せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古墳と海の神・住吉を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の住吉を歩いてみたいと思います。

東求女塚公園

阪神本線の高架沿いに歩くと住宅地の中に公園がありました。こちらは東求塚公園です。公園の名前からもわかるように、こちらは東求女塚古墳という古代の古墳に整備された公園です。

六甲山麓の灘区から東灘区にかけてには西求女塚、処女塚、東求女塚の三つの古墳が並んでいます。これらの古墳には菟原処女(うないおとめ)の伝説が残されています。当時、「葦屋(あしのや)」と呼ばれていた古代のこの辺りに菟原処女という女性が住んでいました。この美しい女性に同じ村の菟原壮士(うないおとこ)と泉州からやってきた信太壮士(しのだおとこ)の二人の男性が求婚し、菟原処女を巡って争うようになります。そんな二人の姿を見た菟原処女は嘆き悲しみ、自ら命を絶ってしまったそうです。そして、そのことを知った二人の男性も後を追って命を絶ちました。菟原処女の親族は、中央に菟原処女の墓を築き、それを挟むように東西に二人の男性の墓を築いたそうです。

東求女塚古墳

公園の中央には古墳の跡があります。本来は前方後円墳でしたが、私有地だったために長らく保存されることはなく、昭和初期には浜側を走る阪神本線の高架が建設される際に多くが取り壊されてしまいました。伝説では泉州からやってきて菟原処女に求婚した信太壮士の墓とされていますが、その後の調査で4世紀後半頃に築かれたこの地域の豪族の墓ではないかと言われています。

本住吉神社

山側へと歩き、JR東海道本線の住吉駅近くへ着きました。駅の西側には木々の生い茂る森があります。こちらは本住吉神社です。この辺りの地名になっている「住吉」はこの神社の名前に由来しています。神功皇后の三韓征伐の際に、航海の神である住吉三神を祀ったことが始まりとされる神社で、一説では全国に広まる住吉三神を祭る神社の発祥の地とされています。

本住吉神社の境内

本住吉神社の境内には六甲の山並みを背景に立派な社殿が佇んでいました。

本住吉神社からの眺め

阪神住吉駅からこの場所まで、そこまでの高低差は感じませんでしたが、改めて本住吉神社から浜側を眺めると坂の下に御影駅の周辺に建ち並ぶマンションを眺めることができました。その向こうに広がるのは大阪湾です。浜手に点在する豪族の古墳と、はるか古代に建立された海の神を祀る神社は、古くからこの地が大阪湾の恵みを受けながら発展してきた地域であることを示しているのかもしれませんね。

本住吉神社からは再び海へと向かって坂道を下り、阪神御影駅から直通特急に乗ることにしました。

古墳と海の神・住吉を歩いて(前編)

投稿日:


梅雨空の広がる頃、いかがお過ごしでしょうか。こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神住吉駅

直通特急と普通車を乗り継いでついたのは阪神電車の住吉駅です。

住吉駅の意匠

特急停車駅の御影駅と魚崎駅に挟まれた住吉駅はあまり目立たない存在ですが、高架のホームへ上がる階段には丸窓が並び、どこか遊び心ある意匠があります。

阪神住吉駅が開業したのは明治38(1905)年のことで、阪神本線の開業と同時でした。当時の阪神本線は浜側の道路上に敷設されていて、路面電車のような姿でした。現在の高架線に切り替えられたのは昭和4(1929)年のことです。同時期に隣の御影駅も高架化されましたが、神戸市東灘区の拠点駅として近年も整備が進められた御影駅に対し、住吉駅は高架線開業時の姿が色濃く残されています。

住吉駅を眺めて

改札を出て住吉駅を眺めてみました。
階段には丸窓が並び、駅舎の入口にはアールのついた優美な庇があり、モダンな雰囲気を今に残しています。

住吉の街並み

阪神住吉駅から浜側へと歩いてみました。住宅や商店の建ち並ぶ市街地には酒造メーカーの看板が聳えています。

次回も住吉を歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

宮水発祥之地の碑

西宮の住宅地を歩いていると、植栽に囲まれた石碑を見つけました。こちらは宮水発祥之地の碑です。

住宅地や西宮神社の門前町として知られる西宮は灘五郷の一つ「西宮郷」とされ、灘五郷の中でも最初に酒造りが始められた地域とも言われています。室町時代、当時関西の酒造の中心であった北摂の伊丹から雑喉屋文右衛門なる人物が西宮へ移り住み、酒造業を手掛けるようになったのが始まりとされています。その後、西宮郷を始めとする灘五郷は北摂の伊丹や池田に代わって酒造業の中心となり、西宮郷の酒は「西宮の旨酒」と呼ばれて大変な人気となったようです。

宮水井戸場

宮水発祥之地の碑の傍には様々な酒造メーカーの名前が掲げられた「井戸場」がありました。各社はこちらで宮水を汲み上げ、酒造りに使っています。

六甲山地を流れる川の流れを利用した水車で効率的な精米ができることや、すぐそばの大阪湾岸の港から製品を出荷できたことから西宮を始めとする灘五郷は酒造地として発展していきますが、それを後押ししたのが江戸時代の終わりに発見された「宮水」でした。天保8(1837)年または天保11(1840)年、今も魚崎に現存する酒造メーカーの櫻正宗の当主だった山邑太左衛門が発見したと言われています。当時、魚崎と西宮で酒造会社を営んでいた山邑は魚崎と西宮とで酒の味が違うことに気づき、その要因が水にあることを突き止めました。以後、この水は「西宮の水」そして略して「宮水」と呼ばれるようになり、各社が争うようにこの水を使って酒造りを始めるようになります。宮水の力で西宮郷の酒造業がさらに発展することとなりました。

井戸場を眺めて

住宅地の中に佇む各社の井戸場は植栽やフェンスに囲まれていて、大切に守られていることがよくわかります。江戸時代の終わりに発見された宮水は六甲山のミネラルを豊富に含む硬水で、酒造りには非常に適しているようです。この宮水を守るため、西宮市では「宮水保全条例」が制定されていて、指定された地域で地下水へ影響を与える可能性のある大規模な建築工事を行う際には市への届け出や協議が必要とされています。

酒蔵通り

井戸場の浜側へ歩くと、東西の道と交わりました。こちらは通称「酒蔵通り」と呼ばれていて、通り沿いには酒造メーカーや飲食店が建ち並んでいます。

東川

酒蔵通りを歩いていると川がありました。この川は東川で、この下流には酒の積み出し港となった今津港がありました。今は住宅地や緑地に囲まれた川ですが、かつては酒を積んだたくさんの船で賑わったのでしょうか。静かな川は門前町、宿場町、そして、酒造の中心地という様々な姿を積み重ねてきた西宮の姿を見つめてきたのでしょうか。

お土産に日本酒を買って、初夏の風が吹き抜ける西宮を後にすることにしました。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

西宮神社本殿

西宮神社の本殿は改修工事中で、参拝は仮拝殿でした。大きな社殿を目にすることができないのが残念ですが、これはこれで今しか見られない貴重な光景ですね。

本陣跡と蛭児大神御輿屋傳説地碑

西宮神社を後にしてから表大門から続く道を歩くことにします。こちらはかつての西国街道です。かつての西国街道の本陣があった場所には「蛭児大神御輿屋傳説地」と刻まれた石碑がありました。

前回ご紹介しましたが、西宮神社の創建の伝説では鳴尾の漁師が海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。当初、漁師は神像を自宅で祀っていました。しかし、ある夜に神像が漁師の夢に現れて、自分は蛭児神であること、そして、鳴尾から西にある宮地に祀ってほしいとお告げがあったそうです。お告げを受けた漁師は仲間とともに蛭児神を輿に載せて西へと運びましたが、途中で蛭児神が眠り込んでしまったので尻をつねって起こしました。その場所がこの「蛭児大神御輿屋傳説地」とされています。時代が下がり、近世にはこの辺りは西宮神社の門前町と西国街道の宿場町として栄えたそうです。特に、宿場町としては西国街道や山崎街道、中国街道が交わる交通の結節点で、多くの人や物資で賑わったとされています。現在、宿場町の面影をしのぶことができるものはあまり残されていませんが、建て込んだ街並みにかつての賑わいを感じることができます。

札場跡

西国街道と交わる南北の道は札場筋線です。その名の通り、西国街道との交差点には札場があったとされていて、現在では交番になっていました。

宮水

阪神高速の高架を潜った先には小さな公園があり、「宮水」についての説明看板が建てられていました。門前町、宿場町として栄えた西宮ですが、西宮を歩く中で欠かせないのがこの宮水ではないでしょうか。

次回ももう少し西宮を歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(前編)

投稿日:


少し肌寒い日が続きますが、日差しにはどこか夏の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神西宮駅

直通特急で着いたのは西宮駅です。
阪神本線の主要駅なこともあり、駅の中や周辺は店舗が建ち並んで賑やかな雰囲気です。

西宮の街並み

住宅地のイメージが強い西宮ですが、阪神西宮駅の周辺には昔ながらの街並みが続いていています。

西宮神社表大門

街中に土壁に囲まれて佇んでいたのが西宮神社です。こちらの表大門は「赤門」とも呼ばれ、その名の通り、かつての西国街道に面して朱塗りの楼門がそびえています。

西宮神社の創建時期は詳しくわかっていませんが、非常に古いといわれています。伝説でははるか古代、西宮の東の鳴尾に住んでいた漁師が神戸・和田岬の沖合で海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。時代が下り、平安時代にはこの地から北に鎮座する廣田神社の境外摂社の「浜の南宮」「南宮社」と呼ばれる社の境内の夷社となりました。この夷社が中世から近世にかけて夷信仰の広まりとともに知られるようになり、発展していきました。

南宮神社

西宮神社の境内には南宮神社がありました。こちらは今も廣田神社の境外摂社とされています。

全国から信仰を集め、「浜の南宮」よりも大きな神社へと発展した西宮夷社は明治時代に入ると廣田神社から「大国主西神社」として分離し、のちに現在の呼び名である「西宮神社」となりました。ちなみに、「西宮」と言えばこちらの西宮神社が思い浮かびますが、地名の由来となった「西の宮」とは本来は廣田神社のことを指し、廣田神社自体や廣田神社の荘園を「西宮」と呼んだことに因んでいます。

西宮神社の境内

松の木が青々として眩しいくらいの境内を涼しい浜風が吹き抜けていきます。

神池のカキツバタ

境内の神池にはカキツバタが鮮やかな花を咲かせていました。

西宮神社と西国街道の町、西宮をもう少し歩いてみたいと思います。

古城と港の地・大物を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて尼崎の大物を歩いてみたいと思います。

大物くづれ戦跡

阪神電車の大物駅の北側には「大物くづれ戦跡」の碑が佇んでいました。

所謂「大物崩れ」とは戦国時代初めの享禄4(1531)年に起こった戦いで、「両細川の乱」と呼ばれる室町幕府官僚細川氏の家督争いと室町幕府将軍の座をめぐる内乱の戦いの一つです。幕府で実権を握った細川政元が暗殺されたことをきっかけに政元の養子の細川高国と、やはり養子の細川澄元・晴元父子の間で対立が起こり、戦いは泥沼化していきました。この戦いの終わりとなったのがこの大物崩れで、高国を裏切って晴元側についた播磨守護・赤松政祐が陣を敷いていた西宮の神呪寺から中嶋(現在の大阪市北区大淀付近)の高国軍の陣を奇襲。大敗した高国は尼崎の大物城へと敗走します。しかし、大物城下には赤松軍の手が回っていて、高国はほどなく捕らえられて自害しました。20年以上にわたり泥沼状態だった戦が崩れるように終わりを告げたことから、この戦いを高国が自害した大物にちなんで「大物崩れ」と呼ぶようになったそうです。

北の口門

さて、尼崎で城と言えば思い浮かぶのは復元された模擬天守が直通特急の車窓からもよく見える尼崎城ですね。この尼崎城と大物城は同じ城なのか、実ははっきりしていません。大物駅の南側には住宅地が広がっていて、この辺りが「残念さん山本文之助」が捕らえられた尼崎城北の門のあった辺りだそうですが、何の痕跡も見当たりません。

大物主神社

住宅地の中に佇んでいたのが大物主神社です。

大物浦と呼ばれていた大物の地に城を築いたのは大物崩れで命を絶った細川高国だといわれています。といっても、築城された当時の城は砦のようなものであったと考えられています。同じ城なのかはっきりとわかっていない尼崎城と大物城ですが、位置が微妙に異なっているようで大物城は「古城」とも呼ばれていたといわれています。その古城・大物城はこの辺りにあったとのこと。築城当初は砦のようだった城を西へ西へ拡張していったのが後の尼崎城に繋がっていったということなのでしょうか。

義経辨慶隠家跡

大物主神社の境内には「義経辨慶隠家跡」と刻まれた石碑がありました。「大物崩れ」が印象的な大物ですが、前回も訪ねたようにここ大物は古くからの港町で、京都への川船と大阪湾・瀬戸内海への航路の結節点でした。平安時代、兄の源頼朝と対立して都落ちした義経弁慶とともに大物に滞在しこの場所に隠家を構え、大物浦を出る船で西へと逃れたといわれています。

大物橋跡

大物主神社から南へと歩くと、再び大物川の川跡と交わりました。川跡には「大物橋跡」という石碑が佇んでいます。今は交差点となっているこの道路はかつては橋だったのでしょう。

大物川は大物浦を行き来する船の運河としてではなく、尼崎城の外堀の役割もあったそうです。ここ大物に城が築かれ、歴史上の出来事の舞台となっていったのは姿を消してしまった川の存在があったからなのかもしれません。
緑地となったかつての川をたどりながら、大物駅へと戻ることにしました。

古城と港の地・大物を歩いて(前編)

投稿日:


師走に入り年末の雰囲気を感じるようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大物駅

阪神電車の尼崎駅で直通特急から各駅停車に乗り換えて着いたのは大物駅です。
阪神本線と阪神なんば線が分かれる駅ですが、停まるのは各駅停車ばかりであまりなじみのない方が多いのではないでしょうか。

大物川緑地

駅の近くには公園や緑地がありました。地図を見ると緑地は曲がりくねりながら駅の南北に細長く続いています。こちらは大物川の跡です。

今では住宅や町工場の建ち並ぶ大物ですが、かつては「大物浦」と呼ばれた港町でした。現在は埋め立てられている大物川は上流で神崎川や淀川につながり、大阪湾を運ばれた物資がここ大物で川船に積み替えられて京都へ運ばれる物流の拠点でした。しかし、近代にかけて尼崎が工業都市として発展するにつれて汚染が進み、地盤沈下の影響で川の流れは淀んでいきました。川を浚渫して浄化する案もあったそうですが、結局埋め立てられることとなり、昭和45(1970)年に埋め立て工事が完了して川としては姿を消してしまいました。同様に埋め立てられて姿を消した川は尼崎から大阪にかけて数多くあり、緑地になっていたり橋跡が残されていたりして川の名残を見つけることができます。

残念さん山本文之助墓

公園沿いを歩いていると、「残念さんの墓」という変わった標記を見つけました。こちらは「残念さん山本文之助墓」です。山本文之助とは幕末の長州藩士で、元治元(1864)年の禁門の変の際には京都へ従軍しました。この戦いで長州藩は幕府軍に完敗し、文之助は京都から敗走します。しかし、途中の尼崎の北の口門で尼崎藩士に捕らえられ、取り調べ中に牢屋の中で「残念、残念」と言いながら自決したそうです。当時は「長州びいき」が流行っていて、尼崎藩が建てた文之助の墓は「残念さん」と呼ばれ、幕府が墓参を禁じたにも関わらず墓参者が絶えなかったそうです。現在の墓は尼崎藩の建てたものではなく、長州藩と取引のあった尼崎の商家が建てたものだそうです。

大物くづれ戦跡

「残念さんの墓」から大物駅の近くに戻りました。駅の近くには「大物くづれ戦跡」の碑がありました。ここ大物は物流の拠点だっただけではなく、戦国時代におこなわれた所謂「大物崩れ」の舞台ともなりました。

次回は戦と古城の跡をたどりながら大物を歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、尼崎の寺町を歩いてみたいと思います。

広徳寺

江戸時代には20もの寺院が建ち並んでいた寺町ですが、移転した寺院や廃寺となった寺院があったことから、現在残っているのは11の寺院です。その一つがこちらの広徳寺です。元は大物にあったのがここ寺町へ移った寺院です。本能寺の変の際、秀吉が「中国大返し」で京都へ戻る途中に逃げ込み、僧侶に変装したという伝説が残されています。

大覚寺

広徳寺から寺町をさらに進むと、山門が立派な大覚寺がありました。石畳が敷き詰められている大覚寺の境内は思ったよりも広々としています。

大覚寺は尼崎市内では最古の寺院といわれ、創建は推古天皇13(605)年にさかのぼり、聖徳太子が百済の日羅上人なる高僧に命じて開いたとされています。元の場所は「長洲の浦」と呼ばれた現在の大物でしたが、やはり、尼崎城の築城にあたって寺町が整備された際にこの場所へ移されています。大物に寺院があった頃、室町幕府の二代将軍の足利義詮が大覚寺に拠点を置いたことがあり、「大覚寺城」とも呼ばれていました。大物にあった頃の寺院は残されていませんが、城郭のような姿だったのかもしれませんね。それにしても、由緒ある寺院が隣り合って並ぶ寺町はどこか独特の雰囲気がありますね。

長遠寺

広い境内を持つのが長遠寺です。

長遠寺の境内

山門をくぐると、立派な本堂がそびえていました。こちらの長遠寺も南北朝時代の観応元(1350)年の建立と伝わる古刹で、もとは大物駅近くの東本町にあったのが移転したものです。

境内の妙見宮

歴史ある寺院のせいか、寺院にもかかわらず境内には妙見宮があり、鳥居と社殿もありました。こうした神仏習合の名残を見つけるのは私個人的な楽しみの一つです。

長遠寺多宝塔

長遠寺で印象的なのが多宝塔です。境内の堂宇の多くは江戸時代の移転後に建てられたものですが、こちらの多宝塔はかつての境内から移築されたものだそうです。空模様は生憎でしたが、南北朝時代の様式を残すとされる多宝塔が秋の空に向かってそびえていました。

尼崎城を眺めて

寺町を歩いた後、阪神尼崎駅の方へと戻って復元された尼崎城を眺めてみました。位置や建物の様式は本来の尼崎城と異なるそうですが、阪神電車からもよく見えるお城のおかげで尼崎に城下町のイメージが定着してきたようです。一方、尼崎城の築城で生まれた寺町はかつての城下町の風情を感じる街並みが残されています。尼崎城と併せて寺町を訪ねれば、より城下町としての尼崎の姿が見えてくるのではないでしょうか。

尼崎・寺町を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎を歩いてみたいと思います。

本興寺

尼崎の市街地に続く寺町に入ってすぐに佇むのが本興寺です。

本興寺の境内

本興寺は寺町の中心的な寺院で、広々とした境内には本堂だけでなく塔頭寺院が建ち並んでいます。

本興寺は室町時代初めの応永27(1420)年の日隆上人の開祖と伝わる古刹で、法華宗の四大本山とされています。もとは今の場所から少し東側の大物の若宮神社の社領地にありましたが、江戸時代の元和3(1617)年に元の場所に尼崎城が築城されることとなったために現在の場所へ移っています。同時に近隣の寺院も周辺に集められ、形成されたのが現在の寺町です。

本興寺開山堂

境内の奥に佇んでいたのが開山堂です。本興寺の本堂は江戸時代に焼失したのを再建したもので、他の建物も多くは現在の場所へ移転した後に建てられたものですが、この開山堂は諸説があるようですが、創建時の建立か室町時代の末の永禄元(1558)年に建立されたものを寺の移転に伴って移改築したものです。堂内には日隆上人の像が安置されています。

本興寺の境内

渡り廊下が巡る本興寺の境内は街中とは思えないような風情でした。
境内を秋の風が吹き渡っていきます。

風情ある尼崎の寺町をもう少し歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(前編)

投稿日:


急に気温が下がり、秋らしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神尼崎駅

直通特急を下りたのは阪神電車の尼崎駅です。
工業都市・尼崎の南の中心で、駅の周辺にはホテルや商業施設、マンションなどが建ち並んでいます。

尼崎中央商店街

尼崎駅の北側には飲食店などが建ち並び、にぎやかな雰囲気です。

尼崎中央商店街の中を歩く

尼崎のトピックスといえば、阪神タイガースの優勝でしょうか。
駅前から続く尼崎中央商店街では阪神タイガース関連の装飾があふれていました。

現在は大阪湾岸に工業地帯を抱える工業都市や住宅地のイメージのある尼崎ですが、かつては城下町でした。大阪湾に面したデルタ洲に尼崎城の城郭が築かれたのは江戸時代初めの元和3(1617)年のこと。大坂夏の陣の功で近江膳所から移った城主・戸田氏鉄の手によるものでした。城があったのは現在の復元天守の位置から少し離れた阪神電車尼崎車庫の南側で、庄下川大物川、そして大阪湾に囲まれてまるで海に浮かぶ城のようだったと言われています。そして、築城の当初は城を取り囲むように東西、そして、南側に城下町が広がっていました。城下町も多くが川に囲まれたデルタ洲の上に作られていて、町全体が水に浮かんでいるような姿に見えたのかもしれません。

大本山本興寺

賑わう阪神尼崎駅の北側に対して、南側はマンションや住宅が多く、落ち着いた雰囲気です。駅の南東側にはかつて江戸時代に築かれた尼崎城があり、この辺りは城下町でした。尼崎城があった付近には平成30(2018)年に模擬天守が復元されています。
駅から南へ歩くと、道路沿いに「大本山 本興寺」と刻まれた石碑がありました。この辺りは城下町の西側で築城前から別所村という集落がある地域でした。

寺町

角を曲がった先には駅前のビル街からがらりと変わった雰囲気でした。
この辺りは寺町と呼ばれる地域です。

次回、もう少し尼崎を歩いてみたいと思います。