せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山陽沿線ブログ終了のお知らせ

平素より山陽沿線ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
当ブログは、読者の皆さまに支えられ、長期間にわたり更新を続けてまいりましたが、
このたび12月末日をもちまして終了させていただきました。
今後とも山陽電車をご愛顧賜りますよう、お願い申しあげます。

晩秋の曽根崎を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の曽根崎を歩いてみたいと思います。

梅田の街並み

年末が近づき、梅田の街は賑わっていました。

太融寺

繁華街の中に石碑がありました。こちらは太融寺です。繁華街が広がるこの一帯ですが、寺社も数多くあります。

太融寺の門

南側へ回ると、門が建っていて奥には本堂がそびえています。

太融寺の歴史は古く、平安時代の弘仁12(821)年に遡ると言われています。創建は弘法大師空海と言われていて、空海がこの地にあった森に霊木を見つけ、その木を使って地蔵菩薩と毘沙門天を彫り、それを祀る草庵を編んだのが始まりと言われています。翌年、この地を訪れた嵯峨天皇から下賜された千手観音像を本尊として正式に寺院の姿として整えられていきました。

太融寺の境内 

太融寺の周辺は歓楽街としても知られていますが、寺の境内は別世界のように静かでした。梅田に位置する歴史ある寺院ということで観光客の姿も少なくありません。

正式に寺院となった太融寺ですが、承和10(843)年には嵯峨天皇の皇子の左大臣源融によって境内が広げられて七堂伽藍と呼ばれる堂宇も建立されて大寺院として発展していきます。現在の太融寺という寺号になったのもこのときで、源融に因んでいます。

太融寺の庭園

慶長20(1615)年の大坂夏の陣、昭和20(1945)年の大阪大空襲の二度、堂宇は焼失してしまい、現在の建物は戦後に再建されたもので創建当時の建物は残されていませんが、庭園の広がる境内には当時の面影を感じるようです。

これから年末年始にかけて梅田は賑わう季節です。繁華街の中にこの街が積み重ねてきた歴史を訪ねてみてはいかがでしょうか。

晩秋の曽根崎を歩いて(前編)

投稿日:


肌寒い風が吹き、年末を感じるようになったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神大阪梅田駅

直通特急が到着したのは大阪の都心・梅田にある阪神大阪梅田駅です。

曽根崎

阪神大阪梅田駅から梅田の街を歩くことにしました。11月も末になり、年末の雰囲気が漂う街は多くの人で賑わっています。そんな賑わう町中に飲食店や商店の連なる商店街がありました。こちらは曽根崎お初天神通りです。

露天神社

商店街の奥には神社がありました。こちらは「お初天神」こと露天神社です。

現在は大阪の都心となっている梅田ですが、現在のように繁華街やビジネス街となったのは近代以降で、東海道本線の大阪駅が開設されたことがきっかけでした。それ以前の大坂は堂島や船場、天満といった旧淀川(現在の大川や土佐堀川、堂島川)沿いで、梅田は町はずれの湿地帯や田園地帯でした。梅田の地名自体も湿地帯に田を開いたことを意味する「埋田」が由来です。江戸時代の元禄16(1703)年にこの神社の裏手の天神の森で起こった心中事件は近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の題材になり、町はずれの寂しい土地だった曽根崎の名前を一気に有名にしました。露天神社の通称「お初天神」は浄瑠璃の悲劇のヒロインの名前にちなんでいます。

露天神社の境内

神社の境内は観光客で賑わっていました。訪れている人の多くは外国人で、梅田の町中で気軽に神社の雰囲気を味わえることが人気を集めているようです。また、浄瑠璃にちなんでいるのか、恋愛成就の神社ともいわれていて、境内にはそれに関する装飾もありました。

大坂の街が発展する以前のこの辺りは淀川が河口付近で分流し「難波八十島」とも呼ばれた多くの中洲が形成された低湿地帯でした。今の曽根崎地区になっている一帯は「曽根州(そねのしま)」と呼ばれる中洲で、河川の氾濫があったことややせた土地であることを意味する「そね」という名前が付けられてることからもわかるようにひときわ荒れた土地だったようです。しかし、この地は多くの中洲を日本列島に見立てて新しい天皇の即位の儀礼をおこなう「八十島祭」の場所でもありました。現在、この儀礼は行われていませんが、平安時代から鎌倉時代にかけて22回も行われた記録が残されています。この露天神社は「八十島祭」の祭礼の地のひとつであったと言われています。

露天神社を眺めて

観光客でにぎわう神社を眺めてみました。

ビルの合間に佇む神社から、荒れた中洲に佇む社だった太古の姿を想像するのは難しいのですが、千年以上もの間に大きく様変わりした街をこの神社は眺めてきたのでしょうか。

大都会の中に残された歴史の面影を訪ねて、もう少し曽根崎を歩いてみたいと思います。

秋の生田の森を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の生田神社を訪ねてみたいと思います。

生田の池

生田神社の社殿の裏手には池が広がっていました。こちらは生田の池です。現在は噴水が設けられた現代的な庭園の雰囲気ですが、古くからの歴史があり、鎌倉時代には藤原定家の歌に詠まれるなど名勝として知られていたそうです。

生田の森

生田の池の傍には木々が生い茂る森が広がっていました。こちらは生田の森です。

はるか古代に砂山と呼ばれた現在の布引山に建立された生田神社ですが、建立からしばらく経った平安時代の延暦18(799)年に洪水で布引の渓谷が氾濫して山崩れが発生し、社殿が傾いてしまいました。山麓の生田村の刀禰七太夫なる人物がご神体を背負って崩れる砂山から避難させてこの地へ運んだそうです。伝説では、砂山から運び出したご神体がここ生田の森で急に重くなり動けなくなったのでこれは神意だと思いここに新しい社殿を建てることにしたそうです。

生田の森の中

生田の森の中に入ると木々の合間から秋の日差しの降り注いでいました。

新たにこの地に建立された生田神社の森として平安時代以降数々の書物に記され、生田の森は知られるようになりました。源平の合戦の中で寿永3(1184)年に起こった一の谷の合戦では須磨の一の谷だけでなくこの地にも平氏の平知盛の陣が敷かれ、古戦場としても知られるようになります。

生田の森の裏手

生田の森を通り抜けると、東門街の由来にもなった東門の鳥居がそびえていました。鳥居の向こうには三宮の繁華街が広がっています。昼間でも賑やかな街並みは静かな雰囲気の境内とはまるで別世界で、その差に驚いてしまいました。現在の神戸の地名は平安時代に朝廷から神戸「生田の神封四十四戸」を与えられ、周辺が社領となったことが由来とされています。神戸の都心に鎮座する神社は街の移り変わりを静かに眺めてきたのでしょうか。

震災復興記念碑

境内には震災の記念碑が建てられています。神戸の市街地にある神社は戦災や自然災害など数々の被害に遭ってきました。阪神淡路大震災で社殿が倒壊していた光景はまだまだ記憶に新しいのではないでしょうか。数々の災害に遭いながらもこうして今も都心に鎮座し、多くの参拝客が訪れる神社は蘇りの神社としても信仰されているそうです。

現在、ドラマの放送で神戸や阪神淡路大震災が改めて注目されています。
この秋は都心に静かにたたずむ神社と、その奥に広がる森を訪ねてみてはいかがでしょうか。

秋の生田の森を歩いて(前編)

投稿日:


ハロウィンの時期になり、秋の深まりを感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

生田神社

阪神神戸三宮駅から神戸の都心の三宮を歩くと、ビルの合間に神社があります。こちらの生田神社は神戸の街が今のような姿となるはるか以前からこの地に佇んできた古社です。

生田神社の楼門

鳥居をくぐると、朱塗りが鮮やかな楼門がそびえていました。

生田神社の歴史は非常に古く、日本書紀の記述にまでさかのぼります。神功皇后摂政元(201)年に神功皇后が三韓征伐の帰途にこの神戸の沖合を通りかかった際、船が動かなくなりました。神占をしたところ、稚日女尊が現れ自分を生田の地に祀るようにとのお告げがありました。そこで神功皇后は現在の布引山である砂山(いさごやま)に稚日女尊を祀ったそうです。これが生田神社の始まりでした。

東門街

生田神社の東側に続くのは通称「東門街」です。歓楽街のイメージが強いのですが、正式名称の「生田東門商店街」の通り、明治以降の生田神社の東門の前に連なる商店街が始まりで、明治時代にはこの場所に競馬場があったそうです。

生田神社の境内

生田神社の境内に戻ると、朱塗りが印象的な社殿が佇んでいます。

神戸の都心に鎮座する生田神社、次回も歩いてみたいと思います。

武庫川を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、武庫川沿いを歩いてみたいと思います。

中国街道

現在は「琴浦通り」と呼ばれている通りはかつては国道で、西宮で西国街道ともつながっていたことから「中国街道」と呼ばれていました。今では住宅街の道路ですが、松並木や漆喰の塀を模した塀が設けられていて、街道として賑わっていた当時の風情を今に伝えているようです。

武庫川

琴浦通りを西へ向かうと、武庫川に差し掛かりました。青空の下に穏やかに流れる川面が広がっています。今渡っている武庫川橋の下流に架かるのは阪神電車の武庫川橋梁で、橋の上には武庫川駅のホームが見えます。

岡太神社

武庫川を渡り、西宮市に入ったところには神社がありました。こちらは岡太神社です。

岡太神社の境内

岡太神社の境内は木々に囲まれていました。社殿は阪神淡路大震災で倒壊したのを再建したもので、真新しいコンクリート造りです。

岡太神社はここ鳴尾地域で最も古い神社とされています。社伝では、平安時代にこの場所から北西の廣田の人々が新田を開発して、延喜元(901)年に廣田明神を祀る神社を創建したのが始まりとされています。境内で目立つのが狛犬の代わりに鎮座するイノシシ像です。現在西宮神社に祀られている戎神は元々鳴尾で祀られていて、毎年正月九日にはここ岡太神社で恵比寿大神が災害を防ぎ五穀豊穣を祈る静止(しし)打神事が執り行われていて、神事の妨げにならないように村の人々は斎籠(いごもり)をしていました。この神事の静止と猪をかけて、イノシシが神社の使いとなったそうです。イノシシ像はそれに因んで昭和60(1985)年に建立されたものです。

平重盛供養塔

境内には供養塔がありました。こちらは平清盛の嫡男である平重盛の供養塔と伝わっています。平安時代、この辺りは平氏の所領で、重盛が「小松内府」と呼ばれていたことから「小松庄」と呼ばれていました。かつてこの神社の近くにあった「伏松」という丘には「小松城」とも呼ばれる重盛の居館があったと伝わっています。

岡太社碑

境内には古い石碑が夏の日差しを浴びて佇んでいました。

今は住宅地の広がる尼崎や西宮の武庫川沿いですが、古くからの伝説に彩られた史跡が街の中に佇んでいることに驚かされるようです。台風の季節ですが、嵐が去れば気候の良い季節が訪れるはず。少し足を延ばして歩いてみてはいかがでしょうか。

武庫川を歩いて(前編)

投稿日:


お盆を過ぎ、秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

尼崎センタープール前駅

直通特急を乗り換えて着いたのは阪神電車の尼崎センタープール前駅です。駅前にはその名の通り、尼崎競艇場が広がっています。

大庄町

尼崎センタープール前駅から離れると、静かな住宅地が広がっていました。今では競艇場や市街地になっているこの辺りですが、かつては田園地帯で競艇場のある辺りには湿地帯が広がり、蚊などの害虫に悩まされていたそうです。また、センタープール前駅の周辺は道意新田、北側のこの辺りは東新田といった地名が古い地形図には記されています。

琴浦神社

大庄町の街中に佇んでいたのが琴浦神社です。

琴浦神社の境内

木々に囲まれた琴浦神社の境内には蝉時雨が降り注いでいました。

今は小さな神社ですが、神社の前の通りが「琴浦通り」と呼ばれていることからもわかる通り、琴浦神社は歴史ある神社です。かつては海に面した高台だったそうで、周辺とは異なる景勝地だったことから「異浦」とも呼ばれていたとのこと。神社の祭神は平安時代の嵯峨天皇の皇子・源融です。源融は光源氏のモデルとも言われていて、京都六条に造営した河原院という邸宅に今の宮城県の塩釜を模した庭園を造り、モデルにした塩釜と同様に庭園で塩を焼くため、毎日ここ琴浦から潮水を京都へ運んだそうです。今では市街地となり、そんなのどかな景色が広がっていたとは思えませんね。

琴浦通りを歩く

琴浦神社の前の琴浦通りはかつて中国街道と呼ばれていて、道路沿いには街道の風情を伝える塀が設けられていました。この道は武庫川に架かる武庫川橋へと続いていきます。

次回、もう少し武庫川沿いの街を歩いてみたいと思います。

古墳と海の神・住吉を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の住吉を歩いてみたいと思います。

東求女塚公園

阪神本線の高架沿いに歩くと住宅地の中に公園がありました。こちらは東求塚公園です。公園の名前からもわかるように、こちらは東求女塚古墳という古代の古墳に整備された公園です。

六甲山麓の灘区から東灘区にかけてには西求女塚、処女塚、東求女塚の三つの古墳が並んでいます。これらの古墳には菟原処女(うないおとめ)の伝説が残されています。当時、「葦屋(あしのや)」と呼ばれていた古代のこの辺りに菟原処女という女性が住んでいました。この美しい女性に同じ村の菟原壮士(うないおとこ)と泉州からやってきた信太壮士(しのだおとこ)の二人の男性が求婚し、菟原処女を巡って争うようになります。そんな二人の姿を見た菟原処女は嘆き悲しみ、自ら命を絶ってしまったそうです。そして、そのことを知った二人の男性も後を追って命を絶ちました。菟原処女の親族は、中央に菟原処女の墓を築き、それを挟むように東西に二人の男性の墓を築いたそうです。

東求女塚古墳

公園の中央には古墳の跡があります。本来は前方後円墳でしたが、私有地だったために長らく保存されることはなく、昭和初期には浜側を走る阪神本線の高架が建設される際に多くが取り壊されてしまいました。伝説では泉州からやってきて菟原処女に求婚した信太壮士の墓とされていますが、その後の調査で4世紀後半頃に築かれたこの地域の豪族の墓ではないかと言われています。

本住吉神社

山側へと歩き、JR東海道本線の住吉駅近くへ着きました。駅の西側には木々の生い茂る森があります。こちらは本住吉神社です。この辺りの地名になっている「住吉」はこの神社の名前に由来しています。神功皇后の三韓征伐の際に、航海の神である住吉三神を祀ったことが始まりとされる神社で、一説では全国に広まる住吉三神を祭る神社の発祥の地とされています。

本住吉神社の境内

本住吉神社の境内には六甲の山並みを背景に立派な社殿が佇んでいました。

本住吉神社からの眺め

阪神住吉駅からこの場所まで、そこまでの高低差は感じませんでしたが、改めて本住吉神社から浜側を眺めると坂の下に御影駅の周辺に建ち並ぶマンションを眺めることができました。その向こうに広がるのは大阪湾です。浜手に点在する豪族の古墳と、はるか古代に建立された海の神を祀る神社は、古くからこの地が大阪湾の恵みを受けながら発展してきた地域であることを示しているのかもしれませんね。

本住吉神社からは再び海へと向かって坂道を下り、阪神御影駅から直通特急に乗ることにしました。

古墳と海の神・住吉を歩いて(前編)

投稿日:


梅雨空の広がる頃、いかがお過ごしでしょうか。こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神住吉駅

直通特急と普通車を乗り継いでついたのは阪神電車の住吉駅です。

住吉駅の意匠

特急停車駅の御影駅と魚崎駅に挟まれた住吉駅はあまり目立たない存在ですが、高架のホームへ上がる階段には丸窓が並び、どこか遊び心ある意匠があります。

阪神住吉駅が開業したのは明治38(1905)年のことで、阪神本線の開業と同時でした。当時の阪神本線は浜側の道路上に敷設されていて、路面電車のような姿でした。現在の高架線に切り替えられたのは昭和4(1929)年のことです。同時期に隣の御影駅も高架化されましたが、神戸市東灘区の拠点駅として近年も整備が進められた御影駅に対し、住吉駅は高架線開業時の姿が色濃く残されています。

住吉駅を眺めて

改札を出て住吉駅を眺めてみました。
階段には丸窓が並び、駅舎の入口にはアールのついた優美な庇があり、モダンな雰囲気を今に残しています。

住吉の街並み

阪神住吉駅から浜側へと歩いてみました。住宅や商店の建ち並ぶ市街地には酒造メーカーの看板が聳えています。

次回も住吉を歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

宮水発祥之地の碑

西宮の住宅地を歩いていると、植栽に囲まれた石碑を見つけました。こちらは宮水発祥之地の碑です。

住宅地や西宮神社の門前町として知られる西宮は灘五郷の一つ「西宮郷」とされ、灘五郷の中でも最初に酒造りが始められた地域とも言われています。室町時代、当時関西の酒造の中心であった北摂の伊丹から雑喉屋文右衛門なる人物が西宮へ移り住み、酒造業を手掛けるようになったのが始まりとされています。その後、西宮郷を始めとする灘五郷は北摂の伊丹や池田に代わって酒造業の中心となり、西宮郷の酒は「西宮の旨酒」と呼ばれて大変な人気となったようです。

宮水井戸場

宮水発祥之地の碑の傍には様々な酒造メーカーの名前が掲げられた「井戸場」がありました。各社はこちらで宮水を汲み上げ、酒造りに使っています。

六甲山地を流れる川の流れを利用した水車で効率的な精米ができることや、すぐそばの大阪湾岸の港から製品を出荷できたことから西宮を始めとする灘五郷は酒造地として発展していきますが、それを後押ししたのが江戸時代の終わりに発見された「宮水」でした。天保8(1837)年または天保11(1840)年、今も魚崎に現存する酒造メーカーの櫻正宗の当主だった山邑太左衛門が発見したと言われています。当時、魚崎と西宮で酒造会社を営んでいた山邑は魚崎と西宮とで酒の味が違うことに気づき、その要因が水にあることを突き止めました。以後、この水は「西宮の水」そして略して「宮水」と呼ばれるようになり、各社が争うようにこの水を使って酒造りを始めるようになります。宮水の力で西宮郷の酒造業がさらに発展することとなりました。

井戸場を眺めて

住宅地の中に佇む各社の井戸場は植栽やフェンスに囲まれていて、大切に守られていることがよくわかります。江戸時代の終わりに発見された宮水は六甲山のミネラルを豊富に含む硬水で、酒造りには非常に適しているようです。この宮水を守るため、西宮市では「宮水保全条例」が制定されていて、指定された地域で地下水へ影響を与える可能性のある大規模な建築工事を行う際には市への届け出や協議が必要とされています。

酒蔵通り

井戸場の浜側へ歩くと、東西の道と交わりました。こちらは通称「酒蔵通り」と呼ばれていて、通り沿いには酒造メーカーや飲食店が建ち並んでいます。

東川

酒蔵通りを歩いていると川がありました。この川は東川で、この下流には酒の積み出し港となった今津港がありました。今は住宅地や緑地に囲まれた川ですが、かつては酒を積んだたくさんの船で賑わったのでしょうか。静かな川は門前町、宿場町、そして、酒造の中心地という様々な姿を積み重ねてきた西宮の姿を見つめてきたのでしょうか。

お土産に日本酒を買って、初夏の風が吹き抜ける西宮を後にすることにしました。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

西宮神社本殿

西宮神社の本殿は改修工事中で、参拝は仮拝殿でした。大きな社殿を目にすることができないのが残念ですが、これはこれで今しか見られない貴重な光景ですね。

本陣跡と蛭児大神御輿屋傳説地碑

西宮神社を後にしてから表大門から続く道を歩くことにします。こちらはかつての西国街道です。かつての西国街道の本陣があった場所には「蛭児大神御輿屋傳説地」と刻まれた石碑がありました。

前回ご紹介しましたが、西宮神社の創建の伝説では鳴尾の漁師が海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。当初、漁師は神像を自宅で祀っていました。しかし、ある夜に神像が漁師の夢に現れて、自分は蛭児神であること、そして、鳴尾から西にある宮地に祀ってほしいとお告げがあったそうです。お告げを受けた漁師は仲間とともに蛭児神を輿に載せて西へと運びましたが、途中で蛭児神が眠り込んでしまったので尻をつねって起こしました。その場所がこの「蛭児大神御輿屋傳説地」とされています。時代が下がり、近世にはこの辺りは西宮神社の門前町と西国街道の宿場町として栄えたそうです。特に、宿場町としては西国街道や山崎街道、中国街道が交わる交通の結節点で、多くの人や物資で賑わったとされています。現在、宿場町の面影をしのぶことができるものはあまり残されていませんが、建て込んだ街並みにかつての賑わいを感じることができます。

札場跡

西国街道と交わる南北の道は札場筋線です。その名の通り、西国街道との交差点には札場があったとされていて、現在では交番になっていました。

宮水

阪神高速の高架を潜った先には小さな公園があり、「宮水」についての説明看板が建てられていました。門前町、宿場町として栄えた西宮ですが、西宮を歩く中で欠かせないのがこの宮水ではないでしょうか。

次回ももう少し西宮を歩いてみたいと思います。