蒸し暑い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。
先日の亀山御坊の記事で、中世に栄えた英賀について触れましたが、今回はその英賀を歩いてみようと思います。
夢前川駅
スタートは山陽網干線の夢前川駅。
戦前に網干線が開通した当初はここが終点でした。
英賀復元図(内膳正作)
ここから英賀を目指していきますが、取り出したるは一枚の地図。
ネットなどの情報をもとに私が作成した英賀の復元図です。
何だか大雑把な気がしますが、一応の目安にはなるでしょう。
英賀の範囲は、山陽電車の西飾磨駅・夢前川駅と英賀神社の三点を結んだ三角形のエリアに相当します。
古代より水運の要所だった英賀は室町時代に赤松氏が城を設けたことで発展を遂げました。城主・赤松祐尚(すけなお)の死後、嘉吉元(1441)年には三木氏が移ってきて城を拡充し、的形から室津を治める西播磨の拠点となりました。永正12(1515)年には京都・本願寺の実円院主が英賀本徳寺を建立。三木氏の保護もあって、一向宗最西端の布教拠点として、寺内町の性格ももつようになりました。播磨最大の都市とされたのもこの頃で、宗教関係者だけでなく、播磨灘や夢前川の水運を利用した交易の拠点となったために商工業者も多く集まり、人口は6~7千人を数えたと言われています。
英賀本徳寺跡?
夢前川駅から歩いて程なく、歌野橋という橋で夢前川を渡ります。この橋の西詰辺りが英賀の西端でした。亀山に移転する前の本徳寺は写真に写っている辺りにあったとされますが、沿岸部の工業地帯開発に伴う河川改修で川底に沈んでしまったので、跡形もありません。
亀山御坊の記事で紹介したように、政治的、商業的、そして、宗教的な面で栄えた英賀の町は秀吉によって徹底的に破壊されました。町の中心施設で、町衆の信仰の中心だった数多くの寺院は、その力を削ぐために亀山や姫路の延末などに分散して移転させられ、一向宗の西日本布教の中心とされた英賀は名実ともに姿を消してしまいました。
明蓮寺
歌野橋を渡った先には明蓮寺という寺院があります。
英賀の一向宗寺院のなかで、この明蓮寺だけは英賀に残されました。
英賀本徳寺址碑
明蓮寺の境内にはこんな碑が。
元々は夢前川畔の英賀本徳寺跡に建てられていたそうですが、河川改修の際にここに移されたとのこと。
明蓮寺からは北へ向かいますが、ちょっと長くなってしまったので、次回に続きます。
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