せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

知られざる「明石城」を求めて(前編)

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朝晩はめっきり寒くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前シリーズでは明石城とその周辺を歩いてみました。
しかし、実は、明石には今に残る明石城ができる以前にも「明石城」と呼ばれた城がありました。今回はそんな知られざる「明石城」を求めて歩いてみたいと思います。

西新町駅

スタートは山陽明石駅の西隣の西新町駅。
現在は「山陽電鉄本線明石市内連続立体交差事業」の第二期工事のために仮駅舎になっています。
駅のすぐそばには巨大な高架橋がそびえ立っていて、”新”西新町駅らしい構造物も姿を現していました。数年後にはこの周辺の景色は一変していることでしょう。

旧山陽道

西新町駅の東には国道2号線の仮橋と仮踏切があります。
山陽電車・国道と斜めに交差するのは旧山陽道
山陽電車がこの踏切を行きかう光景も間もなく過去の景色となります。

船上城

西新町駅から住宅地の中を歩いていくと、街中にぽっかりと田んぼがありました。
稲刈りが終わった田んぼは何だか寂しげですが、その真ん中には鬱蒼と茂る森がありました。
この森が別名「明石城」と呼ばれた「船上(ふなげ)城」の天守台の跡と言われています。

船上城は天正14(1586)年、秀吉の四国征伐の後に行なわれた所領替え「天正の国替え」で高槻城主だった高山右近が明石郡を与えられたことから始まります。右近は一旦、現在の神戸市西区にあった枝吉城(ちなみに、この城も別名「明石城」と呼ばれます)に入った後に、明石川の河口付近へ新しい城と城下町を築きました。それがこの船上城です。今に残る明石城よりも100年も前に、この地に大きな城と城下町があったのです。
その後、熱心なキリシタンだった右近が「バテレン追放令」によりフィリピンのマニラへ追放されてから、この地域は秀吉の直轄領となります。船上城には秀吉配下の城番が置かれたものの、城主は不在となります。しかし、この時期、船上城の城下町は瀬戸内海を航行する船が立寄る港町として非常に栄えたようです。

天守台へ

田んぼのあぜ道を歩いて天守台跡へ上ってみました。
当時はかなり大規模な城郭があったようですが、今に残る天守台は意外なほどの狭さです。かつてはそれなりの広さがあったそうですが、徐々に田んぼに浸食されていったようです。木々の中に「古城大明神」なる神社が佇んでいました。

堀の跡?

天守台跡の近くにはその名も「古城川」という名前の川が流れていました。
この川は船上城の堀跡と言われています。
この堀の南西には船上城の城郭と瀬戸内海航路の中継港として栄えた城下町が広がっていました。
次回は船上城の城下町を探ってみたいと思います。

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知られざる「明石城」を求めて(前編)” への1件のコメント

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