せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

五百羅漢が見守る宿場町・北条を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、加西の北条を歩いてみたいと思います。

但馬街道の景色

北条の街中には趣のある景色が広がっています。この道はかつての但馬街道で、北条から市川沿いに出て、生野峠を越えて豊岡へとつながっていました。今でも北条の町の北側には中国道が通っていて、福崎で播但連絡道路と接続し、但馬方面へとつながっています。今も但馬への経路であることは変わりませんね。

酒見寺

旧街道沿いに立派な仁王門がありました。こちらは酒見寺(さがみじ)です。

酒見寺は奈良時代の天平17(745)年にこの地を訪れた行基酒見明神の神託を受けて建立したと伝わる古刹です。聖武天皇の勅願寺とされ、平安時代から勅旨の参詣が毎年行われるなど朝廷の帰依もあって、広く信仰を集める寺院となりました。北条が宿場町として発展するのは近世に入ってからですが、それ以前の中世にかけて、この酒見寺の門前町が広がっていたそうです。

酒見寺の境内

仁王門をくぐると、二層屋根の本堂へと参道が伸びていました。両側には青銅の灯篭が立ち並んでいます。

酒見寺多宝塔

境内にあったのは鮮やかに彩られた多宝塔です。奈良時代の建立とされる酒見寺ですが、二度焼失していて、現在の伽藍は戦国時代に焼失したものを江戸時代に当時の姫路城主・池田輝政により再興されたものです。こちらの多宝塔も江戸時代初めの寛文2(1662)年に建立されたものとされています。

石橋

境内の西側には小さな池と古風な石橋がありました。

住吉神社

石橋を渡った向こうは住吉神社という神社です。こちらは酒見寺よりも古く、現在の場所に社が建てられたのは養老元(717)年とされています。住吉三神だけでなく、酒見明神を祀り、古くには「酒見大明神」「酒見社」と呼ばれていました。行基が神託を受けたのもこの酒見明神からですね。酒見寺は建立後、この住吉神社の別当をつとめるなど、深い関係にあり、近世にはともに池田輝政の庇護も受けて繁栄することとなりました。

街道の宿場町として栄えた北条ですが、それ以前にも町としての広がりがありました。
次回、もう少し北条の歴史をさかのぼってみたいと思います。

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