だったのかもしれませんね。

そして一番の目玉、賀茂神社

 

えらく立派なソテツもありました。

賀茂神社は平安時代に建てられ、本殿を含めて8棟の建造物が重要文化財に指定されています。ソテツは野生のものでは日本列島の北限として県指定文化財になっています。清盛ともゆかりのある神社で、治承4年(1180)高倉上皇の厳島参詣に清盛は同行し、室津に立ち寄った際に航海の安全を祈願しました。

神社からは素晴らしい景色が眼前に。

かのシーボルトも絶賛したというのも頷けます。

黒田官兵衛ゆかりの地であるとともに、古代から海上交通の要所であった室津。ぜひ一度足を運んでみてください。

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明石藩の舞子砲台跡をたずねて

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こんにちは。玄蕃允です。

明石藩の舞子砲台跡を見に行きました。明石海峡大橋の袂にあり、明石海峡・淡路島が一望でき、とても気持ちいいです。山陽電車・舞子公園駅から南にすぐのところにあります。

舞子砲台跡

この舞子砲台ですが、幕末の1863年(文久3年)に将軍の徳川家茂が大阪湾の海防状況を視察し、砲台を拡充するように明石藩に命じ、築造されました。

 

明石藩へは一万両が貸与され、工事は勝海舟により指導されます。工事は1年~2年かかったようです。

こういった施設は「台場」と呼ばれますが、東京のお台場など地名として今でも残っているところがあるようですね。

対岸の淡路島側では徳島藩により松帆台場が築かれ(淡路島は徳島の領地でした)、明石海峡を通過する外国船をはさみうちにしようとの計画でした。明石海峡は大阪湾の玄関口なので、ここを破られると天下の台所・大阪、天皇のいる京都に入られるので責任重大ですね。

大砲のレプリカ
 

ちなみに大砲のレプリカが置いてありますが、悲しいことに舞子砲台では砲弾庫・火薬庫・兵舎等の施設は建設されず、実際には大砲も据えられなかったようです。せっかく造ったのに・・・

明石海峡大橋と通過する船舶
 

 ちょうど目の前を船が通過していきます。目と鼻の先ですね。

明石藩では、鎖国の終わりとなった日米和親条約(1854年)以前は3箇所の台場が築造されていました。1854年にロシアのプチャーチン率いる艦隊が開国を要求して、簡単に大阪湾に入ったことから、幕府による大阪湾防衛の計画が決められ、周辺の諸藩に対して海防強化を命じます。これを受けて、1862年に新たに9箇所の台場を築造したそうです。

明石藩はそれほど大きな藩ではないので、このような責任重大の海防を任され、大変だったでしょうね。

ぜひ幕末の明石の面影を追って、舞子砲台跡と絶景の明石海峡大橋に足を運んでみてください。

  
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福原京をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

前回に内膳正が湊川公園についてご紹介しましたが、せっかく福原京の近くまで行ったので少し足をのばして、新開地~高速神戸周辺の平清盛ゆかりの地を訪ねてきました。大河ドラマは去年で終わりましたが、まだまだ引っ張ります。

高速神戸駅から北に歩くと、荒田八幡神社が見えてきます。

荒田八幡神社(あらたはちまんじんじゃ)

美しい神社ですね。
平清盛の異母弟・頼盛(よりもり)の山荘がこの一帯にあったとされています。

治承(じしょう)4年(1180年)に清盛は理想の都を造るためにこの福原へ都を移し、主だった貴族も移り住みますが、清盛の孫にあたる幼い安徳天皇はこの頼盛邸に入り、行在所(仮の皇居)として使われました。

安徳天皇行在所址

福原遷都八百年記念の碑

境内には「安徳天皇行在所址」「福原遷都八百年記念の碑」が建立されています。
わずか8歳で壇ノ浦の海に入水された安徳天皇は神社のご祭神として祀られています。

さらに北に歩くと、雪見御所旧跡(ゆきみのごしょ)があります。

雪見御所旧跡

「平家物語」などには、清盛が福原にいくつか邸宅を持っていたことが書かれていますが、そのひとつがこの「雪見御所」です。発掘調査からも、この近辺に貴族の邸宅があったことが分かっており、まさしく福原の中心であったことが推定されます。 

 ここまで歩くと結構疲れるので、温泉はいかがでしょうか。

湊川上温泉(みなとがわかみおんせん)

ただの温泉ではありません!!
雪見御所近くに湯屋があったと当時の貴族の日記に記されているので、その湯屋がこの温泉だった可能性が・・・
清盛も入った温泉かもしれません・・・ 

まだまだ福原京の史跡はいっぱいあるので、今後もご紹介できればと思います。

 ついでに歴史と関係ありませんが、お腹が空いて寄ったお店が美味しかったのでご紹介を。

うどんとそばの店「たつや」

でも名物はカレーどんぶり

ボリュームたっぷりのカツカレーどんぶりです。歩きつかれた体に染み渡ります。
うつくしい黄身が食欲をそそります!!
史跡めぐりコースにぜひ組入れてください!!

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須磨離宮公園で桜を楽しむ

投稿日:


こんにちは、玄蕃允(げんばのじょう)です。

山陽電車のキャンペーンで、須磨の桜は「敦盛桜」(あつもりざくら)ということで、須磨離宮公園にお花見に行ってきました。
山陽電車の月見山駅より、「バラの小径」なるなんとも小洒落た道をのんびり歩きます。

バラの 小径                  正門

 ちなみに現在、「さくらめぐりバス」がこの離宮公園や須磨浦公園、須磨寺公園、妙法寺川公園を無料で回っており、とってもお得みたいです。

この離宮公園ですが、西本願寺の別邸を宮内省が買収し、大正3年に完成させた武庫離宮がもとになっています。離宮御殿など建物の大半は戦災により焼失してしまいますが、復元され、天皇のご成婚記念として1967年に神戸市に下賜されました。
さらに併設されている植物園は、山崎豊子の『華麗なる一族』のモデルとなった岡崎財閥の敷地と建物を神戸市が買収したものだそうです。

なんともゴージャス!!

まるで宮殿にいるような感覚です。

そして肝心の桜はというと・・・

アスレチックと桜

須磨の海と桜

つつじと桜

この土曜日の写真です。場所によっては見ごろですが、全体的にもう少しかな・・・
今週がちょうどいいのではと、勝手に予想しています。
ちなみに椿や菜の花もきれいに咲いていました。

離宮公園のあるこの月見山ですが、平安時代の歌人・在原行平(ありはらのゆきひら)が須磨にわび住まいした時、秋月を眺めた山に由来しているそうです。

傘亭  月に映えます

以来、須磨は月見の名所として、江戸時代の観光ガイドにも「行平月見の松」が紹介され、松尾芭蕉などが訪れています。

行平月見の松跡

最後に月見山展望台とその景色

須磨の海が見渡せ、開放感でいっぱいです!!
 山陽電車からはお得な「須磨離宮公園散策きっぷ」が発売されているそうなので、ぜひお花見を楽しみに須磨離宮公園までお出かけ下さい。

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