せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

廣峯・増位の山々を望む・白國を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路市街の北の白國を歩いてみたいと思います。

山道の道標

住宅地の外れの山の麓に差し掛かると、また道標がありました。表面には「右 増位道」と刻まれ、「たいし堂」「ふうら堂」の文字も見えます。

増位地蔵

右の道を進むと地蔵堂が佇んでいました。増位地蔵と呼ばれるこのお地蔵さんは麓の野里地区で鋳物師をしていた芥田五郎右衛門家により建立されたものです。野里は室町時代から鋳物の産地で、芥田五郎右衛門家は野里の鋳物師のリーダー的な存在の家でした。中世には武力を持つ豪族だったそうです。後に、芥田五郎右衛門家は随願寺の梵鐘を鋳造しますが、初代の鐘は割れてしまい、二代目の鐘は第二次世界大戦中に供出されてしまったため現存していません。

随願寺念仏堂

山の中へと進んでいくと、立派な寺院が現れました。こちらは随願寺念仏堂です。随願寺の本堂はこの先の増位山中にあり、この念仏堂は諸堂の一つですが、まるでここで一つの寺院のような立派な造りです。

増位山随願寺は聖徳太子の建立とも伝わる古刹です。中世には大寺院として発展しましたが、戦国時代の天正元(1573)年に三木の別所長治の軍勢の攻撃を受けて全焼してしまいました。今の諸堂は中世から江戸時代にかけて、再建されたものです。

随願寺念仏堂の境内

立派な門をくぐると、山の中の古刹の雰囲気が漂う境内が広がっていました。現在の念仏堂は江戸時代の文化6(1809)年に再建されたものです。先ほどの道標にあった風羅堂は俳人・松尾芭蕉の遺品を収めたお堂で、この念仏堂の裏手にありましたが、現存していません。

巡礼の道

増位山への巡礼の道はここ念仏堂から先、増位山に佇む随願寺本堂へと続いていますが、私たちはここで巡礼道を外れて白國へと戻ることにしました。

次回も白國地区を歩いてみたいと思います。

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