せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

西郷から敏馬の浦を訪ねて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘を歩いてみたいと思います。

敏馬神社

西求女塚古墳から青谷川を渡って交通量の多い浜手幹線を歩くと鳥居が見えてきました。こちらは敏馬神社(みぬめじんじゃ)です。

敏馬神社御旅所

少し時間を遡って、こちらは大石の住吉神社にあった石碑です。この石碑に刻まれている通り、大石の住吉神社は大石浜で物資の運搬に携わる船の航海の安全を祈願するだけでなく、ここ敏馬神社の御旅所にもなっています。

敏馬神社は伝説でははるか古代の神功皇后元(201)年の創建とされ、神功皇后の三韓征伐の際に守護神を祀ったとされています。古代、敏馬神社のある場所は現在でも小高い丘になっていて、古代の海岸線が今よりも山手にあった頃には岬のようになっていたそうです。東側は入江のようになっていて、「敏馬の泊」と呼ばれる港になっていました。港の機能は奈良時代には大輪田の泊へと移されますが、この敏馬の泊が神戸に港が整備されるようになった始まりと言えるのかもしれません。

敏馬神社の境内

浜手幹線からの急な石段を上がると敏馬神社の社殿へと着きます。かつては岬だっただけあり、海岸に近く平坦なこの辺りでは珍しい高台です。

港ではなくなった後も、ここ敏馬浦は白砂青松の景勝地として知られるようになりました。近世には神社前の西国街道の沿道が栄えるようになっただけでなく、氏子地の大石味泥岩屋といった村々が酒造業で栄えるようになり、その財力を頼りに与謝蕪村とその弟子の呉春大魯が訪れ、この地でも俳人が生まれるようになりました。

敏馬浦を見下ろす

敏馬神社からかつての敏馬浦を見下ろしてみました。白砂青松の景勝地だった海岸は近代にかけて、海水浴場やボートハウス、料亭等が設けられて、一種のリゾート地として人気を集めるようになります。しかし、昭和に入って阪神電車の建設工事の際に発生した土砂で海岸が埋め立てられ、現在では阪神高速神戸線の高架橋がそびえたっていて、かつての景勝を忍ばせるものはありません。氏子地でも岩屋や味泥では酒造は行われないようになり、街の景色は大きく変わりました。しかし、今でも、敏馬神社の神輿はかつての景勝地や酒造で栄えた村々を、大石へと巡っています。

岩屋駅

敏馬神社から山手へ歩くと阪神電車の岩屋駅へ着きました。色とりどりの装飾が賑やかな駅は兵庫県立美術館の最寄り駅としても知られています。

かつて都人が憧れ、多くの文化人が足を運んだこの地は、新しい形で芸術の発信地となっているのかもしれませんね。

西郷から敏馬の浦を訪ねて(前編)

投稿日:


梅の咲く頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西郷町道路元標

前回まで歩いたのは灘区の大石です。阪神電車の大石駅の近くには「西郷町道路元標」と刻まれた石碑がありました。大石駅の周辺は灘五郷の「西郷」に当たることは前回まで歩いてきたとおりです。この西郷はかつて「上灘郷」「上郷」などと呼ばれていました。「上」があるのならもちろん「下」もあり、西側は「下灘郷」と呼ばれていました。今回は西郷から西へと歩いてみたいと思います。

船寺八幡宮

大石駅前から西に向かって小さな商店街がありました。商店街の先にあったのが船寺八幡宮です。

船寺八幡宮の境内

大石駅から続く商店街は門前町のような街だったのでしょうか。その奥に佇む神社は広々とした境内を持つ神社です。はるか古代、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地で風雨を避けたという伝説があり、平安時代の永保2(1082)年に京都・石清水八幡宮から分霊を迎えて創建されたそうです。珍しい東向きの社殿は朝日の昇る方向を向いているとのこと。

灘五郷の西は西郷ですが、近世には現在の中央区から東灘区にかけての一帯が「灘目」と呼ばれていて、「上灘郷」「下灘郷」に分かれていました。上灘郷はさらに西郷、御影郷、魚崎郷に分かれ、西宮郷と今津郷と合わせて現在の灘五郷(近代灘五郷)を形成します。一方、上灘郷の中でも西側の岩屋や脇浜といった地域や、神戸、走水といった下灘郷では、酒造は近代までに衰退してしまいました。

西求女塚古墳

住宅地の中に公園がありました。公園の名前は「求女塚西公園」で、公園の中のこんもりとした小さな丘は西求女塚古墳という前方後方墳です。築かれたのは古墳時代前期の3世紀後半とされていて、移り変わっていく街の様子を眺めてきたのでしょうか。

次回も灘を西へ向かって歩いてみたいと思います。

西郷・大石を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大石を歩いてみたいと思います。

沢の鶴資料館

住宅地の中に立派な瓦屋根の建物がありました。こちらは酒造メーカー沢の鶴「沢の鶴資料館」です。古い酒蔵を使った資料館で、館内では酒造りの様子などを見学することができます。酒蔵の資料館は現在では各地にありますが、日本で最初に公開されたのはこの沢の鶴資料館とされています。

ここ灘で酒造が始まったのは室町時代頃とされています。もともと伊丹や大阪の池田で盛んだった酒造ですが、伊丹の雑喉屋文右衛門なる人物が江戸時代の寛永年間(1624~43)に西宮へ移って酒造を始めたことが始まりとされています。その後、六甲山地からの水に恵まれた灘では酒造業が広まり、西は神戸の生田川の「下灘郷」、東は西宮の「今津郷」に広がる一帯で営まれるようになりました。ここ大石の含まれる上灘郷(のちに三分割されて西郷)で酒造が始まったのは江戸時代初めの元禄3(1690)年頃とされています。

住吉神社

沢の鶴資料館の傍には小さな神社がありました。こちらは住吉神社です。

都賀川

沢の鶴資料館と住吉神社の近くから、都賀川の畔に降りることができました。

ここ大石で酒造が始まったのは江戸時代前期ですが、それ以前、この辺りでは豊富な水を使った水車業が盛んでした。ここには菜種や綿実といった絞り種が集まり、水車で絞られた油が都市部へと出荷されていきました。先ほどの住吉神社は油などを運ぶ船の航海の安全を祈るために建立されたものです。酒造業が盛んになると、油を搾るための水車は酒米の精米に使われるようになり、絞り種や油を運び出していた港は酒米や酒を運ぶのに使われるようになります。豊富な水、水車による効率的な精米、そして、製品の運び出しに便利な港の存在は灘を一気に酒の一大生産地へと発展させることとなりました。

都賀川の河口

大石の街を歩いていくと、都賀川の河口が見えてきました。川の上に架かるハーバーハイウエイの橋の向こうには大阪湾が広がっています。

防潮堤と灘浜灯台

都賀川の河口の左岸に灘浜緑地という広場がありました。広場の一角には防潮堤と灘浜灯台が佇んでいます。ここ都賀川河口付近は「大石浜」「灘浜」と呼ばれ、天然の良港として中世の「御石」、そして、近世の油や酒の運び出しに使われてきました。現在では面影はありませんが、かつての港の場所に、御影石の防潮堤と灯台が復元され、ここに港があったことを現代に伝えています。

大阪湾を眺めて

灘浜緑地からは青々とした冬の大阪湾を眺めることができました。この海を通じて運び込まれ、そして、運び出されていった製品たちが、ここ大石や灘を発展させてきたと思うと、穏やかな海が違ったようにも見えるような気がします。

これから灘は新酒の季節を迎えます。お酒を楽しみながら、灘の歴史を訪ねてみる旅も、楽しいかもしれませんね。

西郷・大石を歩いて(前編)

投稿日:


晩冬の候、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大石駅

直通特急から阪神電車の普通車へ乗り換えて着いたのは大石駅です。

灘五郷・西郷

大石駅があるのは神戸市灘区です。灘区と言えば酒どころ。この大石駅のある辺りは灘五郷の西端にあたり、「西郷」とも呼ばれています。

旧西国浜街道碑

大石駅から「大石川」とも呼ばれる都賀川に沿って歩きます。阪神高速の下を地下道でくぐり、大石南町へ入りました。川に架かるのは西郷橋。橋のたもとには「旧西国浜街道」の碑が建てられていました。山手を通る西国街道の本街道に対して、ここ大石を東西に通るのは生活道路の浜街道でした。

「大石」の地名の由来には諸説あるようです。その一つが、もともと「生石(おいし)」と呼ばれていたこの地の舟人が神功皇后の三韓征伐の際に功あり褒賞として米十八石を賜りました。この十八石の「十」「八」を組み合わせて「大」として地名に当てたとされています。一方で、秀吉の大坂城築城の際にこの地の石を「御石」として建築資材に使ったことも由来とされていますが、それ以前の資料にも「大石」の名が出るようで、本当のところはよくわかりません。

西国浜街道を眺める

西郷橋と街並みを眺めてみました。

西国浜街道の沿道、そして、灘五郷の西郷として賑わった大石、もう少し歩いてみたいと思います。

甲山を望む・西宮廣田山を訪ねて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮の廣田を歩いてみたいと思います。

廣田神社の境内

廣田山に佇む廣田神社の境内を歩きます。
西宮の神社といえば阪神西宮駅近くの西宮神社が思い浮かぶと思いますが、もともと西宮神社はこの廣田神社の摂社の戎社でした。「西宮」の地名の由来もここ廣田神社にちなんでいるとされています。

御手洗川

交通量の多い「みたらし通り」を渡ると、御手洗川がゆったりと流れていました。山手を望むと甲山がそびえています。

今は平野の広がる西宮ですが、古代には入江のような地形で、「武庫水門(むこのみなと)」と呼ばれていました。廣田神社は入江の最奥、六甲山麓から上ヶ原へと広がる台地に位置していて、航海の安全を祈願するために建立されたともされています。ちなみに、西宮神社のある場所は入江の入り口付近の岬のようになった土地だったようです。廣田神社とともに入江を囲むように見守っていたのでしょうね。

具足塚古墳

御手洗川の対岸にはこんもりとした森がありました。こちらは具足塚古墳という古墳です。木々に覆われた古墳は私有地にあるそうで中を見ることはできませんが、古墳時代後期の6世紀前半に築かれた円墳だそうです。古代には大阪湾の重要な港湾だった「武庫水門」を見下ろす位置にあるだけあり、有力者の墓ではないかと言われています。

新池

具足塚古墳の傍には農業用のため池の新池が広がっていました。
池の向こうには西宮の住宅地が広がり、この地域のシンボルの甲山がそびえています。

六甲山麓に住宅地が広がる西宮。
住宅地の中には長い歴史を持つ史跡が眠っていて、はるか古代へといざなってくれるようでした。

甲山を望む・西宮廣田山を訪ねて(前編)

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彼岸花が咲き、すっかり秋の景色が広がるようになったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは山陽沿線歴史部の内膳正です。

広田神社前バス停

直通特急で阪神電車へ乗り入れ、到着したのは阪神電車の西宮駅
ここから阪神バスに乗り換えて、六甲山地の麓に広がる住宅地に到着しました。バス停の名前は広田神社前です。

廣田神社の参道

交通量の多いバス道から外れると、美しい松並木の続く道が続いていました。こちらはバス停名にもなっていた廣田神社の参道です。

廣田神社

参道の先には鳥居がそびえていました。こちらは廣田神社の鳥居です。

六甲山麓の住宅地の中の廣田山に佇む廣田神社は長い歴史を持つ古社です。祀られているのは天照大神の荒御魂とされる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)で、伝説では、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地に祀ったのが始まりとされています。当初は今の場所の北側の「高隈原」に鎮座していましたが、後に御手洗川のほとりに移ります。しかし、川沿いの場所で水害に悩まされたため、江戸時代の享保9(1724)年に当時の将軍の徳川吉宗の命で現在の廣田山へ移されました。西宮の神社が将軍の命で移転するとは驚きますが、それだけ古くから信仰を集めていた神社であることがわかります。

廣田神社の境内

歴史ある神社だけあり、境内は広々としています。天照大神を祀っているだけあり、拝殿は神明造ですね。

六甲山麓に佇む廣田神社、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

薬の街・道修町を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪・船場の道修町を歩いてみたいと思います。

道修町

道修町に建ち並ぶ製薬会社には様々な資料が展示されています。
この街が現在のような薬の街になったのは江戸時代の初めの寛永年間に堺の商人の小西吉右衛門なる人物が薬種問屋を開いたことが始まりとされ、享保7(1722)年には当時の将軍・吉宗が薬種問屋を株仲間として特権を与え、さらに薬の街として発展していきます。政治・経済の中心が東京に集中した今も、大阪や関西に本社を置く製薬会社が多いのは、道修町があったからなのかもしれませんね。

神農さん

道修町を歩いていると、一角のビルに「神農さん」という文字とともに張り子の虎のイラストの描かれた看板がありました。

少彦名神社

こちらのビルにあるのは少彦名神社です。

少彦名神社は少彦名命(すくなひこなのみこと)と神農炎帝(しんのうえんてい)を祀る神社です。少彦名命は日本、神農炎帝は中国の神ですが、いずれも医薬の神とされています。先ほどのビルの看板の「神農さん」は神農炎帝にちなんだ通称ですね。道修町に医薬の神を祀る社が建てられたのは江戸時代の安永9(1780)年のことで、当時、既に薬の街となっていたこの地に、やはり医薬の神の京都・五條天神社より少彦名命を勧請したのが始まりです。

少彦名神社の境内

ビルの合間に社がありました。広くはありませんが、香の匂いが漂い、どこか厳かな気分になります。

神農祭

少彦名神社では毎年11月22・23日に例大祭の「神農祭」が執り行われています。この祭礼の始まりは江戸時代の終わりの文政5(1822)年のこと。当時流行していたコレラに対し、道修町の薬種商が「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り、お守りの張り子の虎とともに神前で祈願したうえで施したことが始まりとされています。現在は丸薬の配布は行われていませんが、張り子の虎は現在も神農祭のお守りとして、授与されています。

旧小西家住宅資料館

少彦名神社から堺筋を挟んだ向こうに和風建築が佇んでいました。こちらは旧小西家住宅資料館で、コニシの本社として使われていた建物でした。現在は接着剤で知られるコニシですが、もとは道修町の薬種商として発展した会社でした。大阪の都心にあり、変わりゆく街並みに佇む和風建築は、近世・近代の道修町の風情を今に伝えるようです。

まだまだ油断はできない状況ですが、気候の良い時期になりお出かけ気分が盛り上がってきましたね。お天気の良い日には、少し遠くの街を歩いてみてはいかがでしょうか。なお、電車バスをご利用の際は感染症対策にご協力ください。

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薬の街・道修町を歩いて(前編)

投稿日:



立冬を過ぎ、いよいよ冬の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

淀屋橋駅

緊急事態宣言解除後、久しぶりに遠出をして、大阪へやって来ました。
大阪梅田から御堂筋線に乗り換えて着いたのは淀屋橋駅です。
風格あるビルの一角に、趣ある「地下鉄」の表記があります。

御堂筋

駅前を通るのは御堂筋です。
南向き一方通行の大阪のメインストリートですね。街路樹のイチョウはもう少しすれば金色に染まることでしょう。

道修町

淀屋橋駅から南に少し歩いたところで東西の道に入ると、オフィスビルの建ち並ぶ御堂筋とは違った趣の景色が広がります。この辺りは道修町と呼ばれる一角です。

道修町は大阪・船場の町のひとつで、御堂筋を挟んで東西に広がっています。不思議な地名には諸説があるようで、はっきりとはわかっていませんが、オフィスと昔ながらの建物が並ぶ独特の景色が広がっています。この街は、江戸時代から「薬の街」として知られています。その名残で、今も多くの薬品会社が建ち並び、大手製薬会社もこの地に本社を構えているところがあります。

大阪薬科大学発祥の地

オフィスの建ち並ぶ一角に「大阪薬科大学発祥の地」の碑がありました。現在は大阪医科大学の薬学部となった大阪薬科大学の前身の「大阪道修薬学校」は、明治37(1904)年に日本初の薬学専門学校として、ここ道修町に開設されました。現在、キャンパスは高槻に移転していますが、今も学校があった場所には記念碑が残されています。

感染症の流行で医療が注目されている今だから…というわけではありませんが、次回ももう少し道修町を歩いてみたいと思います。

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阪神間に眠る古墳・菟原を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘区の菟原と呼ばれた地域を歩いてみたいと思います。

処女塚古墳

処女塚古墳
を後にすることにします。

都賀川

阪神本線の新在家駅前を通り過ぎ、住宅地を歩いていくと、川に差し掛かりました。こちらは都賀川で、上流に目を向けると、冬の澄んだ空の下に連なる六甲山地を眺めることができました。

船寺神社

阪神大石駅前
からの商店街を歩いていくと、大きな神社がありました。こちらは船寺神社です。

船寺神社の境内

船寺神社は神功皇后の三韓遠征に由緒を持つ神社とされています。かつてこの地は深淵と呼ばれる入り江で、神功皇后が三韓遠征に赴く際に船を停泊させたという伝説があります。ただ、神殿が設けられ、神社の体裁になったのはずっと時代が下った平安時代の永保2(1082)年とのこと。入り江があった痕跡は見当たりませんが、かつては複雑な地形だったのでしょうか。ちなみに、現在は神社の北側を走っている阪神本線ですが、昭和42(1967)年に高架線が開通する前はこの神社の南側の今とは全く異なるルートを通っていました。

西求女塚古墳

船寺神社から西に歩くと公園がありました。単なる公園かと思ったら、こんもりとした盛り上がりがあります。こちらは西求女塚古墳です。

前回訪ねた処女塚古墳には菟原処女(うないおとめ)という女性が埋葬されているという言い伝えがありますが、こちらの西求女塚古墳には菟原処女を巡って争った男性の一人の菟原壮士(うないおとこ)が埋葬されているとされています。ただ、調査ではこの古墳が築造されたのは3世紀後半とされ、処女塚古墳よりも古いとされています。実際の被葬者ははっきりとはわかっていませんが、この地を治めた豪族の墓ではないかと考えられています。この古墳、地図で見ると前方後円墳のように見えますが、実際は前方後方墳だそうで、発掘調査では三角縁神獣鏡が見つかるなど、貴重な文化財が出土しているようです。処女塚といい、以前訪ねた阿保親王塚古墳といい、この辺りに大和政権とは異なる勢力がいて、大阪湾岸を押さえていたのであろうことを感じられ、何ともロマンがありますね。

西求女塚古墳を眺める

西求女塚古墳を眺めてみました。

市街地の中に古代へのロマンが眠る菟原、古墳だけでなく、何だか神功皇后と深淵の伝説も、この地域が大阪湾の海運の中で重要な地域だったことを感じさせますね。公園となった前方後方墳の向こうに、今とは全く異なる古代の景色が広がっているような気がしました。

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阪神間に眠る古墳・菟原を訪ねて(前編)

投稿日:



暦の上では春ですが、まだまだ肌寒い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

石屋川駅

阪神電車で着いたのは石屋川駅

石屋川

駅の下を流れる石屋川の畔に出ると、六甲山地を眺めることができました。

御影塚町

かつて御影町だったこの辺りの住所は「御影塚町」です。「御影」はわかりますが、「塚」とは…?

処女塚古墳

「塚」の正体はこちらの処女塚古墳(おとめづかこふん)です。

処女塚古墳は4世紀の古墳時代に築造されたとされています。被葬者はわかっていません。「処女塚」という不思議な名前ですが、伝説では、この地に住んでいた菟原処女(うないおとめ)という女性が二人の男性から求婚を受けますが、男性は菟原処女を巡って激しく争うようになります。それを嘆いた菟原処女は自害し、二人の男性も後を追うように命を絶ちました。村人は菟原処女の墓として塚を築いたのがこの処女塚とのことです。

処女塚に上る

処女塚古墳は陵墓にはなっておらず、墳丘に上ることができます。伝説では菟原処女の墓とされていますが、本当はこの地域の豪族の墓なのでしょうか。

阪神間の街中に古墳が眠る菟原と呼ばれたこの辺り、もう少し歩いてみたいと思います。

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