せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

西郷・大石を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大石を歩いてみたいと思います。

沢の鶴資料館

住宅地の中に立派な瓦屋根の建物がありました。こちらは酒造メーカー沢の鶴「沢の鶴資料館」です。古い酒蔵を使った資料館で、館内では酒造りの様子などを見学することができます。酒蔵の資料館は現在では各地にありますが、日本で最初に公開されたのはこの沢の鶴資料館とされています。

ここ灘で酒造が始まったのは室町時代頃とされています。もともと伊丹や大阪の池田で盛んだった酒造ですが、伊丹の雑喉屋文右衛門なる人物が江戸時代の寛永年間(1624~43)に西宮へ移って酒造を始めたことが始まりとされています。その後、六甲山地からの水に恵まれた灘では酒造業が広まり、西は神戸の生田川の「下灘郷」、東は西宮の「今津郷」に広がる一帯で営まれるようになりました。ここ大石の含まれる上灘郷(のちに三分割されて西郷)で酒造が始まったのは江戸時代初めの元禄3(1690)年頃とされています。

住吉神社

沢の鶴資料館の傍には小さな神社がありました。こちらは住吉神社です。

都賀川

沢の鶴資料館と住吉神社の近くから、都賀川の畔に降りることができました。

ここ大石で酒造が始まったのは江戸時代前期ですが、それ以前、この辺りでは豊富な水を使った水車業が盛んでした。ここには菜種や綿実といった絞り種が集まり、水車で絞られた油が都市部へと出荷されていきました。先ほどの住吉神社は油などを運ぶ船の航海の安全を祈るために建立されたものです。酒造業が盛んになると、油を搾るための水車は酒米の精米に使われるようになり、絞り種や油を運び出していた港は酒米や酒を運ぶのに使われるようになります。豊富な水、水車による効率的な精米、そして、製品の運び出しに便利な港の存在は灘を一気に酒の一大生産地へと発展させることとなりました。

都賀川の河口

大石の街を歩いていくと、都賀川の河口が見えてきました。川の上に架かるハーバーハイウエイの橋の向こうには大阪湾が広がっています。

防潮堤と灘浜灯台

都賀川の河口の左岸に灘浜緑地という広場がありました。広場の一角には防潮堤と灘浜灯台が佇んでいます。ここ都賀川河口付近は「大石浜」「灘浜」と呼ばれ、天然の良港として中世の「御石」、そして、近世の油や酒の運び出しに使われてきました。現在では面影はありませんが、かつての港の場所に、御影石の防潮堤と灯台が復元され、ここに港があったことを現代に伝えています。

大阪湾を眺めて

灘浜緑地からは青々とした冬の大阪湾を眺めることができました。この海を通じて運び込まれ、そして、運び出されていった製品たちが、ここ大石や灘を発展させてきたと思うと、穏やかな海が違ったようにも見えるような気がします。

これから灘は新酒の季節を迎えます。お酒を楽しみながら、灘の歴史を訪ねてみる旅も、楽しいかもしれませんね。