せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

つはものどもが夢の跡~三木を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、東播・三木を巡っていきたいと思います。

雲龍寺

城山の麓には、雲龍寺という寺院があります。
天徳2(957)年の創建とされる非常に歴史のある寺院で、別所氏の帰依を得ていた由緒正しい古寺ですが、三木合戦で焼失してしまいました。しかし、三木合戦の後に秀吉から寺領の寄進を受けるなど、手厚い優遇を受けることになり発展しました。

別所長治夫妻首塚

広い敷地内には別所長治夫妻の首塚が残されていました。
自害の後を別所長治より託された当時の住職が夫妻の首を譲り受け、この地に塚を築いたと伝えられています。

そういえば、前回黒田官兵衛つながりで…と言っておきながら、黒田官兵衛が出てきていませんね。三木合戦当時、織田軍の参謀役として実績を積んでいた黒田官兵衛はというと、実は三木合戦自体にはあまり深く関わっていません。毛利方についた荒木村重を説得するために荒木氏の居城の伊丹・有岡城を訪れ、幽閉されていたのです。三木合戦で活躍したのは官兵衛の盟友で、やはり織田軍で参謀役として重用されていた竹中半兵衛でした。竹中半兵衛の作戦により三木城はかなり追い詰められることになったわけですが、戦の最中、病で命を落としてしまいました。伊丹城から助け出された黒田官兵衛は竹中半兵衛の死を知り、非常に悲しんだそうです。竹中半兵衛の墓は織田軍の陣があった平井山にあるそうですが、かなり距離があるのでまたの機会に改めることにします。

三木の街並み

城山を降りて三木の市街地を行くと、古い街並みが現れました。
三木合戦の後、三木城には秀吉やその家臣の中川氏、杉原氏などが入れ代わり立ち代わり入ることになりましたが、江戸時代に入って明石藩に編入され、明石城の小笠原氏が治めることになりました。しかし、程なく元和3(1617)年の一国一城令により廃城となります。
城を失った三木ですが、古くから街道の要衝であったことに加え、三木合戦の戦後処理のために秀吉が商工業者への優遇措置を行ったために経済都市として発展していきました。市街地には今でも、当時をしのぶ街並みが残されています。

のこぎりの看板

商工業者の中でも発展したのは鍛冶業で、三木金物として全国に知られるようになりました。
街道筋にはこんなのこぎり型の看板を掲げた商店があります。

旧玉置家住宅

市街地の中でも特に風格があるのが、この旧玉置家住宅です。
文政9(1826)年、当時飛び地領として三木を治めていた上州館林藩(現在の群馬県)の越智松平氏が藩政改革のために設けた切手会所(銀行のような施設)として建てられた建物で、明治に入ってから玉置家の住宅となりました。今は国の登録有形文化財となり、三木市が管理して一般に公開されています。

美嚢川の流れ

見学させていただいた旧玉置家住宅は、間口が狭く奥行きがあるといういかにも町屋という造りで、 奥へ奥へと進むと庭園に行き当たりました。青々とした芝生がまぶしい庭園の向こうには、美嚢川の流れを望むことができます。三木の町が辿ってきた激動の歴史をこの川はどのように眺めてきたのでしょうか。
川面を渡る風で汗を乾かしてから、三木を後にすることにしました。

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A:三木城跡
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C:のこぎりの看板の商店
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