せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

街道の町・須磨を歩く(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回、須磨寺へ「須磨の火祭り」を見に行きましたが、その足で須磨に点在する史跡を巡ってみました。

本宮長田神社

須磨寺駅
から南東へ歩くと、こんな小さな神社が現れました。
こちらは本宮長田神社
「本宮~」(または「元宮~」)という名前の神社は日本各地にありますが、こちらは長田神社の本宮と言われています。
伝説では、三韓征伐の帰途の神功皇后がこの地を訪れた際、地域の豪族であった前田氏事代主命を祭るように命じたのが始まりと言われています(諸説あるようですが)。
その後、神社は長田へ移りますが、この本宮長田神社は前田氏の屋敷の一角に残されたそうです。現在では、屋敷跡の空地にぽつんと佇んでいます。
因みに、神社の前の道はかつての西国街道です。

菅公手植の松

以前、太寺を取り上げた時(こちら)に菅公旅次遺跡を紹介しましたが、この小さな神社も菅原道真に縁があるようです。

都で左遷され、京都から大宰府へ向かっていた菅原道真は、嵐に遭って須磨の地に上陸しました。その際、村人たちは漁網の綱で円座を作り、道真一行をもてなしたとのこと(この伝承が近くにある綱敷天満宮の由来と言われています。詳しくはこちらの記事へ)。前田氏が屋敷の井戸の水を一行に振る舞ったところ、道真は大変喜び、自画像を贈ったそうです。以後、この井戸は「菅の井」と呼ばれるようになり、この井戸の水を使ったお酒が毎年太宰府天満宮へ献上されていたとのこと。 このように由緒ある井戸なのですが、大正時代に前田氏の屋敷跡へ須磨警察署が建てられた際に埋められてしまい、今ある井戸菅公手植の松杜若の植え込みは警察署の移転後、広場が設けられたときに整備されたものです。

離宮道

本宮長田神社から北東へ向かうと、松並木が美しい通りに行き当たりました。
こちらは離宮道
その名の通り、武庫離宮(現在の須磨離宮公園)へ続く道です。

松風村雨堂

離宮道沿いに気になる史跡がありました。
こちらは松風村雨堂です。
平安時代、『伊勢物語』で知られる在原業平の兄・在原行平は、当時の文徳天皇の怒りを買い(詳しいことはわかっていないようですが)、須磨の地へ流されました。
須磨で暇を持て余していた行平は、多井畑から汐汲みに来た村娘の姉妹に「松風」「村雨」と名付け、懇意にしていたとのこと。しかし、やがて、行平が天皇に許されて京都へ戻ることになった際、姉妹と悲しい別れをすることになりました。行平との別れの後、姉妹は行平の滞在先のあったこの地に庵を編んで暮らし、その跡に建てられたのがこのお堂だと言われているようです。
この話を聞くと行平が罪作りなような気がしなくもないのですが、当時の恋愛は今とは随分違うようですので、細かいことは気にしないようにしておきます。
なお、行平が須磨へ流されたのは史実のようですが、「松風」「村雨」は伝承上の人物とされます。

月見山駅の旧ホーム

松風村雨堂から住宅地を歩いていくと山陽電車の月見山駅に到着しました。
踏切を渡りながら、何気なく線路の方を見てみると、何だか不自然な石垣が…。
この石垣、かつての月見山駅の上りホームの残骸だそうです。
よく見てみると、端にはホームに引いてある白線の跡が薄ら残っていました。
このホームは昭和23(1948)年まで使われていたとのことで、その頃の月見山駅は上りホームと下りホームが互い違いに配置してあったそうです。
にしても、何だかホームにしては低いような気がしますが、このホームが現役で使われていた頃の山陽電車は兵庫電気軌道(後に宇治川電気と合併し、戦時中に山陽電気鉄道として独立します)と呼ばれ、まさに路面電車そのものだった時代。当時の月見山駅も路面電車の停留所のような姿だったのでしょうか。
この月見山駅から須磨の方へと戻ることにします。

古代の一大交通路だった西国街道が通る交通の要衝であったことに加え、畿内の最西端という地理的な事情もあるせいか、こうして歩いてみると、須磨の地には驚くほどの高密度で古い史跡があることがわかりますね。
もう少し、須磨を散策してみたいと思います。
ということで、次回へ続きます。

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A:山陽電車須磨寺駅
B:本宮長田神社
C:松風村雨堂
D:山陽電車月見山駅


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