せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

幻の中世都市・英賀を訪ねて(後編)

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こんにちは、内膳正です。
引き続き、英賀の町を歩いていきます。(前回までの記事はこちらへ前編中編

田井ヶ浜

英賀神社から南に向かい、山陽電車の高架橋をくぐったところ。今は駐車場や住宅地になっていますが、この辺り、中世には田井ヶ浜と呼ばれる英賀の港でした。今となっては想像することも難しいのですが、かつてはここまで播磨灘が広がっていたのです。

田井ヶ浜之址碑

埋め立てなどでかつての面影は完全に失われていると思ったのですが、近くにあったお地蔵さんの境内に「水城 英賀城之港 田井ヶ浜之址」と刻まれた石碑がありました。この碑自体は後世に建てられたもののようですが、ここが港だったことを今に伝えています。

広辻口跡

英賀の町の東部にあったとされる本丸跡を探して水尾川沿いを歩いていると、また石碑を発見しました。この碑にある「広辻口」は英賀のほぼ東端にあった木戸口です。ということは、本丸跡は完全に行き過ぎているということに…。とりあえず、来た道を戻ることにしました。

英賀の末期は戦いに翻弄されました。
天正3(1575)年の英賀合戦では黒田官兵衛率いる小寺軍と、播磨への進出のために姫路城を狙う毛利水軍三木氏との連合軍とが激しく戦いました。司馬遼太郎『播磨灘物語』にはわずかな兵と農民たちに旗を持たせた擬兵を用いて毛利水軍を撃退した官兵衛の華麗な戦法が描かれています。

天正8(1580)年の英賀攻めでは、東播の三木城を落として中国地方への進軍を開始した秀吉軍の攻撃を受けることになりました。四方を川や堀、海に囲まれた英賀の守りは非常に堅固でしたが、開戦翌日の夜、秀吉の策略にかかった三木氏の一部が城内に敵を誘導してしまい、城内は混乱。そこへ秀吉軍が火を放ったために、城も町も火の海となり、一夜にして灰燼に帰しました。

英賀城本丸跡

広辻口跡から住宅地の中を歩いていると、英賀城本丸跡の石碑を見つけました。
考えていたよりも東にあるような気がしましたが、ここが英賀城の本丸だったようです。
ただし、周りは古い住宅街が広がるばかりで、石碑以外に当時を偲ばせるものは何もありません。
何かないかと周辺を散策してみましたが、あきらめて、職人や商人で賑わった町や、この地で戦い散っていった武士たちに思いをはせながら、西飾磨駅に向かうこととしました。

中世の播磨に栄え、そして、消えていった幻の中世都市・英賀を三回に渡って歩いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
そろそろ梅雨明けも間近、この夏は英賀を歩いて、みなさんなりの中世都市の姿を思い描いてみるのもいいかもしれません。
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