せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

市街地の城跡・花隈城を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、花隈を歩いてみたいと思います。

東郷井

花隈公園
の中にはこんな石碑がありました。こちらは東郷井の碑です。花隈城からはるかに歴史が下った明治時代、現在の貿易センターの東側辺りにあったとされる小野浜造船所で初代・戦艦大和が建造されました。この戦艦大和の建造監督官を務めたのは東郷平八郎で、後にこの戦艦大和の艦長についています。東郷がロシア・バルチック艦隊を打ち破ったのを顕彰して、建造監督官当時に滞在していた神港倶楽部で使っていた井戸に「東郷井」という名前が付けられ、こうして石碑まで建立されました。もとは花隈公園の北側にあったものがこちらに移設されたものです。

福徳寺

市街地にあったのは福徳寺です。
この寺のあった場所に花隈城の天守があったとされています。

摂津の要衝を治める重要な城郭だった花隈城でしたが、その終わりは壮絶なものでした。城主だった荒木村重が天正6(1578)年、主君の織田信長に謀反を起こしました。当初は居城だった伊丹の有岡城を拠点に戦っていた村重でしたが、信長の軍勢の攻撃で有岡城が落城した後に尼崎の大物城、そして、ここ花隈城に逃げ込みます。池田恒興率いる軍勢の攻撃を受けた花隈城は四か月ほど持ちこたえましたが開城し、村重は中国の毛利氏を頼って亡命しました。城主を失った花隈城はそのまま廃城となり、城の資材は池田恒興が築いた兵庫城に流用されたとされています。今ではこの地に城を忍ばせるものはほとんど残されていません。

花隈城天主閣之趾碑

福徳寺の門の横には石碑がありました。天守を「天主」と書いているところに、村重の主君だった織田信長の岐阜城安土城に通じるものを感じてしまい、どこか悲しいような気もしてしまいます。

再び花隈公園へ

再び花隈公園に戻りました。柳の木と石垣の景色はまるで本物の城郭のように見えてしまいますね。

蝉時雨の降り注ぐ中、市街地に眠る強者どもが夢のあとを訪ねたのちに、地下の花隈駅に戻ることにしました。

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