せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

城北・八代を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の城北を歩いてみたいと思います。

東光寺

住宅地の中を歩いていくと、立派な寺院が佇んでいました。こちらは東光寺です。東光寺の創建はわかっていないそうですが、中世以前にまでさかのぼる古刹とされています。もとはこの少し東側の八代御茶屋町にありましたが、後に現在の場所へ移転しています。

八代御茶屋公園

住宅地の中に小さな公園がありました。こちらは御茶屋公園です。

先ほど訪れた東光寺はもとはこの辺りにあったとされています。しかし、室町時代の末期の文明16 (1484)年に山名氏の攻撃を受けて焼失。荒廃したまま放置されていたのを、慶長8(1603)年に池田輝政が現在の場所へ移転・再建しました。跡地には池田輝政の別荘の御茶屋が造営されました。池田氏が姫路を離れた後も、御茶屋は代々姫路城主の別荘として使われてきましたが、江戸時代半ばの延享3(1746)年に暴風で崩壊し、宝暦元(1751)年頃に当時の城主の酒井忠恭によって廃止されてしまいました。比較的最近まで、土塁や池が残されていたようですが、現在では御茶屋の痕跡は残されておらずこうして公園となっています。

伝伏見天皇離宮跡碑

公園の北側には「伝伏見天皇離宮跡」と刻まれた石碑がありました。一説には東光寺は鎌倉時代の後期に当時の伏見天皇が草創し、離宮としたと言われています。こちらの石碑はそれに因んで当時東光寺があったこの場所へ昭和5(1930)年に建立されたものです。

赤鹿稲荷神社

八代御茶屋公園に隣接して、お稲荷さんがありました。こちらは赤鹿稲荷神社です。赤鹿稲荷神社は妻鹿城主だった妻鹿貞祐の息子の定頼なる人物が創始となった赤鹿家が応仁元(1467)年に創建し祀ってきた神社で、小さな神社ですが歴史があります。かつてこの場所は赤鹿の森とも呼ばれ、先ほど訪ねた御茶屋を描いた絵図にもこの赤鹿の森が描かれているとのこと。

お茶の水橋

船場川に架かる橋に差し掛かりました。橋の名前は「お茶の水橋」、まるで東京の橋の名前のようですが、こちらも御茶屋に因んでいるのでしょうか。

お茶の水橋からの眺め

お茶の水橋から船場川を眺めてみました。
古い住宅地の趣のある家々が建ち並ぶ中を、船場川が曲がりながら眺めていきます。

古くからの住宅地だった城北・八代地区はかつて姫路城主の別荘となり、近代には文教地区となり、今も閑静で落ち着いた雰囲気が漂っています。船場川や大野川を辿って歩いてみれば、賑やかな城下とは少し趣の異なる姫路を感じることができるかもしれません。

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