せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

城下町・尼崎を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、尼崎を歩いてみたいと思います。

桜井神社

城址公園の南側には桜井神社という神社がありました。
この神社には幕末まで尼崎藩主を代々務めた桜井松平家の歴代当主をまつる神社で、明治時代にこの場所に建立されました。

尼崎市立文化財収蔵庫

桜井神社から東に向かうと学校のような建物が姿を現しました。こちらは尼崎市立文化財収蔵庫です。物々し名称ですが、一般向けの展示も行われていて、平成26年5月4日から6月29日までの間には「秀吉 尼崎の危難展」が開催中です。

元中学校の建物

尼崎市立文化財収蔵庫の建物は昭和8(1933)年、尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立高校)の校舎として建設されました。尼崎市立高校が移転した後は城内中学校の校舎として使用されていましたが、城内中学校も学校統合に伴い移転。尼崎市立文化財収蔵庫の建物として使用されるようになりました。館内は完全に学校の雰囲気で、何だか懐かしくなってきました。ちなみに、この建物は映画「ALWAYS三丁目の夕日64」のロケで病院として使われたようで、それにまつわる展示も館内にはあります。

企画展で開催中の「尼崎の危難」とは、秀吉の中国大返しの際の物語。天正10(1582)年、備中高松城の戦いで毛利氏と講和を結んだ秀吉は本能寺の変の一報を聞きつけて明智光秀を討つために京都へ引き返します。途中、この尼崎で信長を弔うために髪を下したのですが、そこから、光秀軍に囲まれた秀吉が僧に変装して難を逃れたという物語が生まれました。この物語はあくまで伝説のようですが非常に人気があり、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃の題材になりました。企画展ではそれらにまつわる資料が展示されています。
中でも私が面白いなと思ったのが、戦前の学年誌の正月号の付録。「尼崎の危難」とは直接関係がないのですが、なんと、 秀吉の出世物語がすごろくになっていました。農民の子から関白・太政大臣にまで上り詰めた秀吉を「日本の英雄」と讃える内容は時代を感じさせますが、秀吉の人気を感じさせました。

尼崎城址碑

文化財収蔵庫の裏手の明城小学校には「尼崎城址」の碑がありました。この明城小学校と文化財収蔵庫の敷地は尼崎城の本丸跡とされています。次回は尼崎城について迫ってみたいと思います。

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