せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

奈良町そぞろ歩き(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、奈良町を歩いてみたいと思います。

奈良町の景色

天神社の丘を降りるとこんな景色が広がります。

名勝大乗院庭園文化館

街中にあったのが名勝大乗院庭園文化館です。
文化館の前には美しい旧大乗院庭園が広がっていました。
庭園の名称になっている大乗院は興福寺の門跡寺院で、平安時代の寛治元(1087)年の創建という古い歴史を持っていました。同時期に庭園も整備されたとのことですが、明治時代に廃寺となり、現在は庭園だけが公益財団法人の管理で残されています。暖冬のせいか、訪れた時にはまだ紅葉が残っていて、美しい景色でした。

元興寺

名勝大乗院庭園文化館より街中を歩いて着いたのが元興寺。奈良町の街並みに溶け込むような小さな寺院ですが、元を辿れば飛鳥にあった飛鳥寺で、蘇我馬子の創建と伝わる非常に長い歴史を持っています。平城遷都後の養老2(718)年に現在の場所に移り、元興寺と称するようになりました。

元興寺の境内

元興寺の境内は意外と広々としていて、冬の日差しが差し込んでいました。

平城京での元興寺は朝廷が管理する官大寺とされ、北の興福寺、南の元興寺と並び称される大寺院でした。しかし、平安時代に桓武天皇が律令制度を実質的に廃止した(諸説あります)ことで官大寺ではなくなり、以後は興福寺や東大寺の管理を経て衰退をしていきます。

元興寺の庭園

境内を散策していて、こじんまりとした庭園を見つけました。穏やかな眺めで、縁側に腰を掛けてお茶でも飲みたくなります。

衰退を続けた元興寺は室町時代には先ほど庭園を眺めた興福寺大乗院の支配下になります。江戸時代には西大寺の支配下になりますが、明治時代にはついに無住の寺となってしまいました。このまま荒れ果てていくのかと思いきや、戦中戦後には真言宗の寺院となり、復興していきます。現在では奈良町の史跡の一つとして多くの観光客が訪れています。明治維新後、奈良で多くの寺院が廃寺になった中でこの元興寺が廃寺にならなかったのはその由緒のためでしょうか。

元興寺の屋根瓦

元興寺の中で特に興味深かったのがこの屋根瓦。黄色っぽい瓦と黒っぽい瓦がモザイクのように組み合わせられています。黄色っぽい屋根瓦は飛鳥から移転の際に持ってきた瓦と言われていて、技術が未熟だったために粘土の純度が低く砂や小石などの不純物が多く含まれているために黄色っぽく見えます。黒っぽい瓦は奈良、平安、鎌倉、室町と時代によって瓦の製法が進歩して作られるようになったものです。日本の瓦の技術の移り変わりが一目でわかるこの屋根瓦は元興寺でも必見ですね。

奈良町を歩いて

元興寺からは奈良町の風情ある街並みを眺めながら近鉄奈良駅に向かうことに。「せっつ・はりま」とタイトルで謳っていながら奈良、しかも、興福寺も東大寺も訪れないという偏屈な史跡巡りでしたが、ようやく帰途に就くことにしました。

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