せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

明石市街を一望・人丸山に上る(後編)

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新年あけましておめでとうございます。
今年も山陽沿線ブログ「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします。

今回は前回に続いて、明石の人丸山を歩いてみたいと思います。

時の道

柿本神社の前を通るのは時の道です。石畳の道は風情がありますね。

月照寺

時の道に面して、月照寺がありました。

月照寺は平安時代の弘仁2(811)年に創建されたと伝わっています。創建当時の名前は楊柳寺。前回訪れた柿本神社の始まりといわれる祠が造られた寺です。この祠が造られた際に寺号を「月照寺」と改め、今に至っているとのこと。ただし、創建の地であった赤松山には明石城が築城されることとなり、現在の場所は柿本神社とともに江戸時代の元和5(1619)年に移ったものです。ちなみにこの地が「人丸山」と呼ばれるようになったのもこの時のことだそうです。

月照寺の境内

現在の月照寺の境内は広いわけではありませんが、整備された庭園は美しく、まるで京都や奈良の寺院のようですね。

月照寺山門

境内の西には山門があります。こちらはもともと伏見城の城門を移築したもので、明石城の城門として使われていたのが明治時代にこの地に移築されたものです。

亀の水

人丸山の麓に降りると、湧水がありました。こちらは「亀の水」です。もともとは江戸時代にこの地に移ってきた月照寺・柿本神社の手水として使われていたのですが、水の美味しさから名水として知られるようになったそうです。

雲晴寺

人丸山の麓の街中に寺院がありました。こちらは雲晴寺です。雲晴寺の創建時期は詳しくわかっていないようですが、江戸時代の寛永16(1639)年に当時の明石藩主・大久保忠職が姉の夫で現在の千葉県の安房館山藩主だった里見忠義を弔うために寺を整備した際に「雲晴寺」という寺号がつけられたとされています。ちなみにこの里見忠義は江戸時代の小説『南総里見八犬伝』のモデルと言われています。

宮本武蔵の庭園

本堂の裏手には宮本武蔵が作庭したものを復元した庭園がありました。江戸時代の明石城下の街づくりに宮本武蔵は深く関わっていたと言われています。雲晴寺は武家屋敷の建ち並ぶ街の東の端に位置し、広い伽藍を持って城下町の外側の寺町を形成していました。人丸山もこの雲晴寺も明石城と城下町とともに生まれた地域とでも言えるでしょうか。

今では賑やかな港町の姿の明石ですが、こうして歩いてみると、城下町として生まれ発展してきた歴史を少しずつひも解いていくような気がします。雲晴寺から山陽電車の高架沿いに歩き、現代の明石の中心市街へ戻ることとしました。

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