せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

高瀬舟が上下した川・船場川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、姫路の船場川に沿って歩いてみたいと思います。

材木町

船場川から西に分かれる船入川を遡ってみると、住宅街が広がっています。この辺りは「材木町」という地名で、その名の通り、寛永元(1624)年に本多忠政が城下の材木業者をこの地域に集めたことに由来しています。当時は船場川や船入川を通じて、城下町で使われる材木が運び込まれていたのでしょう。

見星寺

材木町には、見星寺という寺院が佇んでいました。こちらは江戸時代の初めの寛永11(1635)年に当時の城主の本多政朝が祖母の徳姫(見星院)の菩提を弔うために建立した寺院とされています。

景福寺

静かな住宅地を歩いていると、大きな寺院の山門がありました。こちらは景福寺です。

現在は姫路にある景福寺ですが、もともとは摂津国川辺郡六瀬(今の猪名川町)にありました。戦国時代に現在の播磨町に移り、池田輝政が姫路城主を務めた際に姫路の坂田町へ移されました。その後、宝暦4(1754)年に姫路へ転封された酒井忠恭の手によってこの場所へ移されました。ちなみに、江戸時代に池田氏が岡山や鳥取へ転封された際にそれぞれの地域にも景福寺が建立されていて、猪名川町に残る景福寺と合わせて「四福寺」と呼ばれているそうです。

姫路藩主酒井家墓所

代々姫路城主の庇護を受けた寺院として発展し、江戸時代の中頃に姫路藩主を務めた酒井氏の菩提寺とされた景福寺の境内には酒井家の墓所がありました。

景福寺の境内

境内には本堂がゆったりと佇んでいました。本堂の向こうの景福寺山にも歴代藩主や家臣の墓所があり、この辺り一帯が姫路藩主たちにとって大切な場所だったことをうかがわせます。

かつては高瀬舟が行きかい姫路の物流を支えた船場川と船入川、舟運の跡を辿って歩くと、姫路藩主ゆかりの地が静かに佇んでいました。まもなく木々も色づく頃、外堀沿いの道を歩いて、訪ねてみてはいかがでしょうか。