こんにちは。玄蕃允です。
黒田官兵衛ゆかりの地、御着城へ行ってきました。
御着城石碑

黒田官兵衛の主君、小寺氏の居城になります。別名は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、永世16年(1519年)に小寺政隆が築城しましたが、すでに明応年間(1492年~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として、守護所の機能をもつ城郭として機能していたそうです。江戸時代に描かれた絵図では惣構えの城(城内に城下町等をとりこんだお城)として描かれているそうで、かなり大規模なお城だったと考えられます。三木城・英賀城とともに播磨の三大城郭に数えらました。
当時、姫路城は現在のように大きくはなく、この御着城が本城、姫路城が支城という位置づけでした。

現在は公民館が建っています。
黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

黒田家繁栄の源となった目薬の木が植えられています。
官兵衛は16歳の時に御着城主・小寺政職の近習として出仕し、その後家老として重用されていきます。主君の小寺政職が播磨地方に侵攻する織田家から中国地方の毛利家に寝返るまで、18年間御着城に出仕しました。
「黒田家廟所」

黒田家の礎を築いたともいえる官兵衛の祖父・重隆と母・明石氏の供養塔です。
重隆は諸説ありますが、備前福岡から姫路に流れ着き、廣峰神社の御師(神官)と家伝の目薬を売ることで財をなし、小寺家に仕えました。
母・明石氏は枝吉城主・明石正風の娘で、父正風が近衛関白家の歌道の師範をしていたこともあり、歌の道に優れていたそうです。官兵衛は若いころ、和歌に熱中したそうで母の影響を多分にうけていました。
この御着城ですが、小寺氏が織田方から毛利方に寝返ったため、天正7年に秀吉に攻められ落城、廃城となります。
小寺大明神

南側には小寺大明神があり、小寺家三代とその家臣が祀られています。
毎年4月には黒田家、小寺家の関係者が集まり、祖先慰霊の大祭も行われているそうです。
黒田官兵衛が前半生を費やした御着城祉にぜひ足を運んでみてください。
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